第2話 美少年と麦茶

 手渡されたラミネートのメニュー一覧を見ることなく、菊池は「ブラックコーヒーを。ホットで」と店員に依頼した。そして、机に突っ伏してまだ笑いの余韻をにじませている相方に向かって、「あんたは何にするんです?」とややぞんざいにうながした。

 一ノ瀬匡(いちのせ たくみ)は、目じりにうかんだ涙を小指の外側でそっと拭いながら、「ボク、レモネードがいいな。ある?」と店員に尋ねる。涙の輝きでさらに愛らしさを増した美少年に話しかけられ、若い女性店員は「似たようなメニューでしたら、季節限定のはちみつジンジャーソーダがございます」と、頬を染めながら、つとめて丁寧に答えた。一ノ瀬はそれで良いと伝え、店員はぺこりとお辞儀をすると、早歩きと小走りの中間で厨房へ消えて行った。

 四人掛けの席に二人。本当は三人で真面目な話をする予定だったのに……菊池は相方の軽率な発言に、再度文句を言わねば気が済まなかった。

「あんたね、あんなこと言ったら、不審に思われて当然ですよ。もともと我々の職務はマイナーなんだから、優秀な若手をそろえるのは急務と言っていい。せっかくあなたの眼鏡にかないそうな人材がいるというからわざわざスカウトしに来たっていうのに……ちょっと、聞いてるんですか?」

 訊かれた一ノ瀬はひらひらと手を振った。「聞いてる聞いてる」というメッセージである。そしてまた、くつくつと喉を鳴らして笑い始めた。

「だってさぁ、信じる? ハーレムとか信じちゃう? しかもお断りの理由が『私の子宮はそんな重大任務に耐えられません』って。はははは、いいなぁ、あの子。コンビニで働いてるときは、あんまり表情の変わらない地味な子だと思ってたんだけど。話してみるとビックリだよね」

 いつのまにか、スニーカーを脱いでソファの上に片膝を立てている彼を行儀の悪い男だと思ったが、今さらなのでスルーする。

 それよりも、もっと重要な用件が、今はある。

 手を拭ったおしぼりをきちんと折りたたみながら、「で、どうでした?」と一ノ瀬の見解を促す。

「うん。間違いない。はっきり見えているね、あの子」

 一ノ瀬は間違いなく請け合った。細くて白い指は、三角柱の形をしたデザートの広告塔を弄んでいたが、その言葉にふざけている要素はなかった。この男がそう言うからには、そうなのだろう。

 青空かおりという少女には、人と人を結ぶ“運命の糸”が見えているのだ。

「そうですか。いやまさか、私の生きている間に見つかるとはね……」

 菊池は大きく息を吐き出した。胸につかえていた何かを、ゆっくりを空気中に拡散させるように。体を弛緩させ、ソファのやや硬い背もたれに身を預ける。

 ちょうどそこへ、注文した品が運ばれてきた。先ほどと違う女性店員だったが、年のころはそう変わらないだろう。興味津々の体でちらりと一ノ瀬をうかがい、にっこりと笑みを返されて動きが硬くなる。頼むからこぼさないでくれよ……という祈りが通じがものか、ホットブラックコーヒーとはちみつジンジャーソーダは、無事ふたりの前に鎮座まします。菊池は砂糖の容器をたぐり寄せ、紙ナプキンの上で器用に角砂糖を半分にすると、その半分をスプーンでコーヒーに投入し、残りは細かく崩して、ナプキンを折り曲げて作った谷間から口腔内へ流し込んだ。

「いつ見ても、粉薬を飲んでいるとしか思えない仕草だねぇ」

「ブドウ糖は、脳の唯一の栄養源ですよ」

 澄まして答える菊池に、一ノ瀬が軽く笑う気配がした。


 店内のざわめき――ミドルテンポのジャズ、客たちの話し声、店員たちの動き回る気配に厨房の音、道路を走る車の走行音――そういったものたちに紛れて、彼らは本題に入った。

「記録によれば、運命の糸が見える人間が最後に確認されたのは、およそ120年前。そのころには特別外務部少子化対策課などというあやしげな部署もなく、戦後(日清戦争後)のゴタゴタで保存状態のよい資料はあまり残っていませんが、歴代の“見える”人物というのは、すべて少女と言ってよい年代の女性だったようです」

 ズズーッと行儀悪く音を立てながらジュースを飲む一ノ瀬が「自分であやしげって言っちゃったら元も子もなくない?」と突っ込むのも構わず、菊池は話を続ける。

「そして、今日我々が出会った少女は、21歳。童顔のせいか若々しく感じられたのは確かですが、もう大人の女性の年代に差し掛かっています。つまり、彼女の“見える”能力は、いつ消失してもおかしくない」

 ストローをくわえた一ノ瀬が、「で、君はどうするべきだと思うの?」と結論を促す。

 菊池はコーヒーで口内を湿らせ、「高額の報酬ですね」と返答した。

「一刻も早く、我々に協力していただく必要があります。決して表立って活躍する仕事ではありませんが、天地神明に誓ってやましい仕事ではない。事情を説明し、報酬を用意して正式契約を結び、一週間でも一日でも早く彼女の“目”を借りるのです。我々がやみくもに歩き回ることしかできなかった道を、彼女は正確に見ることができるのです。いわば、彼女は我々の道しるべとなるべき存在」

 言い切った!とばかりに胸を張る菊池を一瞥し、空になったガラスのコップを通路側へよけ、一ノ瀬はメニュー表を開いた。

「今度はパイナップルジュースにしよう。きみは?」

「私はこのままで……というか部長、私の話、聞いてらっしゃいましたよね?」

 呼び鈴を鳴らし、「聞いてたよ」と一ノ瀬は答える。

「ボクは見る“目”を持たないぼんくら上司だけど、部下の話はちゃーんと聞いているさ」

 菊池は慌てた。

「いえ、その、あなたの力にはどれだけ貢献いただいたか、計り知れない! 私が言いたいのはそういうことではなく……」

 しどろもどろになっていると、女性店員がやって来た。先ほどと同じ店員だ。相変わらず菊池のことは眼中にないようで、うっとりと夢見心地に口元をほころばせ、注文を取り去って行く。

 どう失言を取り繕ったものか、眉間にしわを寄せる菊池に、一ノ瀬はふんわりと微笑みかけた。

「真面目なのはきみのいいところ。でも、正論ばかり話すのは悪いところだよ。今、彼女たちが積極的にボクらの注文を取りに来てくれたように、例の彼女が積極的に協力してくれるようお膳立てをしてあげればいいのさ。そうだろう?」

 菊池は頷き、もうほとんど冷めてしまったコーヒーを一口すすった。

「すみません。まだまだ、あんたには敵いませんね」

「ふふ。そりゃあね。ボクはこの道20年以上のキャリアがある、特別外務部の部長で、きみの上司だもの」

 一ノ瀬の笑みはあたたかく、決して菊池を見下したものではなかった。彼の父もそうだった。親子二代にわたって、菊池には頭の上がらない頼もしい上司がついている。


「おかえりー。あら、あなた顔が赤いわよ?」

 折りたたんだバスタオルの小山を抱えた母親にそう言われ、「今日、外はけっこう暑いのよ」と逃げるようにして階段を上った。かおりの部屋は、2階の東向きの一室だ。今はもう太陽が空高くに移動し、東側の大きな窓からは目に優しい初夏の光が差し込んでいる。はたはたと音を立てるカーテンのゆらめきは、少し心を落ち着かせてくれた。

(ハーレムって。あんなの、信じるほうがどうかしているわ!)

 自分に向かって腹を立てながら、ベランダに干していた掛け布団のほこりをぱぱっと手で払う。そのままたぐりよせ、折りたたむように抱きかかえながら、体ごとカーテンを押しのけて部屋に投げ入れた。

(いくらきれいな子だからって、外国人っぽくはなかったし。からかわれたのよ。 私が童顔だからって、子ども扱いにされたんだわ!)

 ついでに、百円均一で買ったランチョンマット(室外機の上で洗濯物を平干しする用)に乗せていた枕も取り込む。それも、もさっと積み上げた掛け布団の上にぞんざいに放置してから、両足を投げ出し座椅子にへたりこんだ。

 ふーっと、大きな大きなため息がこぼれ、全身の力が抜けた。

「なんだろ、なんだかすごく疲れるバイトだった……」

 正確には、バイトの後の出来事が、であるが。ちなみにこの時、一ノ瀬のキラキラオーラと爆弾発言がクローズアップされているため、かおりの記憶の中で、菊池の存在感はありんこの影くらいの薄さになっている。

 その時、わずかに開いていた扉のすき間から手が伸びてきて、人ひとりが通れる道を作った。母が、飲み物の乗った盆を手に立っていた。

 かおりの視線は、ウーロン茶だか麦茶だか分からない飲み物ではなく、盆を支える左手の、薬指に向けられていた。歳を経て深みのある赤に染まった糸は、今なおみずみずしく弾力に満ちた健康的な輝きを放っている。その行き着く先は、父親の左手の薬指。両親は今でもときどき、おめかしをしてデートに出かける仲睦まじいおしどり夫婦である。

(いつか自分もそんな旦那さまと……そう思っていたころもあったよなぁ)

 かおりが物思いにふけっていると、母の呆れたような声が降ってきた。

「もう、取り込んだお布団くらい、きちんと整えなさいよ。お化粧品も散らかっているじゃない」

「いーのよ。母さんと父さんぐらいしか、来る人いないんだから」

 そういえば今朝使った化粧品を出しっぱなしにしていた――と試供品の瓶を手にしたところで、追い打ちをかける一言。

「お客さまよ? ささ、お待たせしてごめんなさいね。散らかっているけど、多めに見てやってちょうだいね」

 いいえお構いなく――そう言ってかおりの部屋に入ってきたのは、

「あ! さっきのハーレム男!!」

コンビニの駐車場で出会った、茶髪の美少年だった。

 彼はにっこり笑顔を崩さないまま母親に向き直ると、「ボク、学校で女の子に囲まれてばかりいて。おかげですっかり変なあだ名がついてしまいました」と、先手を打ってかおりの発言を補足している。

 かおりが驚きのあまり固まっている間に、「あらそう、ハンサムさんも大変ね。まぁ、うちのお父さんの若いころには負けるけどね、うふふ」という母親の笑い声が遠のき、部屋にはかおりと、いまだ笑顔を張りつかせている一ノ瀬のふたりだけが残されたのだった。


 階段を降りる足音が消え、カーテンのはためく音と、遠くからかすかに風に乗って流れ込む子どもの遊ぶ声が鼓膜を打つようになると。

 一ノ瀬は、笑顔から一転、むくれた子どものように唇をとがらせた。

「あのさぁ。ほぼほぼ初対面の相手に向かって、『ハーレム男』はひどいんじゃない?」

 言うに事欠いて、この図々しさ。天はこの男に二物を与えなかったのだ。

 かおりは無言で座椅子から立ち上がった。そして、入り口のドアが閉まっていることを確認し窓とカーテンを閉める。家族とご近所への配慮である。そして、仁王立ちで姿勢を正し、思いつく限りのことを大声でまくしたてた。


 その初対面の相手を、ハーレムなんて下品な冗談でからかったのはどこのどいつよ! 私が童顔だからってバカにして。これでも21歳ですからね! 成人女性なんですからね! ひとがやーーーっとムカムカした気持ちを落ち着けようとしていたところへ、なんでまたのこのこ現れるの! っていうか、どうやって入ったの!? そもそもあんた誰よ!?


 飲み物をローテーブルに置いた一ノ瀬は、「おーっ」と感嘆の声をあげ、パチパチと乾いた音で拍手した。

「すごいねぇ。どこで息継ぎしたの? ――いや、待って。罪もないぬいぐるみを投げるのはよそうか」

 イルカのぬいぐるみを頭上に掲げたかおりに対し、一ノ瀬は「どうどう」と手のひらを向ける。

 いなされた感じがして不服なかおりではあったが、大切なぬいぐるみを粗末にするのはいけないと思い直し、しぶしぶ座椅子に正座する。

 かおりの気持ちがいくらかは落ち着いたのを見計らったのだろう、菊池はナップサックからおもむろに紙片を取り出し、テーブルの上に置いた。それは、名刺だった。

『市役所特別外務部 部長 一ノ瀬匡』

 見覚えのある部署名である。

「君がまず尋ねるべきは、『そもそもあんた誰よ』の部分だね。自己紹介が遅れてごめんよ。ボクの名前は、一ノ瀬たくみ。さっきのスーツくんの上司だよ」

「えぇと……君、いくつ?」

「年齢かい? 身長・体重かい? それともスリーサイズ……ちょっと待って、短気だね。ちゃんと答えるよ。23歳。君より少しお兄さんです」

 かおりは心底驚いた。高校生か、せいぜい未成年にしか見えないこの少年が年長とは。しかしおそらく、さきほどの影の薄いサラリーマン風の男よりは年少ではなかろうか。それにしては、肩書が『部長』となっているようだが……。

「うん、正解。彼は31歳。去年入籍して、式はまだだけど可愛い奥さんとラブラブ新婚生活を送っているよ。仲人はボクがつとめた」

「ふぅん」

 道理で、とかおりは頷いた。ちらりと伺った彼の“えにしの糸”は、新鮮なピンク色をしていた。あれは新婚の初々しい輝きだったのだ。

特につもりがなくても見てしまうのは、もはや習慣と言ってよい。美容師ならば髪型を、エステティシャンなら肌の状態を、ついつい観察してしまうのは職業病のようなものだろう。むろん、かおりは職業としてそんなことをしているわけではないのだが。

「ところがねぇ」

 コツン、と白い指がテーブルを叩く音で、かおりは顔を上げた。

「ボクたちは、職業としてそれを君にやってもらいたいと思っているんだよ。ボクがこうして『のこのこやってきた』のは、君をスカウトするためさ。菊池の説明じゃあ埒がかないと思ってね」

 一ノ瀬の唇は笑みをかたどっていた。しかし、双眸は真剣そのものだった。

 かおりは、ふいに、目の前の少年から得も言われぬ威圧感を感じた。ここはかおりの部屋で、いわばホームグラウンドであるというのに、ひとりぼっちでアウェイに立たされているような心もとなさが、神経を走り抜けて全身を満たす。

 知らず、イルカのぬいぐるみを握り締める腕に力がこもった。

 そう、かおりは声に出していない。心の中に呟いただけだ。菊池という男の年齢の予想、いささかピント外れな自分の職業病のこと――。

 なのに、彼は答えた。実に的確な回答を。

「やっと分かってきたかな?」

 その笑みは、今まで同様華やかで美しいもので、それがいっそうかおりの恐怖を煽る。震える声で、かおりは問うた。

「あ、あなたはいったい誰……?」

 麦茶を飲み干し、彼は言った。

「その質問には答えたはずだよ。ボクは一ノ瀬匡。市の特別外務部の部長。菊池の年下の上司。そうそう、これまでに出していなかったボクの情報といえば、相手の心の声が聞こえることぐらいかな?」


 人間、驚くと声も出なくなるらしい。瞬きさえも忘れ、放心した体でただぬいぐるみだけをきつく抱きしめて、目の前でかおりの麦茶まで飲み干す美少年を見やった。

 そして、こんなにも心から驚き、衝撃を受けているにも関わらず、どうしても一言あるべきというのが、かおりの性格であるようだった。

「……それ、最後のやつが一番重要な情報じゃないんですか?」

「まぁ、そうともいうかなっ!」

 可愛らしくウィンクした一ノ瀬は、あつかましくお茶のおかわりを所望した。

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