五秒ボタン
宮蛍
第1話
『コイツマジで有名ユーチューバーのパクリしかしないよな。下位互換だっていう自覚がないのかこのヒカキンキッズは』
『ネタはありきたり、リアクションは平凡、トークはつまらんとかいう全てにおいて劣等種な存在。逆にどこまで面白くないものが作れるのか期待して見てるわ』
『最近のユーチューバーはマジで面白くないヤツばっかだわ。一応コイツは自分なりのオリジナリティを出そうと思って頑張ってるから見てやってるけど、スベリまくってるしな。こんな奴らがはびこって我が物顔でユーチューバー名乗ってるとか、もうユーチューブもだいぶオワコンなんやなって』
「………うるせえよ…」
書き込まれた数少ないコメントに目を通しながら、俺は思わず呟いていた。激情ではなく、静かな怒りと共に声が漏れる。その声は他に誰もいない部屋の中を反響することもなく、静かに空気に溶けて消えていった。そのまましばし、目を閉じて暗闇に視線を向ける。一片の明かりさえ見えない暗黒の世界に浸ると、虚無を感じることによって苛立った心は自制された。
少し落ち着きを取り戻した後、コメント欄からスクロールして動画本編の方を画面に写す。動画のタイトルは「激辛ペヤングGIGAMAX五分で食べてみた!!」だ。ちなみに視聴回数は驚異の二桁。グッドよりもバッドの方が多いタイトルに辟易しながら、クリックして再生する。読み込みのグルグルを落ち着かない気分で見守りながら、耳にはめてあったイヤホンを指で押さえる。ローディングが終わって、イヤホンを通して声が流れてきた。
「はいども皆さんおはこんばんちわ、新進気鋭の動画職人ハルヒコですっ!!」
第一声と同時に、感情が一瞬で暴走するのを自覚した。苛まれ、すぐにイヤホンを外す。しかしその後も音声は脳内に響く。今日の企画はですねーとか、辛ッ!!とか、これはヤバい!とか、目立った要素の一つもないつまらない言葉選びだ。秀逸さの対極にあるかのようなひねりのない発言にイライラした。どうしてこうも、面白くないのだろうか。
自分のことながら、腹が立って仕方がなかった。
一年前、俺は「新進気鋭の動画職人ハルヒコ!!」というチャンネルを作った。きっかけは単純で、大学生になって新しいことがしてみたかったのだ。中学のころからユーチューバーの動画はよく見ていたし、明るく楽しく色んな企画に取り組む彼らの姿は眩しかった。しかもあれで大量のお金が稼げるというのだから、楽な職業この上ない。小遣い稼ぎの願望も含めて、俺は大学入学と同時にチャンネルを開設して週に一本ぐらいの頻度で動画を投稿するようになった。
しかしまあ、現実は甘くない。動画なんて適当に撮ってそれでお終りだろうなんて考えていたのがそもそも甘かった。編集はめんどくさいし、台本もある程度考えないといけないので手間だ。それに何より金がかかる。お金を稼ぐためにお金を使わなければならないなんて思いもしなかった。結果として考えていたネタのほとんどは実現不可能となり、安上がりなネタは直ぐに尽きていった。それでも定期更新を維持しようとしたら、どうしたって他の人が使っているネタを輸入してくるしかない。今の俺の動画は、そういう妥協の中で生み出され続けている。
自分の動画が面白いと思えなくなったのは、コメント欄に書き込まれた偉そうな批評に反感を覚えなくなったのはいつからだろうか。
自分の動画が自分以外の誰かによって作り上げられていく、そんな感覚だけが今の俺の実感だった。
「……俺だって、金さえあれば……」
言い訳だという自覚はある。
だが思わずにはいられない。
条件の、状況の、環境のせいにせずにはいられない。
天才なのだという自負すら失ってしまったら、俺は一体何を支えにして生きていけばいい。
パソコンから顔を上げて、部屋をぐるりと見まわしてみる。四畳半の部屋は狭く、でも物がほとんどないからか広く感じられる。せいぜい薄い布団が乱雑に敷かれているくらいだ。古本や漫画、テレビといった娯楽の類はない。ユーチューバーとしての活動資金を確保しようと思った時、それらは真っ先に削った枠だった。パソコンがあれば事足りると思ったのも理由の一つではある。今となってはそれが早計だったなとよくよく実感している。
結局のところ、俺に出来ることではなかったのだ。自分なりに努力して、時間を費やしても報われない。機械も数字も嘘をつかない。ただ無慈悲に、事実だけを突き付けてくる。その宣告に、これ以上は耐えられそうもない。
資金は尽きた。根気も潰えた。
もう、おしまいだ。
そこまで考えてから、俺はキーボードをカチャカチャと叩き始めた。打つべき文面は既に決まっていて、指は脳と切り離された独自の回路で活動する。数分後、画面には文字の羅列が浮かんでいた。発光する画面の中の黒いゴシック体を目で追って、文章の確認をする。
『皆おはこんばんちわっ!ハルヒコですっ!今日はちょっと残念なお知らせ(泣)。実は最近リアルの方が忙しくなってきちゃって、動画の投稿が難しくなりそうなんだ。投稿頻度を下げて続けようかなとも思ったんだけど、やっぱり中途半端にはしたくないなっていう思いの方が強かった。だからこのチャンネルは閉鎖しようと思ってる。急な話でホントごめん。今まで見てくれた、応援してくれた皆を裏切るような形で幕引きするのはホントに心苦しい。だから、リアルが落ち着いたら絶対に返ってくる。今までよりも面白いネタを大量に引っ提げて、絶対に舞い戻ってみせる。だから今は許してくれ!!』
書き上げて、読み上げて、息を吐く。ドッと身体に疲労がのしかかったような感覚だ。心臓が落ち着かないのか、息が整わない。震える指でマウスを掴み、ポインタを動かして投稿ボタンの位置にまで持っていった。
残る左クリックだけで、全ては変わる。
カチッという音と共に、全ては終わる。
そこまで考えてから、マウスを強く握り込んで人差し指を少し高めに上げた。
下ろすまでのコンマ数秒、この決断に悔いはないと思いながら、
ピーンポーン
しかしその時、幸か不幸かチャイムが鳴った。古いチャイムが響かせたその音が俺一人だけの部屋を鮮烈に闊歩する。
どうせ宗教か、あるいは新聞勧誘だろう。であれば知らぬ存ぜぬが最適解。
俺は一瞬気を取られながらもそう判断して、再び左クリックの準備をする。両の手の平は気づかぬうちに汗に濡れている。緊張していた。それもそうかと苦笑する。
これは一つの終わりと始まり。
ある種の儀式だと思うと、少し厳かな気持ちにもなった。
息を吐く。
目を閉じて、強く開く。
これから自分がすることを見逃さないと、迎える節目から目を逸らさないと、そう決意して。
再び指を、高く上げる。
かつての自分に決別のための制裁を加えるべく、それを振り下ろ
ピーンポーン
そうとしたところで、チャイムの音が今一度四畳半の空気の中を泳いだ。場違いな少し外れた音のせいで昂っていた気はすっかり抜けてしまう。苛立ちさえも湧かず、むしろ自嘲と呆れの色が強かった。
仕方がないので応対することにして、立ち上がってからドアの方に足を動かす。適当なところまで喋らせて、本題に入る前に用事があると言えばいい。コメントを投稿するのは、その後からでも支障はない。
ドアノブを捻り、立て付けの悪いドアを開ける。ガチャっという音を聞きながら外の世界に身を晒すと、
「どうもぉ。急にお伺いしてホンマ申し訳ないですわぁ」
目の前には、黒いトレンチコートに身を包んだ細身で長身の男が立っていた。頭の上にはこれまた黒いテンガロンハットを被っており、日航の吸収率がすごそうだなというのが見た目に対する第一印象だった。
そんなまっくろくろすけの擬人化が、胡散臭さを隠そうともしない関西弁で話しかけてきた。思っていたビジョンと違いすぎて一瞬戸惑うも、すぐに声を出す。
「は?……あんた誰?」
至極当然な質問だ。見たことない男が急に現れて、怪しさを隠そうともしない。疑うのが普通の反応だろう。
「ああこれはすんまへんなぁ。わて、こういうもんでございますぅ」
歪な関西弁を改めることなく、男が頭を下げながらコートの胸ポケットから一枚の紙を差し出してくる。受け取って確認すると、小さな紙片の真ん中にはこう書かれていた。
お悩み解決コンサルタント 黒部 清
他に住所や電話番号が書かれているこの紙は、いわゆるところの名刺というやつだ。声に出しながら読んでみても、さっぱり意味が分からない。
「……何だよ?お悩み解決コンサルタントって?」
「簡単に説明するとですねぇ、皆さんが抱えているお悩みの解決に協力するっていうお仕事ですぅ。もちろん完全無料で、手数料や代金はいただいておりません」
枯れ木のような細さと脆さを感じさせる黒部清と名乗った男は、言葉を締めると同時に口角を無理やりに上げた薄気味悪い笑顔を顔に張り付け、精一杯の愛想をまいてくる。ニヤっという擬音が聞こえそうなほど不気味なその顔を見つめていると、恥じたのか帽子を深めに被ることで顔を隠してきた。
……何だコイツ、よく分からないやつだな。というか、とりあえず語尾を伸ばしてアクセントの位置を変えれば関西弁になるとか思ってないか。そんな適当な考え方で商人のモノマネを使うだなんて、いつか絶対に痛い目見るぞ。
心の中で毒づきながら、それでも黒部と名乗った男の発言を思い返す。
悩みを解決する、ねえ。しかも完全無料で。胡散臭いことこの上ない。どうせ長引くにつれて適当な理由を付けて金をせびってくるのだろう。
それならいっそ、ここで一ついたぶってやろうじゃないか。気に食わないし、気に入らない。いっそ動画を回して最終回のネタにしてやろうかとも思ったが、面倒だったのですぐにやめた。
それに何より、こういう醜い部分は他人に見せるモノでもないからな。
「……どんな悩みでも、本当に解決してくれるんだな」
「はぁい!勿論でんがな。何なりとお申し付け下されば、あらゆるお悩みの解決に尽力させていただきます」
これで確認は取れた。
そしてだったら、お前には絶対に応えられない悩みをぶつけてやる。
「じゃあさ、金くれよ。今資金が足りないんだよね。ざっと百万ぐらい、今すぐ出してくれないかな」
やや高圧的に、お願いというより命令という口調で、俺は「お悩み」を突きつけた。
こいつは俺から一切お金を取らないと言った。
それにどんな悩みでも解決してくれるとも言った。
つまり俺がコイツからお金をもらえば、一方的なお金の流れが出来る。
「アンタが本当に何でも悩みを解決してくれる存在なら、これぐらいは無理難題でもなんでもないだろ?早く解決してくれよ」
それが出来ないなら、今すぐ消え失せろ。
言外にそう伝えるような口調で黒々しい男に言い放ち、背筋を張って向かい合う。深めに被られた帽子のせいで表情は窺えないが、俺の言葉に反応して唇はキュッと引き締められていた。いい気味だと思い、今度はこちらがほくそ笑む。久しぶりに欲求が満たされて快感を覚え、このままコイツの慌てふためく様子を見たい衝動に駆られる。
とはいえいつまでも玄関の前に立たれていては迷惑だ。早々に切り上げようと思い、無言のままにドアに手をかける。
そのままドアを引っ張って閉め切ろうと思ったのが、
「……お金の問題、そんなに困ってるんなら、わてが確実に解決してやりましょ」
男はゆっくりと顔を上げながらそう言ってきた。不格好な関西弁も、歪な笑顔もそのままに、しかし確かな自信を滲ませる態度で、そう言い放った。
思わず動きを止め、自分の耳を疑う。ドアノブから手を離し、男に対して不信感を募らせながら再三問うことにした。
「……あんた、今解決するって言ったのか?」
「ええ、もちろんでっせ。お客さんがそれでお悩みになっているのなら、わてはその要因を全力で取り除いてみせます」
「…今すぐにか?」
「お客さんが今すぐの解決を求めているのなら、そうしましょか」
そう言いながら男は、いや黒部はコートの内側を手でまさぐり、それから茶封筒を一つ差し出してきた。その茶封筒は確かな厚みを帯びていて、受け取るとずっしりとした重みを感じた。慌てている俺のことを余裕の面持ちで眺めながら、黒部は茶封筒からスッと一万円札を見せてきた。一人二人と、福沢諭吉が茶封筒からその顔を覗かせる。
「確か百万円でしたよなぁ。これでどないですか?」
黒部はこともなげに大金を渡し、そして相変わらず不気味な笑顔を浮かべている。しかし不思議なモノで、今となってはその歪んだ表情に不快感を覚えない。きっと笑うのが苦手なんだろうと適当に思いながら、手に乗っかっている金の重量感に触覚を研ぎ覚ました。味わったことのない未知の感覚に震えながら、おずおずと声を絞り出した。
「…ホントに?ホントに百万くれんのかよ?俺はあんたに一切お金を支払わないのにか?」
「当たり前ですがな。わてはお客さんの笑顔が一番大切なんやからなあ」
それはおそらく、「どうして?」と俺が訊くのを予想した上での回答だったのだろう。普段ならば綺麗ごとの戯言をと一笑に付すところだが、こうして目の前に金を差し出されてしまえばその言葉を疑うわけにもいかない。
俺は犬のように呼吸を荒げながら黒部と目を合わせ、早くこの金をよこせと訴えかけた。黒部は何故か、未だ茶封筒から手を離していなかったのだ。
「まあまあ少し落ち着きなはれや。確かに料金は頂かんけど、代わりにこっちだってやってもらいたいことがあるんですぅ」
そう言いながら再びポケットに手を突っ込み、今度は今までよりも格段にへんてこりんなモノを出してきた。それは百均で売っていそうな安っぽいボタンだった。押せば青く点滅する、学生がクイズ大会をする時なんかによく使う道具だ。
これは何かと視線をやると、黒部が目を細めて一段と顔を崩し、それからまたあの不格好な関西弁で説明してくる。
「これは「五秒ボタン」っちゅう代物でしてねぇ。百万円を差し上げる代わりに、これを一回押してもらえまへんか?」
そう言いながら、ズイッと目の前にボタンを差し出してきた。その言葉を聞いて、一瞬身体が強張った。
「五秒ボタンって……。おい!それって、あの五億年ボタンと同じような代物じゃねえだろうな?」
五億年ボタンは、最近ネットの掲示板を中心に流行りだした一種のオカルト話だ。
百万円と引き換えに、ボタンを押したものは虚無の空間に五億年の間幽閉される。しかし現実世界では一秒も時間は経過しておらず、さらに使用者は現実世界に戻ると同時に五億年の幽閉期間の記憶の一切を失ってしまう。結果として使用者は繰り返し五億年ボタンを使用し続け、最終的には精神が摩耗して死んでしまうという、そういう物語だ。
五秒ボタンというその名前は、あまりに五億年ボタンと似すぎていた。差し出された百万円に対しても、視界に写る黒部に対しても警戒的となり、腰を落として重心を下げる。いざとなれば、掴みかかってでも追い返さなければならない。
「おい!どうなんだよ?!それも曰く付きの代物じゃねえのかよ?!」
「まあまあ落ち着きなはれって、ちゃんとこのボタンについても説明しますがな」
やや荒げた声にも動じず、黒部は笑顔を崩さない。その余裕の面持ちにイライラしながらも、続く言葉を待つためにひとまずは言葉を飲み込んだ。そんな俺の様子を観察しながら、黒部が説明を始める。
「お客さんの予想通り、確かにこれは五億年ボタンに近い代物。ボタンを押せば異空間に飛ばされるっちゅう点、異空間に飛ばされてる間現実では時間が経過しないっちゅう点に関していえばほぼ同じ。でもあんなえげつないものとは全然違いますぅ。二点、五億年ボタンとは大きく違う部分がありますからぁ」
そこで区切って、黒部は茶封筒に置いていた手を掲げてそのまま日本の指でピースサインを作った。立ち上がった人差し指と中指を睨んでいると、目の前から笑い声が聞こえる。目線を移し、いいから早く説明しろと訴えると、肩をすくめながらも再び口を開く。
「まぁず一つ目、それは異世界にいる時間がたったの五秒っちゅう点ですわ。五億年も知らん世界に閉じ込められるようなことは絶対にありまへん」
得意げに話す黒部を見ながら、それは当たり前だろうと思う。五秒ボタンという名前からして、隔離される時間は五秒に決まっている。
ふむと頷く俺を見て、黒部が何を思ったのかは分からない。奴はただ、立てた二本指をカニかザリガニのように動かしながら、俺のことを観察していただけだ。まるで俺の運命の糸を切るかのように、チョキチョキと指バサミで遊んでいただけだ。
そんな手遊びに飽きたのか、あるいは俺が理解したことを感じ取ったのか、黒部は早々に説明の続きを話し始める。
「そして二つ目、それは記憶が残るっちゅうこと。五億年ボタンみたいに記憶がなくなるようなことはないっちゅうことです」
それは納得のいく、想定していた部分だった。何せ移動時間はたったの五秒だ。その五秒の間の記憶さえ失われるとは考え難い。
「他には?本当に他には何もないのか?」
提示された二つの条件を聞く限りだと、完全に五億年ボタンの上位互換だ。流石に話が上手すぎる。あり得ないと理性が拒絶を示していた。
「まああるにはありまっけど、大したことじゃありまへんよ。この五秒ボタンは一回しか使えないとか、それぐらいでっから」
「一回だけ?それはつまり、ここで使ったらもう二度と使えないってことか?」
「ええ。申し訳ないでっけど、こっちのボタンは五億年ボタンと違って乱用は出来まへん。そういう決まりになってもうてるんです」
すんまへんなぁと言って黒部は謝ったが、ある意味では当然の話だ。どう考えてもこの話は旨すぎる。デメリットがほとんどないのに、メリットがあまりに大きい。適当なホラ話だろうという推測は、しかし手に依然乗せられている百万円の重みによって消えていく。
冷静に考えて、乗らないわけがない話だった。
「さあ、説明は一通り聞いて頂きましたけど、どうしまっかね?押しまっか?それともやっぱり押しまへんか?」
黒部が今一度、ボタンを目の前に差し出してきた。
この安っぽいちんけなボタンを一回押すだけで、俺は百万円を手に入れることが出来る。そしてそれだけの潤沢な資金があれば、俺の動画のクオリティは確実に向上する。本当に俺がやりたいことが出来れば、本当におれがやりたいネタが出来れば、今まで俺をバカにしたやつらを絶対に見返せる。
だから俺は、今このボタンを押すんだ。
扉を開くために、道を歩むために、目的地にたどり着くために、今このボタンを押すんだ。
さっき、マウスをクリックしなくてよかった。
運命の神様とやらに感謝しながら、俺は右手の人差し指をボタンの上に乗せ、
そして今度は、躊躇うことなく指を下ろした。
カチッ
その音と同時に、俺は何かに貫かれた。
下腹部の、骨によって内臓器官が守られていない辺りに鋭い痛みが走り、その刺激が神経を通って脳に達する。痛みに耐えかねてうめき声を上げようとすると、今度は背中側を刺された。吐き出す予定だった空気は喉から漏れ出て息が詰まる。酸素を取り込むことさえ出来ないまま、訪れた二つの痛みの前に膝から崩れて身体を床に打ち付けた。ドンという音が遠く、続けて意識も遠のいていく。
しかし立て続けに、今度は鈍痛が全身を襲った。細胞の一つ一つがハンマーで直接叩かれているかのような衝撃に苛まれ、意識は強制的に肉体に束縛される。安らぐことさえ許されぬ痛みの連投に顔を歪め、声さえ出ないまま口を開けた。喉の奥で絡まったタンが震え、自分のモノとは思えない声だけが響いた。
ナンダコレハ
ナンダコノイタミハ
浮かび上がる疑問の回答の代わりに押し付けられたのは、あまりに純度の高い「熱」だった。生きたまま火葬場に放り込まれたような、皮膚が、肉が、骨すらもが発火したような感覚だ。灼熱という言葉が相応しい熱量の前に、それが痛みなのかどうかさえも判然としなくなっていた。身を丸め、ただ耐える。声なき声を漏らしながら、全身を襲う未知の痛覚を耐え抜こうと決意する。
でもそんな決意さえも塵にするように、今度は身体の中を電流が駆け巡った。その衝撃は、理科の実験でやる静電気なんかでは比べものにもならない。鋭くも感覚を鈍く残し続ける痛みが身体を縦に貫いて、全身の筋肉が硬直する。身体を動かすことは出来なくて、開いた口の端から唾が外に流れていった。水分不足故にドロッとした質感を帯びた唾液が顎を伝う。不快だとは思わなかった。いや、思えなかった。
そもそも、こうして何かを考えることさえもう出来なかった。
ただ遠くから、叫び声が聞こえていた。
「゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ」
山田晴彦は笑っていた。
山田晴彦は笑っていた。
山田晴彦は笑っていた。
そして不意にうつ伏せの状態から起き上がり、手元にあった百万円には見向きもせずに開け放たれた扉から外の世界に飛び出して、
そして、声を上げて笑った。
秒針が、三〇度だけ傾いた世界の物語だった。
『七月十二日』
「最近のハルヒコさんの動画マジでヤバすぎっ!!ハンマーで思いっきり身体を叩いても余裕の笑顔とか、他の三流ユーチューバーだったら絶対できないことやろっ」
「この人昔は可もなく不可もない、毒にも薬にもならない動画ばっか投稿してたのに、急にめちゃくちゃ面白いのブっ込んできたな。突然のキャラチェンジ。だがそれがいい!!」
「流石ハルヒコさん、俺達には出来ないことを平然とやってのけるッ!そこにシビれるあこがれるゥ!!」
『七月十四日』
「おいおい今度は包丁とか、どこの圧倒〇不審者の極だよww。コイツマジでどうしたんだ急に。今まで別にそんな過激なことやってこなかったのにな」
「これって何か病気とか神経(痛覚?)異常とかの類なの?流石に自分の身体に包丁刺してにっこにっこに―は反則だろ。いつか死ぬんじゃないのか?」「分かんねえけど、とりあえずうp主が満面の笑みを浮かべている辺り大丈夫なんじゃないか?」
「やば、ヤバすぎるユーチューバー見つけちゃったわコレはww。最近流行りの炎上系ユーチューバーの倍は面白いだろこんなの」
「4:10 ここ面白すぎな」「それな」「あんがと」
『七月十七日』
「何かピカソにもこんな逸話なかったっけ?実家に帰った元カノと話すために自分の手をロウソクで炙るみたいなやつ?記憶違いかもしらんけど」「マ?ヤバすぎやろ?」「ハルヒコはピカソだった!?」
「今回はまた今までの中でもヤバ目な奴が来たな。ってか本当このニヤニヤ笑顔ホンマに気持ち悪いな。何かゾクゾクする奇妙な怖さや」「分かるで。ワイもや」
「ハルヒコさん、本当はこういう系が昔からやりたかったのかなあ。だとしたらあんな月並みな企画やらないで最初からフルスロットルで行けばよかったのに」「初っ端からかましたらドン引きされるって思ったんやろ」「だとしたらもっとアンケートとか実施しそうなもんだけどな」「急に天啓訪れたんじゃね」
『七月二〇日』
「皆さんこんにちは。あした七月二一日のごご一〇時からライブはいしんします。よければ足をはこんでください」
「マ?ライブ?」
「これはヤバいのブっ込んできたな」
「相当盛り上がるんちゃうか?楽しみやな」
「ライブ楽しみにしてます。とりあえず今日は寝ます」
「また明日まで生きる希望が見つかってしまった」
「【悲報】俺氏明日遅番なのでライブ見れない。アーカイブとか残しといてくれませんかね」
「ライブかあ。大丈夫かな?ネタそんなに残ってる?」「詳しく知らんけどまあ探せばあるやろ。下手すりゃ拷問器具とかだって密林さんで買えるんちゃうか?」
「七月二一日」
「ライブ始まったぞお」
「これはワクワク。期待しかない」
「こんばんは」
「こんばんわです」
「やってるか?今日も見に来たぞ」
「初見ですこんばんは」
「間に合ったか?まだ始まってすぐだよな?」
「ダイジョブダイジョブ、まだオープニング」
「こんばんわーーー」
「今日はコメ欄が活発でいいな。賑やかなのは良きことなり」
「お?もう早速一発目行くのか?」
「最初はスタンガンか。護身用のヤツかな?」
「スタンガン!!」
「スタンガンとか、最初から飛ばしてますねえ、やりますねえ」
「今夜は激アツな予感」
「結構バチバチしてるな。本当に護身用か?」
「下手しなくても死にそうなコレでさえハルヒコさんなら余裕なんだろうなあ」
「早くやれよ、もう前振りいらねえだろ」
「刺せ刺せ刺せ刺せ刺せ刺せ刺せ刺せ」
「おっ!」「キタコレ」「ktkr」「wwwwwww」「これはこれは」「相変わらずの余裕の笑みワロス」「草」「スタンガン喰らってにっこりとか」「これはキルア」「家庭の事情でね(ドヤ」「ヤバヤバす」「最初っから飛ばしてんなあ」「今日これで終わりじゃないよな」「wwwwwwww」「ワロタ」「ハルヒコさーーーん」「感じてんのかコイツはホンマに」
「??」「どした?」「何か動き止まってん?」「ハルヒコさーーん?」「ラグか?何か動き止まってんだけど」「ホンマや動いとらん」「動いてないのにこの笑顔」「シュールな光景だなあ」「これは事案発生か?」
「あれ?これマジで事案発生してんか?」「うわっ、放送事故や」「いやいやハルヒコさんだぞこの程度楽勝だろ」「でもちょっとヤバくないか?」
「!!」「倒れた!」「うわ―――事案確定ですわこれは」「マ?」「いやいや演技やろ、あんなににっこりしてたやん」「自己事故」「うーん画面から外れてるせいで顔見られへん」「これはネタか?」「事故だーーー」「けど流石にネタではないやろ」「は?」「マジで死んだんか」「いやネタやって」「[悲報]ようつべのライブで死者」「誰かこの中にお医者様はいませんかーー」「死死死死死死」「GAMEOVER」
「あ、これ死んでるわ」「ここまで来たら死亡確定やろ」「もう十分、俺たちは何を見せられているんだ」「これは……」「これは自殺現場ですね(キリッ」「死んでもうたんか、ワイらのハルヒコは」「ハルヒコついに死んだんか」「今北産業。状況掴めないんだが誰か教えて」「ハルヒコ死んだっぽい」「ハルちゃんは星になった」「なんでや!!」「マ?詳しく」「スタンガン刺して愉悦したと思ったらバタンキュー。そのまま十分経過して今に至る」「うわ……」「え……」「アイツも所詮は人間だったのか」
「つまらんな」
「それな」
「ハッキリ言ってクソ」
「コイツ何で死ぬかね」
「実際あり得ん」
「死なないと思ってたのになあ」
「俺友達とコイツがいつ死ぬか賭けてたのに、今日死んだせいで破産だわマジあり得ん」
「これは視聴者舐めてる」
「コメ欄辛辣で草。そんなにイカれたヤツ見たけりゃリンク張ってやるわ」
「マ?」
「コイツ有能か?」
「はよ!リンクはよ!」
「ほれよ」
「神だわコイツ」
「ヤバすぎ」
「このコメ欄皆闇も業深くて草」
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