松
「おじいさん……私の兄の話、ね」
大叔母は優しい笑みを浮かべたまま目を閉じた。
「兄さんは……亡くなってからもう二十年が経つのね。二人はどれくらいおじいさんのことを覚えてる?」
「私は……そこそこ覚えてる。でも、ハッキリと残っているというよりは漠然とっていう感じかしら。いつも、ここに座ってテレビを見ていた……」
侑芽は祖母が座っている辺りを腕で円を描くようにして示した。
それに僕もコクリと頷く。
「今日まで聞いてきた話を知る前は、そこに座っていたくらいのことしか覚えてなかったです」
「あら……それだと二人とも覚えているのは晩年の姿って感じなのね。どう? あまり活発なイメージはないでしょ?」
「そうですね。物静かで、怒ると怖いかもって思うことはありました」
怖かった、などと直球で言うわけにもいかず出来るだけオブラートに包んでそう言った。
そんな僕に大叔母は「なるほど」と小さく呟く。
「それじゃ、きっとこれから話すことは少し意外に映るかもしれないね」
「望むところです」
「うん、じゃあ、おじいさん……私の兄について話そうかしら」
* *
兄さんは、特別な人間なんかではなくてどこにでもいるような人間だった。
一般に、戦中の話で話題に上がるのは何かに秀でた人の話ばかりでしょ? 例えば零戦のトップレベルの操縦士だったり、サイパンで少数の味方を率いた優秀な士官だったり。
あるいは、戦争を指導した人や終わらせた人、戦後復興の舵取りをした人……そういった特別な人にスポットライトは当てられる。
でも、兄さんはそんな特別な人ではなかったわ。
どこにでもいるふつうの、ただ、人より少しだけ優しい人間だった。
そして、私は幼い頃からそんな兄が大好きだったわ。
でもね、次第に兄さんは変わっていった。
戦争が終わって、さくらねぇさんと一緒に過ごすようになる前あたりから、優しさの質が変わり始めたのよ。
それはきっと、空襲によって尊敬していた大人や仲の良かった学校の友人が亡くなったということも少なからず影響していたと思うわ。
私は、怖くなったわ。まるで自分の事などお構い無しに、『優しさ』をみんなにばら撒くようになった。いつも周りの人の世話ばかり焼くようになったの。
兄さんの友達や近所の子供達、そして私やさくらねぇさんのために、できるだけのことを為そうとしていた。
決して私たちの暮らしが楽だったわけでもない。そんな中でも、他人の世話を焼こうとする兄さんは、見る人が見れば、気でも狂ったように映ったんじゃないかしら。
でも、そんな兄さんの行いを、私たち家族はみんな受け入れていたわ。受け入れて、出来るだけサポートした。
そのせい……と言っていいのか。兄さんは
でもね、子供一人に出来ることなんて限りがあった。
よく、兄さんは悩んでいたわ。
自分には力がない、自分の手で掬ったものは全部指の隙間から零れていく……果てには、自分のやってきた道が間違いだったと嘆くことすらあった。
そんな兄さんを、私はいつも心配していた。さくらねぇさんも同じ思いだったと思う。
でもね、兄さんは、私達の心配の声にいつもこう言っていた。『一度人助けを始めたのなら、投げ出すわけにはいかない。なぜなら、人助けというものはその人の人生を預かるということなのだから。俺の行いは、始めた時点で終わりのないものなんだ』、と。
だけど、結局兄さんは挫折した。
きっと、誰かを助けるということには私の想像を絶するような苦悩があったんだと思う。そのせいか、兄さんは体調に変をきたした。
空襲の日に大切なものを多く失ってから、ずっと走り続けた兄さんは、そうやってついには足を止めた。
普通の学生としての生活を取り戻した兄さん。後にその時間は、責任感によるストレスからの解放であり、自分自身を見つめなおす良い機会になったって兄さんは言っていた。
活動を始める前によく遊んでいた友達とも、その頃に再会したらしい。そのうちの一人が、メルクリウスの店主だった河野さん。それからもずっと、親友であり続けたみたいで、私もよく可愛がってもらったわ。
とはいえ、周りの環境が変わっても、人というものはそこまで簡単に変わるものでもない。ずっと兄さんを悩ませ続けた不眠や発熱といった体調不良は、それからもずっと付いて回っていた。
その解消に大きく貢献したのはさくらねぇさんの支えだった。
ある日の晩、私は兄さんの部屋に様子を見に行った。兄さんが、心配だったから。でもね、部屋を覗いてみてびっくりした。
随分と久しぶりに穏やかに眠る兄さんの姿が目に飛び込んできたから。そしてその枕元には、うたた寝をしながらも座って兄さんの頭に手を当てるさくらねぇさん。
そんな二人の姿を見た瞬間、私には二人が一緒になる未来が見えた。
それからはね、注意してみればそれまで気づかなかったような二人の心のうちがなんとなくわかるようになったわ。
さくらねぇさんはずっと兄さんのことを気にかけ、妹の私以上に甲斐甲斐しく世話を焼こうとしていた。それは家族であると言うこと以上に、特別な存在として見ていることは明らかだった。一方で兄さんも、さくらねぇさんが相手の時は心安らいでいるようだった。少し残念だったけれど、二人の間には、妹の私でも超えることのできない繋がりがあった。
でも、私はむしろそのことを歓迎した。嫉妬がなかったわけではないけれど、それ以上に、私では支えることの出来ない兄さんが安心できる相手がいることに、そしてその相手がさくらねぇさんであることに安心したわ。
さくらねぇさんになら兄さんを任せることができるって、そう思った。そして、兄とさくらねぇさんがいつか、一緒になってくれたらと思うようになった。
たとえ今は兄妹のように暮らしていても、いつかそうなれば、と思ったわ。
自分では言わなかったけれど、療養中はずっとさくらねぇさんがつきっきりで看病していたの。そんな姿を見ていれば、いつかは……と考えるのもやぶさかではなかったと思うわ。
ともかく、さくらねぇさんの献身もあり、兄さんは立ち直った。
身体も、そして心も。
ある日、兄さんは夕食の席で家族の前で口を開いた。
「明日から、みんなに俺が斡旋した仕事先を訪問したいと思う」
突然、兄さんはそんなことを言った。
それは、つまり一度は諦めた人助けをもう一度再開するという宣言に他ならなかった。
「いいの?」
「ああ。一度離れてみて、自分に問いかけてみて、分かった。これが、俺のやるべきことなんだって」
兄さんは、大切なものを失うということを恐れて、人のために生きようとした。けれど、一方で兄さんは弱く、重責や苦しみに耐えることが簡単ではない人間だった。
だからこそ、一度は心が折れてしまった。
でも、この療養期間を通じて兄さんは人に支えられる事がどれだけの力を生み出すかということを改めて知った。さくらねぇさんが、そのことを兄さんに教えた。
それから数年後。
気がつけば、兄さんとさくらさんは結婚していた。ほんとにお似合いの二人、一途な二人だったわ。
でも、私が偉いなと思うのは、兄さんが誠意を見せたところ。確固たる意志を持ち、そして、たとえそれがわがままであっても突き通すという強い意思の下に、パートナーにその事への助力を頼む。
そして、苦労する事が分かっていながらも、それを受け入れたねぇさんの強い想いも同じくらい凄いと思ったわ。
それは愛があればこそ成せた、というわけじゃない。そのこと自体が、「愛」の本当の形なんだと思った。
……いつしか、兄さんの話ではなくて二人の話になってしまったわね。
でも、やっぱり兄さんの話をする時にはさくらねぇさんの存在は外すことなんて出来ない。
人のため、騙されても生活が苦しくても、兄さんが二度と折れることなく、その信念を貫き通した。その傍らにいて支え続けたのは、いつもさくらねぇさんだったから。
ただ、妹として私はいつも兄の背中を見ていた。その背中を支えることも押してあげることもできないまま。
それはきっと、妹としては失格だったかもしれない。
いや、むしろ、妹だったからこそ兄さんは私に弱音を見せようとしなかったのかも。
兄妹っていうのはね、一番近く、一番遠い他人なの。大切で、だけど全てを見せることができるわけじゃないからこそ、見ていることしかできなかったり、相談することができなかったりする。
いずれにしろ、私が妹として出来ることは、兄が良いパートナーと一緒になることを祈りながら、その背中を見ていることだけだった。
そのことを、私も気に病んだりしたこともあった。妹のくせに何もできない。そのことが悔しくて悲しくて、情けなくて……。
でもね、今この歳になって思うのよ。
人を支えるということは私が思っていたような積極的な方法だけじゃないんだって。
手を差し伸べてもらいたい時もあれば、きっといつもと変わらぬ日常をただ共に過ごしたい時もある。
何も言わず、何も聞かず、ただ一緒にいるだけで救われることもある。
助けるという道には、そうやって色んな、本当に無数の方法があって、私の関わり方もそのうちの一つだったんじゃないかって思う。
風香ちゃんは、妹さんでしょ?
きっと、兄への想いは一言では表せられないくらい積み重なって交わり分離していると思う。
逆に兄貴としての悠くん。
兄として、年長者として、いくつになっても絶対に譲れないものがあると思う。
それを否定しないで。それに囚われてしまわないで。
待つことも、頼ることも、手を差し出すことも、言わないという選択も、その先に決して正解はない。だけど、その全てには意味があり未来がある。
だから、後悔しないで。
せっかく、兄妹というかけがえのない関係に、生まれることができたのだから。
それが、妹として兄を見てきた私の、兄妹観よ。
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