第10話 黒髪の少年の秘密

 ちまちまちまちま……。

 自然光に満たされたこじんまりした室内で、そんな擬態語で表される作業が続いている。神社の主たるかわせみと、かいこの精、そして小さな森の精たちが、繕いものをしているのだ。以前に、墨児すみじが一部破損してしっまった、あのウェディングドレスである。

「感謝するよ、みなのおかげで、ほぼ元通りになった」

 翠の声に応え、小さな部屋のあちこちから小さな声が上がる。「いいえ、いいえ」「どういたしまして」「楽しいですよ」と、泡が弾けるように、ぽつぽつと声が上がり、ふつと消えていく。

 美しく流れるような黒髪を掻き上げる翠とは対照的に、真っ白な肌と髪と、生成りの着物を着た精がいた。蚕の精だ。透けるように白い手が持つオーガンジーと同化してしまいそうな、繊細な立ち振る舞いがはかなげな印象を与える。良質の絹が取れたと、翠に献上したその人物である。

 蚕の精が、穏やかな声で尋ねた。

「この着物は、あなた様の養い子の、嫁御よめごに与えるおつもりかな?」

 翠はくちびるの両端を上品に持ち上げた。

「そうじゃな。私はあれに与えたかったのだが、男が着るものではないと承知せぬのでな。あれが嫁をもろうた時に、与えることにしよう」

 蚕の精は控えめに頷いた。

「それがよろしかろうて。人は、独特の理をもって存在するもの。人として生きるならば、その理に従うのが道理であろう」

 墨児がいれば拍手喝采したに違いない。蚕の精は、どちらかというと人間寄りの思考を理解できる存在だった。長く、人間とともに産業の発展を支えてきた歴史があるからかもしれない。故に、蚕の精は翠にこのような提案をすることができた。

「翠どの、どうだろう。あなた様の養い子の晴れの日のために、紋付き袴をこしらえてやっては?」

 翠は、深い翠色の双眸を細め「良いね」と嬉しそうに微笑した。

「あれが私の作ってやったものを身に着けたのはいつが最後じゃったか……ランドセルを背負っていたころ、手提げ袋と給食袋を作ってやったのを、手提げ袋だけは使っておったな」

「ふむ、もう片方は使ってもらえなんだということかの?」

「そうじゃ。ピンクの給食袋は要らぬと言われたわ」

 翠は愉快そうに笑い、蚕の精は苦笑した。その時の墨児の気持ちを、大方正確に洞察したからである。片方だけでも受け取ったのは、それが墨地なりの感謝の表れであったろう。翠が作ったものならば、仕上がりの質はともかく、男の子が使うのに適当なものであったとは考えづらい。

 繕う手は休めず、蚕の精は話を続けた。

「それで、あなた様は、あの子どもを人間の営みに返すおつもりはないのかな?」

 神社の前に捨てられていた赤子。それを、神たる翠は自らの養い子として大切に育ててきた。そのことは、ともに赤子のころから墨児の成長を見守ってきた蚕の精も知っていた。しかし、人とそうでないものとでは、時間の流れが違う。流れる時間の重みが異なるのである。人は、人の理の中へ。そのほうが、墨児のためになるのではと、蚕の精は考えたのだが。

 そう聞いた翠の表情からは常の明朗さが翳り、寂しさと痛みの入り混じった

淡い微笑が言葉を紡いだ。

「そうじゃな。しかし、もうあれを、人の中に返してやることは出来ぬのだよ」

 ちまちまちまちま……。

 穏やかで、しかしどこか物悲しい沈黙は、太陽が闇に追い払われるまで長く続いた。


 かおりの先輩というのは、同じ学校の先輩という意味ではなく、同じ古本屋でバイトをしている先輩、ということだそうだ。本日はバイトのシフトがいっしょなので、終わり次第ふたりでこちらへ向かうという。

 空に向かって一本そびえたつ、少し塗装の禿げた公園の青い時計が、午後5時少し前を示している。約束の時間までもう少しだ。

 駿とふたり、待ち合わせ場所の公園を訪れた墨児は、正直なところ駿をもてあましていた――というか、苦手意識が強まっていた。何を喋ってよいかわからず、自分は微糖コーヒー、駿には炭酸オレンジジュースを買ってやり、噴水近くにあるベンチに腰掛ける。今日は梅雨の晴れ間で、空はグレーまじりの雲を浮かべながらも青く輝いていた。

 お前、親父さんにはなんて言って出てきた?と尋ねると、「ふつーに、友達と公園に遊びに行くってLINE入れといたよ」と返事があった。

(そうか、LINEなんて高度な連絡システムが使えるのか……まじでオレより優秀なんじゃ!? かおりとこいつにタッグ組まれると、オレには勝てない……!)

 心の中でどうやって男の沽券を守ろうか作戦を練っている墨児を、駿は不思議そうに見上げていた。

 そして、約束の午後5時15分。

「お待たせ! 駿くん、待った? 墨児、あんたいきなり顔が暗いわよ」

 かおりが手を挙げて、公園に駆け込んでくる。駿はぴょんと勢いをつけてベンチから飛び降り、「かわいい女の子をまつのは、ちっともクじゃないよ」と言ってかおりを喜ばせる。

(太刀打ちできねぇ……)

 墨児はさらに落ち込み、力なく片手を上げて、かおりの呼びかけに応えた。

 かおりの後ろから、軽いフットワークで歩いてきたのが先輩という人物らしい。

 長身、しなやかな筋肉のついた長い手足。動きやすそうなチノパン、薄手のパーカーといういでたちで、真っ青なサマーニットが爽やかな印象だ。青いピアスを飾った耳よりやや上で切りそろえた髪は茶髪で、「ども、初めまして」と挨拶する声も軽やか。そして何より、ニットの胸が窮屈そうなあたりが、なんともはや。

 かおりが、墨児のわき腹をつねった。

「いま、どこを見ていたのかしら?」

「イテ! や、その、男としては見なくてはいけないポイントっつーか、なんつーか……」

 最後のほうはごにょごにょ……と小さく濁したが、先輩にも聞こえていたらしく、「いいぞいいぞ、どんどん見ろよ。見たって減るもんじゃないしね」と寛大なお言葉をいただいた。

 しかし、墨児はそれ以上直視できなかった。そんな勇気がなかったからである。

 先輩が、くすっと笑った。感じのいい笑い方だった。

「あれ? 赤くなってそっぽ向いちゃったよ」

 かおりも応えて笑った。

「基本がへたれなのよ。そんなに気になるんなら、近くで見せてもらえばいいのにね」

 まったく最近の女子は!

 憤慨した墨児は一言言ってやろうと思ったが、かおり、駿、先輩が並んでいるのを見て、すぐにその意欲を失った。勝てるはずのないメンバーだと、本能が告げていた。

 先輩は、滝川理央たきがわ りおと名乗った。


「で、親が再婚したときの話を聞きたいんだっけ?」

 近くの喫茶店に移動して、理央が切り出した。

 ここはいわゆる『純喫茶』に近い落ち着いた佇まいの店で、店内は年代を感じさせるテーブルとソファー、ほんのりオレンジの光を放つステンドグラス風の照明、控えめに流れる有線のBGMで満たされている。植え込みのある窓側の席に案内された四人は、かおりと墨児、理央と駿がそれぞれ並んで腰かけた。

 理央が切り出したのは、オーダーが終った直後だ。

「そうなの。実は、この子、駿くんって言うんだけどね――」

 というかおりの説明も脳内でBGMに加え、墨児は机の溝に溜まっていた埃を、爪楊枝を使ってきれいに掃除していた。こういうのを見ると、どうにも放っておけない性分なのである。

 それぞれが注文した飲み物が来るまでに、あらかたの状況説明は終わった。

 ちらっとかおりが墨児を見て「あんたなにやってんのよ」と視線で怒られたので、すみやかに爪楊枝とティッシュをテーブルの隅に押しやった。大方の掃除は終わっていたため、墨児の気分もすっきりだ。理央は面白そうに、駿は不思議そうに、ふたりのやりとりを眺めている。

 先輩はレモンスカッシュ、駿はミックスジュース、かおりはアイスカフェオレ、墨児はカフェラテ(にゃんこアート付き)をそれぞれ手にしたところで、駿が理央に語りかけた。

「あのね、お姉さん。こーゆーのってとてもぷらいべーとなもんだいだから、すこしききにくいんだけど……」

「いいよいいよ。遠慮せず言いな」

 理央は長い指で、わしわしと駿の頭を撫でた。駿は、ほっとしたように頷く。

「あのね、お父さんはボクをつれて、あたらしいおくさんとさいこんをしたいと思うんだけど、お父さんはエミコさん……えっと、エミコさんがあたらしいおくさんになる人ね。お父さんは、エミコさんがOKならさいこんOKだと思うんだけど、エミコさんはどんな気持ちなんだろうって」

 笑子(かおりたちにとっては、今回のターゲットの女性)が駿たちを見て時折さびしげな様子を見せるという情報を、かおりが補足する。

 理央は「ふむ」と相槌を打って腕を組み、「その人、お子さんは?」と尋ねた。

 かおりが「駿くん、知ってる?」と促してみたが、駿からは「わからない」という返答が。

「そのエミコさんって人にもお子さんがいて、ひょっとしたらそれを思い出して寂しい気持ちになっちゃうのかもしれないね」

 先輩の意見に、かおりが「それって、亡くなっちゃった、とか……?」と控えめに尋ねたが、「そこまでは。でも、会いたくても会えないって状況は考えられるかも」と先輩は肩を竦めた。

 墨児はにゃんこアートカフェラテを飲み干し、席を立つ。

「ちょっと、どういう経歴の人なのか、問い合わせしてくるわ。かおり、このメモに対象者ナンバー記入して」

 かおりが書き込んだヨレヨレの紙(墨児のポケットに入っていたからで、かおりがヨレヨレにしたわけではない)を持って、いったん墨児は姿を消した。


 その後ろ姿を見送り、「やーそれにしても、市役所のバイトだっけ? ずいぶん若い人がやってんのねー」と理央が飲み物を口へ運ぶ。

 駿はストローでミックスジュースを飲みながら、

「そういえば、お兄さんってトシいくつなの? あ、お姉さんには聞かないよ!」

と言った。なかなかに将来有望な少年である。かおりは、今回の件が片付いたら、一ノ瀬に駿のことを推薦しようと本気で考えていた。

「墨児は、19歳よ。駿くんをのぞいて、この場の最年少! いろいろツッコミどころは満載だけど、お仕事はちゃんとしてるでしょ?」

 説明しながら、墨児の過去のあれこれを思い出して「ふふふ」とかおりはにやける。

「なんだい、ずいぶん仲良さげじゃないの。かおりがこんなに親しくしてる男の子、初めて見たよ」

「やだなー先輩、そんなんじゃないですよ。でも、墨児はぜんぜんイヤな感じがしないの。なんと言っても、無類のにゃんこ好きですしねぇ」

 墨児が置いて行った上着から、そっとバイクのキーを拝借する。堂々たるピンクの肉球が触り心地の良い、『ねこの手キーホルダー』がついている。

 その他、墨児の持っているにゃんこグッズの数々の話を披露すると、「かーわいい~」と女子受けは非常によろしかった。駿も楽しそうだ。

 したがって、電話が終わり戻ってきた墨児は、ニヤニヤと好奇を含んだ笑顔に迎えられることとなり、若干びびっている。

 なるべくコソコソ席に着くと(みんなの見ている前で、コソコソしても仕方ないと思うのだが)、かおりの肩口に「お前、一体何の話をしたんだよ!?」と小声で詰め寄る。

「なにって。みんなで楽しくにゃんこグッズの話をしてただけよ」

「なんだと!? くそぅ、どうしてオレのいないときにそんな話をするんだ!」

 まざりたくてしょうがないという風な墨児の様子に、またみんな笑った。


 笑いの余韻をにじませながら、理央が話し出す。

「うちの場合はね、母が私を連れて、新しい父が幼い弟妹を連れての再婚だった。後から聞いた話だと、両親の意志は『再婚しよう』ってことで結構早くから固まってたらしいんだけど、当時私が12歳、弟妹たちはそれぞれ10歳と7歳で、状況をどうやって説明したらいいのか、それぞれ仲良くできるのかって、そこが不安要素だったみたい。外で食事会をしたときには、それぞれそれなりにお行儀よくっていうのかな、ふつうに過ごせたんだけど、『これから家族になる』と聞かされて、戸惑いはしたよね。それは、弟妹も同じだったみたいだよ」

 駿が、身を乗り出して話を聞いている。

「それから、何度か外で食事会をして、少しずつ慣れてくるとお互いの家を行き来して……子どもたちの通っていた学校が違っていたから、どちらの校区へ引っ越すべきかとか、いろいろ話し合いの内容は尽きなかったな。結局のところ、妹が軽い喘息もちで、かかりつけの病院は変えないほうがいいだろうってことになって、父の家に引っ越して住むことになったの。私が小学校を卒業したらってことで話がまとまって――父と母は、きっと最大限、子どもたちわたしたちのことを尊重してくれようとしたんだと思うけど、正直なところ、なんかどんどん話が進んでいくなー、感をひしひしと感じたよね」

 理央はポンポンと、駿の頭を撫でた。

「だからねぇ。今回、新しいお母さんにどんな事情があるのかは分からないけど、駿くんがこれだけ一生懸命に、おふたりの再婚を応援してるんだからきっとうまくいくって。あたしはそう思うよ」

 その後しばらく雑談を楽しんで、「じゃあね、飲み物ごちそうさま」と理央は去って行った。


 ミックスジュースを飲み干した駿に、「どう? なにか参考になった?」と問いかけるかおり。

 にっこりと見上げる駿の笑顔に、本日の出会いは意義のあるものだったと確信する。

「うん。ぼくが、どうしたいかをきちんと伝えること。きっとそれが、父さんとエミコさんのはなしがすすむ、きっかけになると思う」

 三人連れ立って喫茶店を出たあと、ぷらぷらと歩いて駿を家まで送り届けた。

 バイバイ!と元気よく手を振る駿にかおりも勢いよく手を振り返し、おざなりにバイバイしている墨児のわき腹をこっそりつねる。墨児は、突然やる気を出して激しくバイバイをした。

 駿が家に入ったのを見届け、墨児が文句を言う。

「お前ね、気軽にオレのことつねりすぎ。ボーリョクだぞこれ……ゲホゲホッ!」

「あら、あんたひょっとして具合悪いの?」

 てっきり、苦手な女子と子どもに囲まれて自分のペースを保てなくなったのだろうと思い込んでいたかおりは、夕刻の陰りを除いてもさえない墨児の顔色に、無性に心配になってくる。

「ごめんね、気づかなくて……早く帰ろう。報告は、わたしやっておくから」

「ん。ターゲットの調査結果が出たら、こっちから連絡するよ。心配すんな、たぶん風邪だよ。むかしっから、よく熱出すガキだったんだよ、オレ」

 喫茶店に停めておいたバイクのところまで戻り、チェーンを外す墨児。渡されたヘルメットを両手で受け取ったかおりは、それをかぶり、いつものように墨児の胴体を抱え込んだ。

「ちゃんと掴まってろよ。あと、悪ィんだけど、薬局寄ってからお前ん送るから」

 かおりは、まわした両腕に、そっと力を込めた。

「……なんか、出来ること、ある? 食事でも作ろうか? 簡単なのしかできないけど」

 フルフェイスのシールドを親指で押し上げ、墨児は笑った。

「できること、ね。心配しないことかな。大丈夫、すぐ治るって」


 その日、いつものようにバイクで家まで送ってくれた墨児の後姿が見えなくなるまで、かおりは門の前で見送っていた。

 なんとも言えない、不安な気持ちを持て余しながら。

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