第3話

 眠っていた伊乃は爆発音で叩き起こされた。

 あわててベッドから飛び起き、裸足のまま扉を開け廊下に出た。辺りはしんとしていた。それにしても全く見覚えのない場所だった。伊乃は気味が悪くなって階段を駆け上がった。

 伊乃は目の前にある扉を思いっきり開くと部屋の中にはさっきの男がいた。

 男はマグカップを持って立っていて、その後ろでは炎が立ち昇っていた。

 伊乃がギョッとたような目で見つめていると、男は慌てて反対の手に持っていたスプレー缶のボタンを押した。缶は白い霧を吐き出しコンロを覆い包み、まもなく黒い煙が力なく上がっていった。焦げた匂いが部屋中に広がっていった。

 伊乃は手で鼻を押さえながら周囲を見回してみた。コンロにシンク。部屋の角には食器棚と冷蔵庫があった。ここはキッチンのようだった。

「ようやく起きたか」男はそう言って何もなかったかのように後ろ手でマグカップとスプレー缶をシンクに投げ込んだ。

「うん」と伊乃はぎこちなく頷いた。

「腹は減っていないか」男が聞く。

 伊乃はとても何かを食べるような気持ちにならなかったけれど「少し」と答えた。

 男に席に着くように促される。椅子に座ると目の前にさっきとは違うマグカップが置かれた。マグカップの中には粉っぽくって茶色い液体が入っていた。スプーンで掬うととろみがあった。顔を近付けて香りを嗅いでみたが何も匂いがしなかった。恐る恐る口をつけるとお湯で薄めすぎたココアみたいな味がした。

 顔を上げると伊乃の様子を心配そうに見つめていた男と目があった。

「お前の名前……伊乃だったな」

「そうだけど……」自己紹介していないのにも関わらず既に名前を知っていたことに伊乃は戸惑った。

「俺はトレースだ」

 伊乃ははじめてトレースをしっかりと見た。ゆったりとしたTシャツを着ているが、盛り上がった厚い胸板に彼が筋肉質でたくましい体格であることを想像できた。はっきりとした目鼻立ちは彼の精悍さを更に引き立てている。

 伊乃がじっと見つめているとトレースが見つめ返してきた。急に怒られている気持ちになってきて、伊乃はマグカップに視線を落とした。しばらく時間がったせいか粉が沈殿していて泥の塊に見えた。

 伊乃は思わず「これは何っていうの」と聞いた。

「何かは詳しく知らないが、いつも美味そうに飲んでいる奴がいて分けてもらった」

 何かわからないもの飲ませるなんて、という気持ちになって責めるような目でトレースを見た。

「美味くないのか」トレースが困ったような顔をしていた。

 さっきまで怖い顔をしていたトレースが眉尻を下げ、ちょっと悲しげにしているのを見て、伊乃はしみじみと親しみを感じ始めていた。

 伊乃はあわてて話題を変えようとして言った。

「いつも飲んでいる人がいるって言ってたけど、他にも誰かいるの」

「………」

 トレースは思い出したように表情を硬くした。和らごうとしていた二人の空気が張り詰めていく。

「……ああ。後で紹介する」トレースは静かな声でそう言った。


 ◇


 男に連れていかれた伊乃は、一つの部屋に案内された。

 伊乃は緊張しながら部屋の中を見まわした。

 一人の男が、奥にある大きなモニターに向かって座っていた。

「ドゥオ!」男が声をかけると振り向き、椅子からゆったりと立ち上がった。

 年は三十歳か四十歳ぐらいに見えた。丁寧に整えられた髪と髭、皺のないシャツは清潔感があり伊乃には彼がしっかりとした大人に見えた。

 彼はじっと伊乃を見つめていた。伊乃も視線を合わせる。彼のたれ目がちで深い茶色の瞳に伊乃は見覚えがあった。

「ジャック!」伊乃は思い出したように大きな声をあげた。

 彼はアリスコスモスの登場人物のひとりであるジャックにとても似ていた。

「ジャック? それは僕の呼び名か。人間みたいな名だな」

 彼は伊乃に向かって歩いてきて、二人は握手をした。

「僕の名前はドゥオという。ジャックでなくで残念だ」

 ドゥオは伊乃の背後に立つ男を指して「トレースの兄だ」と落ち着いた声で言った。

 トレースは腕を組み、眉間に皺を寄せ険しい顔をしてドゥオをにらんでいる。怒った顔をしているせいもあるが、二人は兄弟というのにあまり似ていないように感じた。

「ふむ……。僕としては目元が似ていると思っているんだが」

 ドゥオは伊乃の心を読んだかのように呟いた。そして、いたずら顔でトレースを見た。トレースはわざとらしく顔を背けた。

「ところで、ジャックってなんだ。君と僕は以前あったことがあるのような口ぶりだな」

「ドゥオさんは私たちの世界にある物語の登場人物に似ているんです。ジャックは主人公の婚約者で。見た目も中身も大人のジャックと17歳の主人公とは考えが合わなくて最終的には敵対する役回りです」

 伊乃は目を輝かせて一気に喋った。

 ドゥオはつまらなさそうな顔をしていた。伊乃は彼の顔を見て急に恥ずかしくなってしまった。

「それで? その物語はなんというタイトルなんだ。」

「アリスコスモスです」

「アリスだと……」

 ドゥオは頭を抱え、優しげな茶色の瞳は陰鬱な色合いに染められていった。

 ふいに、背後から扉を開く音がした。振り向くと、一人の男性が部屋に入ろうと中の様子をうかがっていた。

「みんな集まって何してるんだい」彼は伊乃の顔を見つめながら、不思議そうな表情をしてドゥオのそばまで歩み寄った。

「ところで、このお嬢さんは誰だい」期待に満ちた眼差しで三人を見守った。

「ブライアン! 君はなんてタイミングの悪い男なんだ」ドゥオは盛大なため息をついて、椅子に腰掛けた。

「君達も座れ。話しが長くなりそうだ」


 ◇


 伊乃とドゥオ、そしてトレースは大きなテーブルに向かい合って座っていた。ドゥオにブライアンと呼ばれた男がカップを乗せたトレイを持ってやってきた。カップからは白い湯気が立ち上っていた。

「遅いぞブライアン、ちょうど君のことを紹介しようとしていたところだ」ドゥオが振り向きながら言った。

「ごめん、みんな。お待ちかねだったようだね」ブライアンは微笑みかけた。

 ブライアンはドゥオと同じような年齢に見える。寝癖がかかったようなふわっとした髪。体より大きなサイズのシャツにヨレヨレのズボン。伊乃は彼はドゥオと正反対の人に思えた。

 ブライアンはトレイをテーブルに置き、伊乃にカップを差し出した。

「はじめまして、ブライアンだ。ここで、彼らの仕事を手伝っている」

 受け取ろうとした伊乃の手とブライアンの手が触れた。

「おや、君は結晶人じゃないみたいだね」ブライアンはじっくりと観察するような目で伊乃を見つめた。

「結晶人って?」

「君は結晶人も知らないのか?」ブライアンは不思議そうな顔をして伊乃を見た。

「そいつはウォレールの住人じゃない、何もないところから急に現れた」トレースが不機嫌そうに言った。

「それはどういうことだい? 詳しく聞かせてくれないか」ブライアンは瞳を輝かせながら伊乃の手を取った。

 ドゥオはブライアンの顔を見て大きな咳払いをした。

「ごめん。ちょっと話が逸れてしまったね。結晶人というのはね、惑星ウォレールに住む独自の生命体だよ。ドゥオとトレースは結晶人だよ」

 伊乃は二人の頭から足元までくまなく眺めた。人と違うところが見当たらなかった。彼は普通の人間に見えた。

「触れてごらん」ブライアンは伊乃の手を掴んで触れさせた。

「体温が感じられないだろう。彼らは人間とは違った構造を持った生命体なんだ」

「本当だ! 温かくない。腕を掴んでいるのに手応えがない。どうして? 確かにここにいるのに。まるで幽霊みたい」伊乃は目を丸くした。

 伊乃の反応にブライアンは鼻を鳴らした。

「そう! 彼らはとても不思議な存在なんだ。昔は人間と共存していたらしいんだけど、十年ほど前に結晶人と人間との間で戦争が起こってね。」

 ブライアンはズボンのポケットからタブレットを取り出し操作し始めた。目の前に球体のホログラムが浮かび上がった。球体の一部から光が上がり、大きな爆発が起こった。

「ほら見てごらん、戦争で星の半分が砕かれてしまった。そのときに破片が星を覆い尽くしてしまった。密集しすぎていて宇宙船も通れない。脱出できないどころか外から助けを呼ぶことも不可能だよ」

 割れて歪になってしまった球体の周りを岩のようなものが隙間なく取り囲んでいる。岩は星を中心にして楕円にひろがり、伊乃には黄身を包む卵の殻に見えた。

「これのおかげで太陽の光は届かなくなってしまった。地上はいつも曇ったまま、本当に困ったものだよ。環境の悪化で人間の数は減ってきている。この戦争はもともと人間たちが引き起こしたもので、当然の報いなのかもしれないね」

 ブライアンはおとぎ話を聞かせるように言った。

「戦争以降、結晶人にとっては人間は憎しみの対象で、最近では人間狩りが行われているって噂もあるよ。だから僕らは地上に出ず地下で暮らしているというわけだよ」

 伊乃は驚いた顔をしてドゥオとトレースを見た。

「彼らは大丈夫だよ。味方だよ」ブライアンはにこやかに言った。

「それにしても君はどうやってここに来たの? ウォレールの住人じゃないって言ってたよね」

「おそらくこれの力のせいだ」

 ドゥオが透明な四角の箱を掲げた。中には青い結晶が入っていた。結晶は波打って、でこぼこしていて火焔のようにゆらめいている。無機物ではなく命のある生物のように見えた。

「これは……」伊乃とブライアンの声が重なった。

「ドゥオデキムだ」ドゥオは重々しく言った。

「魔王じゃないか! どうしてここにいるんだい」ブライアンは顔を引き攣らせた。

「どうやらドゥオデキム自身が封印を解除するために彼女を呼んだらしい。」

「彼女ってわたしのこと? 呼んだらしいって? その青い石はノアなの?」

 伊乃がスカートのポケットを確かめると空っぽだった。

「ノアか……。君はそう呼んでいるんだったな。君が寝ている間に彼から話を聞いたよ。君のことをたくさん。だけど彼が何故、君を呼んだのか? それについては曖昧にしか答えない。目的がわからない以上、そのままにはできない」

「でも、助けて欲しいって……」

伊乃は悔しさで唇を震わせた。ドゥオに飛びかかろうとしたが、ブライアンに止められた。

「彼は魔王と呼ばれている存在だよ。かわいそうだけどここから出すわけにはいかない。彼がこの星を破壊した張本人なんだ。また彼が目覚めれば、それこそこの星が滅んでしまうかもしれない。彼におとなしくしてもらう方が大勢の人のためになるんだ」

「そんな……!」

 伊乃はスカートを握りしめ、どうしていいかわからず唇を噛みしめた。

 

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娘が魔王になりましてん 吉尾唯生 @yoshiotadao

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