第2話

 思いもかけず突然にぱっと目が開いた。夢の中から現実へと強制的に引き戻されたかのようだった。

 カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいたので、あわてて体を起こし時間を確かめた。アラームをセットした時間まで、まだ余裕があった。伊乃はもう少し夢の中の余韻に浸ろうと布団をかぶり直した。

 うとうとした頭の中でさっきまでのノアのあまりにも寂しそうな目を思い出したら、胸がしめつけられるようで、再び眠ることができなかった。

 あのときは手伝うと安請け合いしてしまったけれど、どう手伝えばいいんだろう。また夢の中で助けるのかな、と考えていたらとりとめがなくなってきた。

 伊乃は思い切って布団から起き上がった。

 いくら考えてもこの問題は解決しない。だってノアはこの世界にいないのだから。今日、悩まなきゃいけないのは……「英語の単語テスト!」伊乃は急いでベッドから降りて制服に着替え、リビングへと向かった。


 あわてて部屋に入ってきた伊乃を見て「自分から起きてくるなんてめずらしい」と母の愛美は目を丸くして言った。

 伊乃はソファに座り、手に持ったノートに目を落としながら「今日もさノアが夢に出てきたよ」と愛美に伝えた。

「そうなの」と相づちを打って愛美はコップにお茶を入れてテーブルの上に置いた。

卵焼きにお味噌汁、野菜炒め、二人分の朝ごはんが次々と並べられていく。

「枕の下に写真を置くだけで好きな人が夢に出てくるなんてありえないってバカにしてたけど、ここまでくると黒魔術かっていうぐらいの効果じゃない」

「うらやましいの」

「お母さんも今度やってみようかな」

「ブラッドでしょ」

「イエス!」

 愛美は勢いよく腕を突き上げた。

 母の愛美もまた「アリスコスモス」をこよなく愛していた。ノアの部下であるブラッドを推していた。脇役だけど色気があるところが良い!とアニメを見るたびにデレデレしているのが母の通常運転だった。

「そんなのだから再婚できないんじゃないの」

愛美はふくれた顔をして伊乃を見た。

「男運悪いもんね」伊乃はにやにや笑った。

「ひどいな、私が愛しているのは伊乃ちゃんだけですよ」

 お茶碗を持ったまま、手を広げて抱きつこうとしてきた。

 伊乃が「キモい!」と言いながら眉をひそめてノートで押し返そうとするのを見て愛美は優しい顔をして笑っていた。

 そのとき、急にテーブルが揺れはじめた。揺れは連鎖して部屋に置いてあるものにうつっていきカタカタと音を立てていった。

と−−−

 いきなりドンと耳をふさぎたくなるぐらい大きな音がした。部屋はさらに大きく揺れ、二人は立っていられずに床に転がる。

 伊乃はとっさにテーブルの脚を掴もうとしたが、手を滑り抜けていった。

 いつの間にか床がなくなっていて、足元にはずっと暗闇が広がっていた。テーブルも椅子も食べかけのご飯も下へ下へと落ちていく。

 二人もそのまま落下し闇のなかに吸い込まれていった。


 

「……何よ、ここは」

 暗闇を抜け落ちた先にあった世界は人の気配がなく、静かだった。

 空はぶ厚い雲に覆われて薄暗かった。陽の光の暖かさは感じられず、薄ら寒かった。

 伊乃と愛美はじっとしていられずにひたすら歩いた。目に入ってくるのは崩れた建物の残骸と穴だらけの石畳。朽ちた木々。明らかに人が生活していないのがわかる。

 そのうちに廃墟の中にひっそりと金属でできた小さな塔が建てられているのを見つけた。塔を覆うように光の帯が張り巡らされていた。帯の中には幾何学模様が描かれていて、それがプログラムのようなものにも見えた。

 伊乃は塔の中に浮かんでいる小さな結晶に心を奪われた。触れようとそっと手を伸ばそうとした。

−−−伊乃

小さい声が聞こえ、驚いて手を引っ込めた。しかし、その声に伊乃は聞き覚えがあった。

「ノアなんでしょ。どこにいるの?」

まるで「僕はここだよ」と返事をするように結晶が光った。

「これがノア君?」

 愛美が結晶に触れようとすると光の帯に弾かれた。

−−−伊乃

「私がやってみる」

 伊乃は激しく光を放つ帯に手を差し入れた。手が触れた部分へ光がバチバチと音を立て逆流し、針で刺されたような痛みが襲ってきた。

 あまりの痛みに顔が歪んだ。

「無理に封印を解くとか、あとでヤバいことが起こるフラグなんじゃない」愛美はやめさせようと伊乃の腕を掴んだ。

「お母さんうるさい。ノアは助けてって言った」

 こうなったら後には引けなかった。さらに奥へと手を入れた。上から下へと質量を感じるのに、なかなか結晶に触れることができない。

 そのとき「……動くな」という声とカチ、カチと後ろから音が聞こえた。

 振り返ると男が銃を構えて立っていた。伊乃の頭に照準を合わせる。

「待って!」愛美はあわてて両手を広げて男の前に躍り出た。

 伊乃は構わずに手を伸ばし続ける。ようやく指の先が結晶に触れた。

「やめろ! そいつに触れるな!」

 男は銃の引き金に指をかけた。

伊乃の手の中に確かな重さが集まっていった。

−−−伊乃、そのまま僕を連れ出して



 伊乃がノアをとらえたとき、頭上で大きな破裂音が聞こえた。伊乃も愛美も男もみんな動きを止めた。その瞬間、轟音とともに銃弾の雨が降ってきた。

 愛美は伊乃を胸の中に抱きしめ、自らの体でかばうように包んだ。伊乃はノアをスカートのポケットにそっと入れた。二人ともやがてくるだろう痛みにそなえて、ぎゅっと目を強く瞑る。

 やがて着弾の音が聞こえた。しかし、痛みはなかった。不安そうな顔で伊乃は愛美を見た。

 愛美はもう一度、伊乃の体を抱きしめた。顔をあげ振り向くと男が右腕を掲げて立っているのが見えた。手首にはめられたブレスレットを中心に光が球を描き、ちょうど三人を包み込んでいた。それがバリアとなって銃弾を弾いたのだろう。愛美は安堵のため息をついた。

「ずいぶん手厚いお出迎えだな」男は舌打ちした。

ほっとしたのもつかの間、前方からはたくさんの兵士が銃を撃ちながら走ってくる。

 男はポケットから取り出した小さな結晶を投げた。それはキラキラと輝きを増しながら放物線を描き、兵士たちの中に落ちていった。大きな爆発音とともに兵士たちの体が空中に噴き上げられた。

「逃げるぞ!」

 男は伊乃と愛美の方を向き、先導するように駆けて行った。伊乃たちも追うように走る。この男が敵か味方か考えている余裕はなかった。

 伊乃たちを追いかけるように銃声の音は途絶えずに響いてくる。後ろや前で砲弾が炸裂し爆音が響いた。

 そこへ、伊乃の背後で砲弾が炸裂した。伊乃の後ろを走っていた愛美との間で土が跳ね上がった。愛美の体は爆風で吹き飛ばされ地面に叩きつけられた。

「お母さん!」

駆け出そうとした直後、強い力で腕を引かれる。男が怒ったような顔をして伊乃を見つめていた。

「行かせて、お母さんを助けなきゃ」

 伊乃の声によろよろと体を起こした愛美の頭上で待ち構えたかのように砲弾が炸裂する。二人の間にもうもうと爆煙が広がった。

愛美は歯を食いしばって煙の先を睨みつけながら「先に行って!」叫ぶように言った。

「でも…」と言いかけた伊乃の腕を掴み、男は走り出した。

 伊乃は必死で足を動かした。心臓は早鐘のように打ち、手足は震えまっすぐに走ることができなかった。頭の中はごちゃごちゃで、いま何が起こっているのか、うまく理解できなくなっていた。

きっとこれは夢の続きで、目が覚めればいつもの場所に戻れる。お母さんだっていつも通りにそばにいるはず。

 ずいぶん走ったのか、やがて銃声聞こえなくなった。男が走る速度を緩めた。伊乃は息を整えながら「お母さんは……」と、後ろを振り向いた。

「…………!」

 息が詰まり、声が出せなかった。

 兵士が愛美に向かって銃を構えていた。そして、愛美がゆっくり地面に倒れ込むのが見えた。

 魂を奪われたように伊乃は気を失った。

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