愛しき未来へのプレリュード
遥か彼方に夏の日差しに照らされた別府湾が輝く。
長閑な景色、温かな初夏の日差し。思わず「ふわぁ」と零れた欠伸を、優しく流れる薫風に掬われ天に昇る。
「昨晩はお楽しみでしたね」
そんな初夏の風景をぼんやり眺めていると、すぐ隣からそんな雰囲気ぶち壊しの台詞が聞こえてきた。
「どこでそんなセリフを覚えたんだよ」
にししと笑いながら余計なことを言ってくる妹にツッコミを入れて、僕はくるりと回れ右をする。
結局、昨晩は朝方近くまで玲子と電話をしていた。次の日も仕事があるというのに、遅くまで邪魔をしたことを反省していたことを謝ると、彼女は「こういうこともしてみたかったからいいよ」と笑った。
鼻が効く妹はそのことをどこかで感づいたのだろう。
「まぁ、片付けもちゃんとやってたし、ここまで車も運転してくれたからオッケーオッケー」
背中に妹の言葉を受けて、僕は何も言わずに小さく手を挙げた。
今日の午前のうちに、僕達は総出で断捨離を完遂した。みんなでやると、やはりスピードは上がり、随分早く、そして楽に終わった。
それから昼食をとり、今は昨晩の僕の提案の通りに祖父の墓の前に立っている。眺めの良い山の上に、静かで穏やかな時間が流れていた。
見晴らしのいい墓地で墓を洗い、花を供え、順番に手を合わせる。
やがて僕の順番になり、僕はお墓の前にしゃがみ込んだ。
(おじいちゃん……)
もしもう一度、祖父に逢えたなら……この数日、僕は何度もそんなことを考えた。
もちろんそんなことは叶うはずもないが、それでも色々なことを考えて、そして墓参りをするならば必ず伝えたい、二十年分の想いというものも当然のことながら溢れんばかりに湧き上がっている。
そして、昨日の晩にみんなにお墓参りを提案した時には、理路整然とその伝えたいことの全てがまとまっていたはずなのに。
「……おじいちゃん」
言葉が詰まる。
考えていた諸々は全て消え去り、ただ、そう呟くことしかできなかった。
そのまま、どれだけ手を合わせていたか。結局、僕は何も言うことのできないまま、静かに墓前を離れた。
「ねえ、悠くん」
戻ってきた僕に、祖母が聞き間違えかと紛うほどに小さな声で呟いた。
「ありがとうね」
それは断捨離についてなのか、祖父の話を聞いたことなのか、あるいは、別の何かなのか。
僕には、分からない。
ただ、こっそりと覗き見た祖母の顔には、どこか枷から解き放たれたような、とても晴れやかな表情が浮かんでいた。
その帰り道。
行きと同じく、従妹が乗ってきていた車を走らせる。
連日の気疲れか、あるいは朝からの掃除のせいなのか、車内は運転中の僕と、そして大叔母以外はみんな眠ってしまっていた。
「まあ、昨日も遅くまで話していたからね」
大叔母が苦笑まじりに呟く。
「本当に、付き合ってもらって、ありがとうございます」
「いいのよいいのよ、あれくらい。久しぶりのコイバナみたいだったわ」
楽しそうに笑う大叔母に苦笑いをしながら、僕はハンドルを切る。
結局、昨日のミニ親族会議の中では僕の悩みのどれに対しても答えが出ることは無かった。ただ、みんなで話をしただけで、なんの発展性も無かった。でも、相談したことで答えを得られたのかどうかということは、結局大した問題ではない。
一人では煮詰まってしまうことも、相談することで色んな見方を得ることが出来て、選択肢が増えた。
三人寄れば文殊の知恵。答えが出なかったからといって、何も得られなかったという訳ではないのだ。
「今までゼロか百、白か黒かで決めなければと思っていました。それも差し迫って今すぐにでも結論を出さなければと。中途半端ではなくどちらかに絞って注力しなければ、と。そんな風に思っていたんです」
僕はこれまで、三十歳という一つの節目に、どこか焦りのようなものを感じていた。
これまで何も成す事の出来ていない自分を、どこかで追い詰めていた。
そうやって色々一人で考えて、ぐちゃぐちゃにかき回して、結局作り出したものは煮詰まったメシマズ料理。
「でも、そんなことはない。僕は、今の仕事を続けながら小説を書いてみることにします。遠回りかもしれないけれど、今すぐ白黒つけることもないんだ、と。それに、あの後、彼女の玲子とも話をしたんです。彼女も、後押しをしてくれると言ってくれました」
大切な人に相談する。
そんな、遥かに高くそびえ立つ分厚い壁のように思えていたことが、実際にやってみると意外に容易く、そして、それを後押ししてくれる人がいるということがどれだけ力になるのか。
僕は、長年彼女と共にいたのに、そんなことも気づかなかった。
きっと彼女は、僕がどんな選択肢を選んだとしても背中を押してくれるだろう。
そして、それはきっと、祖父と祖母が歩んできた道のカタチの一つでもあるのだと思う。
「そう。なら、決まったからには後は邁進するだけね」
「ええ。今度、ネット小説の公募があるみたいなので、まずは短編から挑戦してみます」
せっかくの機会だ。今回の祖父の話を参考に話を書いてみようと思っていた。自分の第一歩としてはそれがあっているだろうし、何より、河野との約束もある。
「千里の道も一歩から、ね。頑張りなさいよ」
「はい。ありがとうございます」
僕はバックミラーに映る大叔母に微笑みかけた。
「それと、結婚の話の方なんですが。そっちについては、電話で決めることでもないですし、玲子ともしばらく会ってなかったので、またもうちょっと時間をかけてゆっくり考えたいと思います」
「兄さんはぱっと決めたみたいよ?」
「勘弁してください……」
意地悪を言う大叔母に、信号待ちの僕は思わず首を垂れる。
それを見てひとしきり笑ってから、大叔母は「そうそう」と手槌を打つ。
「悠くん、いつ頃帰る予定?」
「断捨離も終わりましたし……今日か明日には発とうかと」
「そう。寂しくなるわね」
いつも元気な大叔母が、柄にもなく少ししょんぼりとした様子を見せた。いや、お祭りのような日々が終わる時はいつもしょんぼりしていたから通常運転か。
ともかく、そんなことを考えている僕に、「ねぇ、悠くん」と大叔母がまた口を開いた。
「この数日で、兄さんの印象は変わった?」
穏やかな声だった。
「はい。それはもう、ガラッと百八十度」
「そう」
大叔母は優しく呟いた。
「じゃあ、最後にひとつだけ。兄さんを知る人の多くが、彼は優しい人だったと言うでしょ? それは、きっと間違いのないことでしょう。でもね、妹として、私は何か引っかかるものをずっと感じていたの」
「引っかかるもの?」
「ええ。兄は優しかった。でも、それはただの優しさではないような、不思議なものだった」
ふと、大川と、そして河野の顔を思い出した。
大川の言っていた強欲さ。そして、河野の言っていた、危うさ。
その答えについては、僕も一応は持っている。でも、これから大叔母が語ろうとしている言葉が気になって、僕は静かに頷く。
「優しさの裏で兄さんは、いつも怯えていたんじゃないかと思うの」
「怯えていた……」
「なんとなく、私はそう感じていたの。あくまで私の主観だけど」
「いや……なんとなくわかる気もします」
そう。僕も似たようなことを考えていた。
優しかった祖父が、大川からは否定的な目で見られていたこと。僕の幼少期の頃の思い出の話。
それらを繋ぎ合わせると、祖父の姿が象られていく。
「きっとおじいちゃんは大切なものを失う事への恐怖を抱えていた。とことんまでに目につく人々に手を差し伸べたおじいちゃんは、きっと、何かを失うことを恐れていたんじゃないかなって、思うんです」
大叔母はしばらくあっけにとられて、それからようやく掠れた声で、「うん」と一言、呟いた。
「私が言いたいことを、言ってくれたのね」
「それって、どういうこと?」
突然妹の声がした。
バックミラーを確認すると、目をパッチリと開いた妹が映っていた。
「ねぇ、おじいちゃんが怯えていたって、どういうこと?」
「兄さんは、臆病だった。誰かが不幸になることや、あるいは大切な何かを取りこぼすこと、大切な人との繋がりを失うことを恐れていた人だったわ」
僕の代わりに、大叔母がそう答えた。
「誰かが傷つくことを恐れ、自分の大切なものや人が離れていくことを怖がっていた。だからこそ、他人のために動くことができたんじゃないかなって思うの」
「よく……わからない」
妹は、納得できていないような顔をした。
そんな彼女に、今度は僕が話をする。
「この間喫茶店に行ったときに、そこの店主の河野さんという人が言っていたんだ。おじいちゃんは優しい人だったけれど、その優しさにはどこか危うさがあるって」
「危うさ……」
「そうね……危うさ、たしかに危うさがあった」
僕と大叔母が頷きあう隣で、妹が顔を曇らせる。
「それともうひとつ……少し前に、ある人に話を聞いたんです」
「?」
「大川さんっていう人。その人が言っていたんです。『あいつは強欲だった』って」
僕の言葉に、大叔母がハッとしたような顔をした。
けれど、それに構うことなく僕は話を続ける。
「ずっと、『強欲』の意味を考え続けていました。河野さんにも、こっそり聞いてみたこともありました。それでも答えは出なかったんですが……。でも、最近分かったんです。おじいちゃんは優しかった。誰よりも優しくて、みんなが幸せになることを望んでいた。それはきっと誰よりも欲深い願い。果たして、叶うことがあるのか、それすらも怪しいほどに大いなる願い。そんな願いを抱えている祖父を、大川さんは『強欲』と表現したんじゃないでしょうか」
「つまり、おじいちゃんは優しすぎた。優しすぎたから、他の人が不幸になることを極端に怖がったって、そういうこと?」
顔をくしゃくしゃにして考えていた妹のまとめに、僕は「大体あってる」と頷いた。
「優しかったおじいちゃんが、人を助けるためならば心の中に土足で上り込むようなおじいちゃんが、なんで子供の頃の僕と距離を置いたのか。それが分かりませんでした。でもそれも、優しいと考えたらなんとなく筋は通ります。いや、優しいというよりも、臆病と言えるのかも。自分が関わることで、僕を傷つけるとでも思ったのかも知れない」
これは推測にしか過ぎない。
本心は別のところにあったのかもしれない。
それは今ではもう分からない。
「答えは、分からないね」
「ああ」
やはり、釈然としないような妹の言葉に頷く。
「でも、僕はそうだと信じるよ」
いまさら、祖父に話を聞くことはできない。
少し前には、そのことを残念に思い、後悔に苛まれたこともあった。
でも今ではもう、失われた時間を嘆くことはない。
祖父はもういない。だけど、祖父の遺したものは至る所に残っている。
「あ、海だ」
いつしか車は海岸沿いの道を走っていた。
夕暮れにさざ波の光る別府湾。弓なりに伸びるその海岸線に、走り回る子供が見えたような気がした。
「子供の頃、居間に座るおじいちゃんの背中が怖かった。おじいちゃんのことで一番ハッキリと覚えているのはそんな感情だった」
でも、もう今は違う。
「ただ、人並みに弱くて、だけど人一倍思いやりを持つ、優しい人だったんですね」
「そうね」
「いつか、おじいちゃんみたいになれるでしょうか」
「きっとね」
祖母はにっこりと微笑んだ。
「私の知っている兄さんは、どこにでもいる人だった。神様みたいな、なんてことはない、普通の人間だった。でも……そうね。太陽のように暖かく優しい素敵な人だったわ」
祖母の家の片付けと共に始まった、祖父の痕跡巡り。それは、断捨離の終わりとともに、一つの区切りを迎えた。
これで、祖父の全てを知ることができた、とは思わない。でも、初めは全く知らなかった祖父の愛に触れ、その生き様の片鱗に触れたことで、僕の中の何かが確かに変わった。
きっと、もう僕は無関心ではいられない。湧き立つ興味から、そして、ある種の使命感に駆られて、これからも祖父の姿を追い続けるだろう。そうすることで、20年前には気づくことのできなかった祖父の想いに触れて、戻らぬ時に悔恨の念を噛み締めたり、或いは知らなかったその姿の一端を発見して胸を踊らせたりすることもあるかもしれない。
そうやって、祖父のことを振り返りながら。
祖父の遺した大切な人々と共に、そして新たな絆を紡ぎながら。
僕は、これからも未来へのプレリュードを爪弾いていく。
遥かなる大戦のポストリュード ねこたば @wadaiko_pencil
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