第11話 育ってゆく糸

(熱が、引かねぇな)

 ヒュウヒュウと苦しい息をつきながら、体温計のデジタル表示を見た墨児すみじは、夕食を作ることは諦めてゼリー飲料を摂ることにした。じゅうぅと音を立てて吸うことさえ、今は億劫だ。だがそれも、薬を飲んで、一晩眠ればマシになるだろう。

(昔は、よくこんな風に熱を出したっけなぁ)

 ぼんやりと、当時のことを思い出す。よく風邪を引いて熱を出す子どもだった。

 そのたびに、枕もとで墨児の髪を撫でてくれたのは――。

 ひんやりと。冷たいものがひたいに触れた。人の手の形をしているが、肌の感触はない。ただその冷たい存在が、墨児の熱を少しずつ吸い上げていくようだ。

「あんた……大人になっても、これ、やってくれるんだな」

 かわせみは微笑んでいるようだった。その笑顔がとても切なげで、一体どうしたのだろうと心配になった墨児だが、もうだめだ。瞼が重くて、目を開けていられない。

「か……わせみ……どうした……?」

 問いかけの最後は、ほとんど寝息と重なった。

 ゆえに、墨児の耳に、翠の言葉は届いなかった。

「すまない……墨児。許しておくれ」

 そうして翠は、墨児の熱が下がるまでずっと、彼の枕もとで手をかざし続けていた。


 その二日後。見舞いを持って訪ねたかおりと菊池を、墨児はドアのすき間からしっしと追い払った。目の下までしっかりマスクを引き上げで、「うつるから、帰れ!」と手を払う。

「いや、あんたねぇ。なんかヨレヨレじゃない。ほら、おうどんの材料買ってきたから。ちゃんとマスクで自衛するし、帰ったら手洗いうがいもするから。ここ開けなさい」

 かおりは体を傾けて引き戸を引っ張ろうとしたが、もともと立て付けの悪い引き戸を、今は墨児が押さえている。開かない。

「すーみーじー!」

「ゴホッ、治りかけが一番うつりやすいって言うだろ。ダメだ」

 そんな二人の攻防を後ろから眺めていた菊池が、長い腕を伸ばしてグイと引き戸を引っ張った。ヨレヨレしている墨児に勝ち目はなかった。

「きくっちー! 嫁さんにうつしたらどうすんだよ!」

 墨児が怒鳴ったが、菊池はどこ吹く風。いつものように、ツイと黒ぶちメガネを押し上げて「ご心配には及びません」と答える。

「妻には、空気清浄機をフル稼働させて待つよう言ってあります。私も帰宅次第、速やかに衣服を脱いでシャワーを浴び、夫婦そろってビタミン剤(風邪予防)を飲む予定です」

 さすが菊池、準備は万端のようである。かおりは「おぉー」と拍手した。

「ね、菊池さんもこう言ってるんだから、あげてちょうだい」

 その「お願い」の仕草は墨児にはとてもまぶしく、「ちくしょう、こんな格好見られたくないオレの身にもなれよな」と心の中で様にならない悪態をついたが、もちろんかおりたちには伝わらない。

 菊池は見つめ合っているふたりには構わず、ズイと体をもぐりこませ、玄関に侵入を果たした。

「おい、きくっちー……」

「上司命令ですから」

 ピシャリ、と音がしそうなほどきっぱりとした口調で言い、「さて、まずは布団を干して、部屋を清潔にしますよ」とすたすたと奥へ入って行った。

 残されたかおりはにっこり笑い、「ほらね、みんな心配してるのよ。私は、お食事担当」と言って、やはり玄関に入ってきた。

 あぁもうこいつら風邪菌うようよした中に入って来やがって――と思ったが、正直なところ心配してくれる気持ちは嬉しかったので、しぶしぶという様子を装って、「マスク、ぜってぇ外すんじゃねぇぞ」と釘を刺した。


 菊池が部屋の掃除をしている間に、かおりは食事の支度をした。といってもうどんなのでそれほど時間はかかりそうになかったが、念のため墨児をシャワールームへ追い払っておく。ちらりとのぞかせてもらったが、ボロい(翠さまごめんなさい)社務所にもかかわらず、水回りはきちんとリフォームされていた。こういうところにも、翠の墨児への溺愛ぶりを感じる。

「せっかくだから、おいしいもの食べさせてあげなくっちゃ!」

 かおりは張り切ってエプロンを身に着け、母に書いてもらった「特製☆おかさんの時短うまうまうどんレシピ」メモを見ながら支度にかかった。

 だし昆布を濡らしてラップで包み、10分ほど放置する。その間に、買ってきたうどんの玉を、パッケージに切れ込みを入れた状態で電子レンジで5分ほど温める。器の準備も忘れない。だし昆布に均等に水分が染みわたった10分経過後、お茶出し用のパックにかつお節を入れ、ラップから取り出した昆布とともに、水を張った器に漬かるように入れて、再度電子レンジへ。時間がなくとも、おいしいだしが取れる方法だと、母が教えてくれた。

 それから小さな鍋にだし汁を移し、調味料とうどんの玉を加えて沸騰させる。麺が柔らかくなってきたところへ、卵と軽く炒めておいた白ネギを投入、そしてひと煮立ち。これで、時短玉子とじうどんの完成である。

(あ。おうどん、このままにしとくと伸びちゃう)

 という基本的なことを失念していたかおりは、墨児の様子を見にシャワールームへ向かった。

 扉のところで墨児と出くわし、「おわっ!」と墨児から驚きの声があがる。

「おま……おま……っ! 湯冷めしないように着こんどいたからセーフだけど、いつもならこの辺で出くわしたらアウトだかんな!」

 墨児の言うことももっともで、風呂上がりにきちんと服装をととえて出てくる男はまずいない。

「ごめーん。おうどん出来たから、こっちはどんなかなと思って、つい」

「おぅ、サンキュな。でも、髪だけ乾かしてから行くな、悪い」

 髪が湿ったままでは湯冷めする可能性がある。かおりは「もちろんよ、しっかり乾かしてらっしゃい!」と告げ、菊池が頑張っているであろう寝室(というか社務所の一番奥の部屋)へ向かった。

 空いていた入り口から「どんなです?」と顔を出す。

 床に膝をついて窓の桟を拭き掃除していた菊池は、「ご覧の通りです」と答える。

「知っての通り、墨児くんはとてもキレイ好きですからね。布団を干して掃除機をかけて部屋の空気を入れ替える、それ以外にほぼすることがなくて、こうして桟の掃除をしております」

「わー、女子力にちょっと自信をなくしちゃうわ」

 かおりの部屋を掃除しようと思ったら、まず床の上にちらばっている服やら小物やらをのける作業から始めなくてはならない。

 菊池が、持ってきた紙袋から四角い段ボールを取り出した。製品の箱らしい。何か気になっていたかおりは、いそいそと近寄る。

「わぁ! 空気清浄機!」

「小型のものですが、加湿機能付きのものをご用意しました。これで、快方に向かうことでしょう」

 菊池の見舞いの品とは、加湿空気清浄機だったようだ。なかなか豪華なお見舞いである。かおりの心中を見透かしたように、「妻と、ふたり分のお見舞いです」と菊池は付け足した。


 台所に戻ると、墨児が着席していた。

「おぅ、先にもらってるぞ。きくっちー、きっとなんか色々掃除してくれたんだろ。サンキュな、ケホッ」

 菊池は「いえ」とあいまいに頷いた。

 かおりと菊池も着席し、三人でうどんをすする。

 かおりは、反応にどきどきしながら、それでも尋ねずにはいられなかった。

「あ、味はどんなかな? うどん、硬すぎない?」

「いや。だしからちゃんと取ってるっぽいし、味付けも薄味で、食べやすいよ……うどんが多少硬いくらいで、俺の胃袋は文句なんか言わねぇ」

 という感想を聞くに、やはり麺は少々硬めだったようだ。「私はわりと好みですが」と菊池がフォローを入れてくれた。

 大方食べ終わったところで、「ねぇ、聞いて! 菊池さんからビッグなニュースがあるのよ」とかおりは大げさな前振りをした。あの空気清浄機には、きっと墨児も驚くに違いない。

「? なんだよ?」

 同じく、ほぼ食べ終わりかけている墨児が尋ねた。

 菊池はツイと眼鏡の端を持ち上げ、

「実はこのたび、幸運にも第一子を授かりまして……」

と厳かに言った。

 しーん……と静まり返る室内。

 最初に声をあげたのは、かおりだった。

「お、おめでとうございます!? え、めでたい。めでたいけど何! その超ビッグニュース!!」

「ってお前知ってたんじゃなかったのかよ。いやいや、まずおめでとうきくっちー。ケホン。ってか帰れ。奥さんにうつしたらマジでヤバイ。オレが一生後悔するから、頼むから、帰ってくれ」

 うつるならもううつってますから手遅れですよ、と菊池は堂々たるものである。

「あんたなぁ、一家の大黒柱になんだろ。家族一番にしないと、ダメだろ。ケホッ」

 墨児の抗議に対して、菊池は眼鏡の奥から視線を送った。少し下がった目じり、濃い茶色の瞳は、かおりが最初に感じたのと同じ、とてもやさしい印象を与える。

 菊池はふっと口元を緩めた。

「そうです、私は、父親になったんです。父として、息子に、『風邪がうつるのがイヤだから友人の見舞いに行かない』などとは、口が裂けても言いたくありません」

「……けど」

「名前を、妻と考えているのですが。『優(やさしい)』という漢字を使いたいと思っています。家族のことも、友人のことも大切に出来る、やさしい子に育ってほしいと願いを込めて」

 墨児は黙り込んだ。

 かおりは、菊池の“えにしの糸”を盗み見た。そして驚いた。新婚の初々しい桜色だった糸は、ひとつの季節が巡る間に、瑞々しくも頼もしい鮮やかな赤色に染まっていた。その糸は、ピンと背筋を正し、真っすぐ奥さんのところへ向かっているようだ。

(あぁ、なんてキレイな色。迷いのない進み方。これが、お父さんになった菊池さんの色……)

 気が付くと、かおりの瞳には、自然とあふれた涙が溜まっていた。

 墨児があわててテーブルの上にあった布巾を引っ掴んだ。

「おい、ゲホ、どうした!?」

「なんでもないわ。なんで布巾なのよ、菊池さんは、未使用のハンカチ貸してくれたわよ」

「み、未使用のハンカチならいいんだな!?」

 墨児は大慌てで部屋を出て行った。あの様子だと、未使用のハンカチを見つけるまで部屋をひっかき回すだろう。

 菊池が、困ったような嬉しいような複雑な笑顔で、不器用な冗談を言った。

「ひょっとして、私が感動させてしまいましたか?」

 かおりは、くすっと笑う。

「えぇ、そう。菊池さんの、えにしの糸があまりにキレイで立派になって、びっくりしたのよ」

 えにしの糸は、そのまま持ち主の状態を表す。菊池の糸をキレイで頼もしいと感じたなら、それはすなわち、菊池自身がきれいで頼もしい精神を持つに至ったということなのだ。

 かおりは小さく鼻をすすった。

「ちょっぴり、うらやましい。私もいつかこんな風にって、小さい頃は、お嫁さんにあこがれていたんですよ」

「どうして小さい頃に限定するんです? お嫁さんは、いつだって女性のあこがれでしょう?」

 いえこれは独身女性が尊敬に値しないという発言ではありませんよ――と菊池は付けくわえた。

 かおりはさびしげに微笑み、首を横に振った。

「違うの。私の糸、誰にもつながっていないの……私は、誰かのお嫁さんになることはできないんです」

「誰が決めたんです、そんなこと」

 かおりは顔をあげた。

 菊池は、真剣なまなざしで、かおりを正面から見つめていた。

「今、あなたの糸が誰ともつながっていないとして。将来もそうであると、誰が決めたんですか。決めた人がいるとすれば、それはあなた自身。かおりさん、あなた自身の決めつけが、あなたの糸をしばっているんです」

 えらそうなことを言ってすみません、と菊池は謝ったが、そのまま言葉を続けた。

「私は、そういったが見えない人間ではありますが――きっと私も、最初に一ノ瀬のもとに配属されたころは、ひどい状態の“えにしの糸”を持っていたのだと思いますよ。『君、結婚できなさそうだよね』と、彼にもはっきり言われてしまいましたし」

 ところがその後、菊池はほとんど一目ぼれで現在の奥さんを見初めた。しかしアプローチ方法などまったく知らなかった菊池は、恋愛関係の本を買い込み、毎朝テレビ番組の占いコーナーをチェックし、ファッション雑誌数冊を見比べて私服のコーディネイトを学び……一ノ瀬の言うところの「隙だらけの努力」を続けた結果、現在の奥さんと“えにしの糸”が結ばれたのだという。

 当時を思い出してか、菊池は苦笑した。

「私の『恋愛行動』は、はた目にはどうもピントのずれたものだったらしく、一ノ瀬にはさんざん呆れられました。でも、同様に何度も助けてもらった。きっと、そうやって少しずつ強くなっていったんです、私の糸は」

「……糸を、自分で強固に?」

「えぇ。自分自身の努力と、周囲の助けによって。そしてとうとう、新しい命を授かるに至った」

 晴れやかな菊池の笑顔に、かおりはまた涙があふれるのを止められなかった。

「あなた自身の可能性を、あなたが縛ってはいけない。あなたにもきっと、豊かな未来が待っているはずです……さて、今日はハンカチはお貸しできませんよ。彼の努力を、無駄にすることになってしまいますから」

 ドタドタドタ――と激しい足音がして、墨児が戻ってきた。「これ!」とハンカチを押し付ける。

「い、いま箱から出した新しいヤツだから! ってかさっきより泣いてんじゃん。きくっちー、お前がそんな男だとは知らなかったぞ!」

「どんな男ですか」

 菊池の声は、笑いを含んでいる。

 かおりは、墨児から真新しいハンカチを受け取った。さわやかなブルー色の生地に、子猫二匹が戯れる姿がプリントされたハンカチだった。正直、使うのがもったいない。必死で探してくれた墨児の気持ちを考えると、使うのがもったいない。

「……りがとう。ありがとう、菊池さん。墨児」


 かおりが落ち着くのを待って、二人は社務所を後にした。墨児は心配そうだったが、まだ本調子ではなかったので無理やり社務所に残してきた。かおりからのもう一つの差し入れ、レモンシャーベットとともに。

 濃い夏の気配漂う境内から、空を見上げた。濃い青空に夕日の照り映えるオレンジの雲が漂う、光り輝く空だった。もうすぐ、じめじめした梅雨も明ける。

 菊池の後ろを歩いて石段を下りながら、そっと自分の左手の薬指に目をやった。

 そこに、糸はあった。これまでのように、ギザギザに途切れた糸ではなく、薄い夕焼け色に染まった、細いながらもしなやかな糸が、空に向かってゆらゆらと伸びていた。

(ありがとう)

 自分の左手ごと糸を抱きしめ、誰にともなく、感謝の言葉を胸に呟く。

 新しい季節に、新しい自分に生まれ変われる、そんな予感が胸を満たしていた。

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