風光
きのみ
風光
新しい家に引っ越して、棚というものが本当に必要なのだということがよくわかった。引っ越す前から棚が便利であることは知っていたが、棚がないと家中のものを置く場所が床しかないことを景色として見たので観念した。
棚がないから買おうと思うと伝えると彼は「そうかそうか」と嬉しそうな顔をした。毎日外で走っていて夏でもないのに日に焼けた顔が少し怖かった。「どうせ買うならなるべく早く買った方が良い。君はいつも行動を遅らせる。便利とか快適とかいうものを求めるのはごく自然なことだから、迷う必要はない。良い店を教えてあげよう。ちゃんとしたものを格安で出すところがあるんだ」と言って知らない土地と店の名前を挙げた。なにひとつ聞き覚えがないのでそこに到達できる気がしないと思って、文字にしてもらった。非常に読みやすくメモとしてこの上ないような紙片をもらって別れた。マラソンをやると地理に強くなるのだろうか。
彼が言ったようにすばやく行動に移すことはできなかった。棚があれば、ああ、棚が要る。そういう気持ちで足の踏み場を失っていった。しかしどうにも億劫でもらったノートの切れ端を見るのも嫌になってきた頃に彼女と話す機会があった。
「あらゆるものを床に置いているので屋内に個人的獣道ができた。そのうちあの家は本格的に原野に戻るだろう。原野で暮らすのは余計な苦労が多いから、棚を買うことにした」
「森の暮らしも悪くないと思うけれど。そんなに急ぐ必要があるの?」
こちらを試すような笑顔が彼女の美点かつ欠点である。
「どうだろうか。気ばかり急いているところはある。さっさと買ってしまって彼からもらった紙を捨ててしまいたい」
「焦るのはよくないことだよ。失礼だけど、あなたにとっては棚だってそんなに安いものではないのだし、慌てて買って後悔しては彼だって残念に思うでしょう。自分の気に入ったものを探すべきではないの?」
「それはそうだ。選択肢を増やすのは悪くない。躊躇を生んだとして、それは選択肢のせいばかりではないし。もう少し考えることにする。しかしそう言うからにはどこか探しに行く先のあてがあるんだろ」
先ほど見たのとはちがう、喜びの色が強い笑みを浮かべて彼女は愛用の手帳を取り出した。1,500メートルを20分足らずで泳ぎ切る彼女の筆圧は強く、特有の癖のある文字を書く。
もらったふたつの文字を見ていてこんなことを考えた。美みたいなのの価値としての不要と合理みたいなのの利益としての窮屈を戦わせて勝った方が勝ちにしよう。それはそれとして棚は早めに手に入れよう。そもそも棚はひとつでは足りない。どうせ長期戦になるのだから戦場が増えても問題ない。まだ棚は買えていないけれども、そのうち必ず一番いいやつを隅に置こう。その棚に着ない服、読まない本、使わない食器を入れよう。
風光 きのみ @kinomimi23
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