グッバイ

望月 憂

勿忘草


夢を見ていた。

それもとてつもなく永い夢を。


夢の中では、みんなが笑っていた。あの頃、穏やかな幸福が、この日常が続くことを心から望んでいた。変わらないでいたかった。


---時間は流れるものだというのに。


「お前は幸せになりなよ。」と、どこか淋しそうな彼らしくない最期の笑顔を今でも思い出してしまう。あの時の身体の感覚も、鼻につく匂いも、視界に広がる〈赤〉も頭に焼き付いている。


忘れたくない、絶対に。彼の記憶にしがみついて生きていきたい。誰に、どれだけ未練がましいと言われても。


そんなことを言ったって人間の記憶力というものには限界がある。私だって、とっくに分かっている。


彼の顔だって、匂いだって、声だって、

---ああ、いつか、忘れるのだろうか。


「ずっと笑っていたかったな、」呟いた声が掠れて冷たい涙が頬を伝っていった。

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那子は、--またあの夢か、と嫌気がさしながらゆっくりとベッドから起き上がる。


いつになったら私は諦められるのかな、

いつになったら、とずっと終わらないであろう問いに飽き飽きする。


寝起きで重い頭を抱えながら立ち上がり、

鏡の前で自分の身体を見つめる。〈それ〉は今日も汚い。ああ、良かった。今日も変わらない。そのことに安心する。毎日、同じことを繰り返している。朝起きる、鏡で〈それ〉の確認をする、胸を撫で下ろす。


変化は怖い、心底そう思う。


そのままぼんやりと突っ立っていると、軽いトントンという階段を上る足音が聞こえた。来る、と気付いた瞬間指先がピクリ、と微かに震える。口を微かに開いて息を吸って、ゆっくりと吐く。落ち着け。わたし。


「---那子?」


躊躇したような小さなノックの後に、何故か怯えたような声で私の名前を呼ぶ。


「はい、お母さん?」


震える手を痛いくらいに握りしめ、平常心を装ってドア越しに答える。


「あの、新しい学校、頑張って、それだけ」


「ああ、わざわざありがとうございます、頑張ります」


どこまでも他人行儀だな、思わず苦笑を滲ませる。ドアに鍵などついていないのに開けようとしない私たち。ドア越しに会話をする母と子。交わることなど出来ない。交わりたいのかも、分からない。


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グッバイ 望月 憂 @yuu20mochi

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