道標

「ごめんね、風香ちゃん。私の話は、あなたの聞きたいことの答えにはなっていないかも知れない」


 語り終えた大叔母に、妹は何も言わず首を横に振った。

 それを横目で見ながら、僕は祖父に想いを馳せる。


「誠意……か」


 呟く僕の服の裾を、従妹が引っ張った。

 ちらりと目を向けると、こちらを見つめる真っ直ぐな目が、僕に何かを問いかけようとしていた。それが何なのか、僕にはわかる。そして、その答えも僕は持っている。


「大丈夫。覚悟はちゃんとできているよ」


 そう。

 付き合っている相手に対して、もう逃げない。そんな覚悟は、あの夜の従妹との会話のなかで、とっくに出来ている。

 だから、それじゃない。

 今、僕の胸の中を占めている想いは、それとは別のところ。


「おじいちゃんが挫折していたって本当ですか?」


「えぇ」


 これまで、祖父は心の強い人だと思っていた。

 いつも誰かを助けようとして、強い意志を持ってそれを成し遂げてきた人だと思っていた。

 だから、一度は挫折したという話がにわかには信じられなかった。


「兄さんの心の中にある芯は、決して強いものではなかった。きっと何度もひび割れ折れていたと思う」


 大叔母は辛辣な言葉を、しかし内容とは裏腹に優しさに満ち満ちた声色で包んで僕に手渡す。


「でも、弱いからこそ、人に寄り添うことを知っていた。弱いからこそ、人に頼ることを厭わなかった。兄さんにはね、なんだ折れても寄り添い支えてくれる添え木のような人がいたから。だから、時々心が折れても、その人と一緒だったからどんな苦難も乗り越え、再び立ち上がることができたんだと思う」


 その声は、ただ過去を語るだけのものではなくて。

 その視線は、僕の生きてきた三十年を見ているだけではなくて。


 --あぁ、そうか。

 人に迷惑をかけることは、悪いことではないのか……。


 不意に、そんな思いが喉元からせり上がってきた。


 これまで、僕の人生は全てそれなりに上手く行っていた。

 勉強も、入試も、就職も、仕事も。

 全部上手く行っていたから他人を頼る必要は何もなかった。

 いや、或いはひょっとすると、僕の漠然と持っていた「カッコいい大人」像が、人に頼らないというものだったからなのかもしれない。

 誰にも頼らずに、全てを自分で成す事がカッコいいと思い、そしてそれが出来ていたからこそ、いつしか誰かに頼ることを恥だと感じるようになっていた。

 だからこそ、三十にもなって進路の相談なんて、したくなかった。


 あるいは、夢に生きることを恐れていたのかもしれない。

 失敗するかもしれない、失敗することは恥ずかしい。そんな風に何かをいつも意識していた。

 そうやって、いつしか子供の頃の夢に向けて人生の舵を切るという冒険的な選択肢をないものとしてしまった。なぜなら、失敗する可能性の方が高いことは明らかだったから。


 全て上手く行っていた人生。だからこそ、ある意味、行動の成否に対して潔癖になっていたのかもしれない。迷惑をかけないようにと、自分で全てを決めようとしてきたのかもしれない。

 でも、たまには失敗してもいい。

 失敗しても、僕の隣に誰かがいてくれる限り、何度でも立ち上がることが出来るはずなのだから。


 そう思えば、自分のこれからの道筋に立ち込めていた白霧が霧散していくように感じた。


「おじいちゃんを見習わないと」


 いや、祖父だけではない。


「おばあちゃんも、松子おばちゃんも」


 祖父の全ては、側に祖母と大叔母がいたことが大きい。

 人は一人では優しくなれない。

 河野の言った格別な優しさも、祖母と大叔母がいたからこそ、なのだろう。


 だとしたら、僕も優しくなれるだろうか。

 僕も、何かを成すことが出来るのだろうか。


 祖母を、大叔母を、妹を、従妹を見る。


 --まずは、僕が誠意を見せるところからだろう。


「あの、みんなに相談があるんだ……」


 僕は口を開く。

 それから、いつぶりかわからないくらい久しぶりに、僕は他人に将来のことを相談した。

 小説家になりたいこと。結婚をどうしたいのか。そういったことを、みんなに相談した。

 そうしていくうちに更けていく夜に、いつしか雨音を止み、虫の鳴き声が耳に心地よく響き渡っていった。



 **



 みんなが寝てから。

 僕は久しぶりに玲子にラインをしてみた。


 僕の夢や、これからのこと。そして、二人の関係について。


 言いたいことは山ほどあって、言うべきことも言葉にならないほど積み重なっていて。

 えっちらおっちら、随分と長い時間をかけて、僕は文章をまとめた。


 すぐに返信が返ってくるとも思わなかった。

 でも、ラインを送ってから三分後、スマホに着信があった。電話主は玲子。

 すぐに電話に出た。

 電話口から聞こえてくる声は怒っているような泣いているような、そして嬉しそうな……とにかく、とても懐かしいものだった。


 いろんな話をした。

 大学で出会った時の話。互いに違う進路を選ぶことになった就活の話。一緒に出かけた数知れないほどの旅行の思い出。

 しばらくそうやって昔の話で盛り上がってから、自然と話は現状報告へと移った。

 しばらく会わないうちに、お互い何があったのか。彼女は大きなプロジェクトを任され、そして成し遂げたという。そばにいて欲しい時もあったと言われて、僕はただ申し開きも出来ずに謝った。

 次に僕は祖父の話をした。祖母の断捨離に付き合ったこと。見知らぬおじさんにいきなり絡まれたこと。喫茶店で、自分のための飲み物を飲んだこと。祖母と、大叔母から祖父の話をしたこと……。

 そして、そのまま、僕は自分の不安を彼女に話をした。


「はじめてだね。ゆーたが、私に弱音を零したのは」


 全て話し終えた後、彼女は静かにそう呟いた。

 それは少しの驚きと困惑の色に染まった言葉。

 やはり困らせるだけだったか、と少し臆病になりかけた僕の耳に、「でも」と続ける玲子の声が響く。


「ありがとう」


「え?」


「私に、そんな姿を見せてくれて、ありがとう」


「どうして? なにが、ありがとうなんだ?」


「……いままでさぁ、ゆーたはいっつも私に強いところばっかり見せようとしてきたでしょ? 全部自分が先頭に立って、全部完璧にやっちゃう。それはそれですごいことなんだけど、全部自分で背負いこんじゃうでしょ? 大変なことでもなんでも、全部自分で背負い込んで」


「うん……」


「私も、ゆーたと会わなかった期間、ずぅっと考えていた。なんでも出来ちゃうゆーたに、私は今まで何をしてあげてきたのかなって。そして、それを考えるうちに、いつしかどうしてゆーたは全部自分でやろうとするんだろうって思うようになった」


 耳を打つ言葉は、どこか寂しげで重くて。短い言葉なのに、そこから玲子がどれだけ悩み考えてきたのかが伝わってくる。


「失敗するのが嫌なのかなって考えたけど、それはちょっと違うのかなって。じゃあ、私が嫌がられているのかなとも考えたけど、そうだとは思いたくなかった。それで、たくさん考えて、自分の道は自分で切り拓くっていう、ゆーた自身の矜恃なのかもっていう結論になったんだ」


「それは……」


 そうかもしれない。

 でも、そのせいで、僕は今まで玲子を放り出した。そのせいで、何も決められないまま、こうして夢と現実の狭間で足踏みをしている。


「でも、僕はもうそれをやめるよ」


 そう。

 もう一人で煮詰めるようなことはしない。


「だから、玲子。僕と一緒に悩んでほしい」


 二人の将来について。二人のこれからについて。

 それは、僕が考えることをやめるわけじゃない。自分の行動の責任を誰かに肩代わりしてもらうというわけでもない。

 ただ、大切な人と共にあろうとする、その第一歩。

 ただ、この三十年のうちに進むべき道を見失った僕へ祖父が遺してくれた、時を超えた道標に従って踏み出したものだ。

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