鬼神
三津凛
第1話
男の仕事は集金人であった。
それはなんとも陰気で嫌な商売である。当たり前だが金を払わない奴らは集金人を、便所に集る蝿のように厭う。
男は瓦斯の集金人であった。毎日毎日、瓦斯代を払わない輩の家を叩いて取り立てる。金の絡む人間の顔というものは醜い。卑屈に揉み手してなんとかやり過ごそうとする者、いきなり怒り出して集金人を追い返す者、居留守を使う者など様々である。男はもう何年もこの仕事をしている。初めは良心のあった男も次第に削れて、今では泣いて手を合わせる住人の家に土足で入って金に換えられるものを奪っていくほどになった。無理やりむしりとった滞納者の私物を懐に入れることも一度や二度ではない。
「文句あるなら、瓦斯代を払うことだな」
それが男の常套句であった。普段の鬱屈をこれで晴らしていた。
男はどこにでもいる冴えない集金人であった。妻はおらず、もちろん子どもも居なかった。瓦斯会社では全く目立たぬ男である。もういい歳である。髪も次第に薄くなり、腹は出てきた。そして生来の卑屈さから、やや猫背で歩く。男が集金に向かうと、大抵の婦人たちは嫌な顔をした。それは男の職業に対してではなく、この男が醸すこうした卑屈で陰気なものに対してであった。
それが金を集める時にだけまるで全能の執行人になったように傲慢になるのである。それだから男はもう何年も集金人を続けている。
その日男はもう半年以上も瓦斯代を滞納している家へと向かった。何度訪れても家から住人が出てくる気配はない。さすがの男も半ば諦めていたところで、瓦斯会社の方からこっぴどく尻を叩かれたのだ。
男は苛々としながらそのあばら家の戸を叩いた。板は腐っている。あんまり強く叩くとトタン屋根まで落ちてきそうだった。人の気配はするくせに、住人が出てくる様子はない。ふと見上げると、硝子窓の割目から煙が出ているではないか。
その蒸気の温かさを掌で確認してから、男はもう我慢ならぬと扉を破って家へと入り込んだ。
そこにはすっかり綿の抜けた布団に寝そべった子どもと、酷く疲れて痩せた女が瓦斯の前に佇んでいた。瓦斯は遠慮なく炊かれて、赤々と燃えている。まるで火の舌のようだ。
男はいきり立って叫んだ。
「奥さん、瓦斯代を払ってくれなくちゃあいけないよ!」
女は男を亡霊でも見たかのように眺めている。そして小さな声でまるで泣いているように手を合わせた。
「……それは分かってるんですが、なにぶん生活が苦しくて、苦しくて。赤子の薬代を出すだけでも精一杯なんです。瓦斯代なんて、とても……でもこの子の薬を炊いてやるのにはどうしても火がいるんです。どうか、どうかもうしばらく集金は待って……」
女は拝むように腰を折って男に縋った。
男はふけの浮いた女の髪が触れるのを気色悪く思った。女の肩越しに覗くと、確かに赤子は顔色が悪くあまり長く生きれるようには見えなかった。
それにしても酷いあばら家である。父親は逃げたのか、男の気配は微塵もしない。屋根も破れて雨漏りでもするのか、畳も黴だらけである。赤子は時折酷い咳をする。
男が黙っているのを不思議に思ったのか、女が顔を上げた。そこで男は初めてまともに女の顔を見た。垢で汚れてはいるものの、意外に整った顔つきであった。苦労のために老けているが、風呂に入り化粧もすればそれなりに見れる形なのではないか。
そこで男はむらむらと欲求が湧き上がった。
「集金は集金だ。引き延ばすことなんてできやしないね」
そこで女の顔にみるみると絶望が広がっていく。男は得意であった。
「……だがね、奥さん。あんたが明日の晩、俺の宿舎に来てくれるならいくらか集金は延ばしてやろう」
女はすぐに意味を理解したのか、硬くなった。
「見たところ、男は逃げちまったんだろう。その赤子だって、いくら薬を飲ませたところで良くはなるまい。捨てるか、病院の前にでも置いてきな。とにかく、明日の晩俺のところへ来るんだ。そうしたら考えてやる」
「でもだって、そんなことできるはずがありません」
女は青白くなって立ち尽くした。
「ふん、全てはお前さん次第で決まるんだ。嫌なら金に変わりそうなものを持ってくまでさ。そうさなぁ、あんたの家は酷えもんだ。こんな貧しい家は見たことないぜ。見たところ、金になりそうなのはそこで炊いてる薬くらいなもんだ」
男が薬袋に手を伸ばそうとすると、女は泣いてその手を叩いた。
「わかりました。なんでもしましょう、なんでもしましょう……でもどうか、薬だけは持っていかないでくださいまし」
「ふん、じゃあ俺の住所を教えてやるから、明日の晩に必ず来な」
男は傲慢に言い放った。
女はもうなにも言わず、途方にくれていた。
出て行くすがらに、男は笑い混じりに言った。
「そうだ、お前さん来る前は風呂に入って垢を落としてきな。それから白粉でも叩いて、帯くらい綺麗なのを着てくるんだ。いいかい」
男は上機嫌であった。
女は最後まで無言だった。
あくる晩に、男は冷酒を舐めながら女を待った。帰りに鮨を買って、それをちまちまと食べながら待った。鮨は一つだけではなく、丁寧に女の分まで買ってあった。安い鮨ではない。給料日でもないのに、男は奮発した。
それほど浮かれていたのだ。
錆びついた階段を上がる音がするたびに、その足音が男の部屋の前で恥ずかしそうに立ち止まらないか、男は興奮して耳をそばだてる。
だが遂に、夜が明け切っても女はやっては来なかった。
翌日男はいきり立ってあの家を訪れた。
今度は甘い顔を見せてやるつもりなどなかった。身ぐるみを剥がしてでも、瓦斯代を集金させるつもりだった。
腐った板戸は何度叩いても開かれる気配がない。男は苛立ちながら叫ぶ。
「いい加減にしねぇか!このアマめ‼︎」
だが不思議なことに、あばら家からは物音一つ聞こえない。そればかりか人の身じろぎをする気配すらないのだ。
この野郎、トンズラしやがったか……男は咄嗟にそう思った。
その衝動が、男に躊躇なく板戸を蹴破らせた。
部屋の中では瓦斯が付けっ放しなまま、その上に鍋が敷かれていた。鍋は空焚きのまま、置いてある。
「危ねえじゃねえか」
男は無心に灯る瓦斯へ近寄って、鍋に焦げ付いたものを眉を顰めて覗き込む。赤子の薬でも似ていたのだろうか。それにしてもおかしい。
瓦斯は赤々と燃えている。
瓦斯から目を転じると、男は思わず呻いた。
女が梁からぶら下がっている。食いしばった歯茎から涎が垂れて、ざらついて色の落ちた畳に点々と染みをこさえている。
女はほとんど半裸であった。痩せた肋と、すりこぎのような脛が一層悲哀を呼んだ。その向こうで、緑色になった赤子が動かなくなっている。
男は昨日自分の言ったことを思い出した。
「そうだ、お前さん来る前は風呂に入って垢を落としてきな。それから白粉でも叩いて、帯くらい綺麗なのを着てくるんだ。いいかい」
女の肌は垢がまるで地層のように重なり合っていた。風呂釜なんてこの家にはなかったのだ。白粉も、帯も、初めからなかったのだ。
瓦斯はまだ赤々と燃える。
空焚きにされた鍋からは、雑草の燃えるような匂いがした。薬すらも、初めからなかったのかもしれぬ。
男は緑色になった赤子と、梁からぶら下がる女を交互に見て集金袋を落とした。そこからはこの家に来る前にもぎ取ってきた何十円かが、踊るように転がった。
男はまず、付けっ放しの瓦斯を消そうとした。
瓦斯は赤く、また青かった。
空焚きの鍋をしたに落とすと、まるで人が背伸びをするように心地よく伸びた。
男はぐるぐると考え続けた。
瓦斯はしばらく消されず、それに焼かれる男の顔は赤く膨れるように見えた。
憤怒か恐れか、男の顔はまるで鬼神のようになってしまった。
鬼神 三津凛 @mitsurin12
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