鯉とブラフマナ

安良巻祐介

 すべらかなるマヌ板の上に乗せられた一尾の緋汐鯉は、名前の通り鮮やかな緋色の身をじたばたと跳ねさせて、迫り来る庖丁の刃から逃れようとしていた。

 洪水を生き延びた印度神話中の人物の名を持つこのマヌ板、普通のまな板よりも、水生類を捌くのに適すると言われている。

 それというのは、かの神聖な人物の加護によって、単なる殺生ではなく、神の下賜物として、浄土の波に洗われた魚を食べることができるからだそうだ。

 近所のスーパーマーケットで買ってきた青魚でもそうだと言うのだから、名高い明神堀で密漁されたこの汐鯉などは、さぞかしふさわしく、また美味に喰らわれることであろう。

 そうやってうきうきと、鯉の首に庖丁を入れたところで、ふと、あることに気がついた。

 今しも紅葉の血潮を刷いて、刃の下に旨そうな桃色の肉を覗かした鯉の身が、ざらぞらざらぞらと長く伸び始めていたのである。

 そればかりではない。これから削ぎ落とそうとしていた鱗も、みるみるうちに真珠、あかがね、青墨などの色に変わり、鎧のように硬くなっていた。

 さらには、白眼を剥いた鯉の顔を見ると、鼻面がせり出し、髭が流麗に伸びて、頭の後ろには鹿に似た角まで生えかけている。

 ここまで来れば一目瞭然である。

 鯉は、龍に成ろうとしていた。

 庖丁の切っ先へ神経を集中させるあまり気がつかなかったが、いつの間にか、どこからともなく蓮華の念仏が流れだし、蛇口も捻らぬのに北斎じみた見事な形の波飛沫がざんぶざんぶとマヌ板を洗い、庖丁を構えた脇の下へは、美しい五色の雲まで湧いて出ていた。

 ただでさえ有難い明神堀の鯉を、有難さの極まるマヌ板へ寝せたことで、どうやらそれは竜門を昇るより遥かに容易く、龍となる条件を満たしてしまったものらしい。

 本邦産の龍種にあまり見られない、極彩色の鱗を成しているのは、マヌの──印度神話中の聖者の名の影響でもあろうか。

 私は慌てて、血糊にまみれた庖丁を放り出し、居ずまいを正そうとした。

 けれど、そこでまた気がついた。

 せっかく湧いていた念仏も、北斎波も、五雲も、だんだん先細りしている。

 やがてそれらは、薄れてあっけなく消えてしまい、さてはと思って改めると、鯉はすでに絶命していた。

 滝ならぬ滝登りは、不死なる龍へ昇りきろうとする刹那に、中断されたらしい。

 私が、何も知らずかれの首へと──しかもどうやら、いわゆる龍の逆鱗のすぐ下にあたる箇所へと、容赦なく庖丁を入れたためなのは、明らかだった。

 和洋折衷ならぬ和印折衷の、グロオバルな混血龍として華々しく生まれ変わろうとしたかれは、我が不粋なる一撃を以て敢えなく往生してしまい、龍に成りかけのまま、有難いマヌ板の上で永久の眠りについたようだ。

 かの太平御覧の著者とて、このような悲劇は想像し得なかったろう。……


 改めてつらつらと考えるに、目出度いやら惜しいやら、何とも言葉がまとまらなかったが、確実に言えるのは、龍の肉は不味くて食えないので、今晩予定していた御馳走もまた、我々の食卓から永久に消え失せたということであった。…

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鯉とブラフマナ 安良巻祐介 @aramaki88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ