後編


 わたくしは改めて殿下に婚約からの解放をお願いします。


「その婚約破棄承諾書にご署名をお願いします。」


「嫌だ。」


「はい?」


「署名はしない。君との婚約だけが、俺にとっては唯一の繋がりだ。それさえあればなんとかなると思っていたんだ。だが、この書類を渡されて初めてその脆さに気がついた。だから俺は、いや私は、これから婚姻の日までの2年の間に、君を必ず振り向かせてみせる。あの女だってもう近づけない。」


 ふぅ……。どうしたらいいのでしょう。

 わたくしは殿下に対して全く恋心を抱いておりませんが、まあもともとが政略結婚の予定なのですから、殿下がわたくしの愛する家族や使用人の心の安寧を脅かさないのであれば、わたくしとしては別に殿下と結婚しても構いません。


 ですが、どうでしょうね。あのルイーゼ嬢が簡単に引き下がるとも思えませんし、なんだか嫌な予感がいたします。

 本心はどうであれ、彼女を遠ざけなかった殿下が、結果的には女心を弄んだという事実には変わりないのです。そして彼女の矛先は恐らく殿下ではなくてわたくしに向くでしょう。


「それでは殿下、こういたしましょう。婚約破棄の際わたくしと我が家に何のお咎めもない、という一文をその書類に付け加えていただいた上で、改めてその婚約破棄承諾書にご署名をお願いいたします。その書類は婚姻の日までわたくしが保管いたします。そのうえで、僭越ながら殿下の今後の采配をとくと拝見させていただきます。」


「ううむ……。」


 殿下が難しそうな顔で腕を組み考え込んでしまわれました。

 わたくしごときが王子殿下に対して、恐れ多くも上から目線で発言してしまいました。ですが、これまでないがしろにされてきたのです。このくらい許していただけますよね。

 わたくしはお話を続けます。


「もし今後、殿下が今までなさったことの皺寄せで、例えばルイーゼ嬢や他の方々による言いがかり、そして罠などにわたくしが陥れられそうになったり、わたくしの愛する家族や使用人が憤慨するようなことを殿下がなさることがあれば、わたくしはその婚約破棄承諾書を陛下に提出させていただきます。もし何事もなく無事に婚姻の日を迎えられたなら、その書類は破棄させていただきましょう。」


 そうなのです。これは十分に予想される展開なのですよ、殿下。どうか十分に危機感を持ってくださいまし。


「分かった、署名しよう。俺が君を絶対に守ってみせる。君の家族を怒らせたり悲しませるようなこともしない。これまでの空白を埋めるべく、全力で誠心誠意、君を大切にすると誓う。そして君の心を俺に向かせてみせる。」


 まあ最後の一言は叶わなくても大丈夫でございます。それが簡単に叶うほど、わたくしと殿下の間の溝は浅くはないと存じます。愛情の有無は婚姻の妨げにはなりません。

 ……ですが、愛されたうえでわたくしが幸せになれば、きっとわたくしの愛する人たちも幸せな気持ちになれるのでしょうね。


 わたくしは、婚約破棄承諾書に件の一文を添えて殿下に署名をいただき、無事書類を手にすることができました。これはわたくしの命綱。婚姻の日まで大切に保管させていただきますわ。どうかわたくしを守ってくださいましね、殿下。






 そして16才の成人の日を迎えました。

 ここはわたくしの部屋のはずなのですが、なぜか今いるのはレオンハルト殿下の膝の上です。


 あれから殿下は、わたくしのお父様に頭を下げて初顔合わせの時の無礼を謝罪され、それからルイーゼ嬢も他の女性も一切を遠ざけられました。

 そして目立つのが嫌なので学園で一緒に歩くのをお断りさせていただきましたら、毎日のようにわたくしに手紙をくださいます。


 そしてお休みの日にはこうやって必ず寮のわたくしの部屋へ会いに来られ、ケーキや果物などをお持ちになっては、わたくしを膝の上に乗せて手づから食べさせてくださるのです。

 わたくしが恥ずかしいのでやめてくださいと申し上げましても、休みの日くらいにしか会えないのだから好きにさせてくれとおっしゃって、どうしても聞き入れてくださいませんでした。


 さすがにそのような日々が1年も続きますと、わたくしも段々絆されてまいります。

 殿下がわたくしを愛おしそうに見つめるアイスブルーの瞳を見ていると、わたくしもなんだか、殿下のことを愛おしいと思う感情が日に日に強まってまいります。

 殿下がわたくしに向ける微笑みはとても温かく穏やかで、最近はわたくしも自ずと同じように微笑み返しているのではないかと感じます。


 ただ気になるのはルイーゼ嬢のことでございます。殿下が遠ざけられた時に大変憎々しげにわたくしのことを睨んでいました。それだけに、すぐに彼女による何らかの報復があるだろうと警戒したのですが、今のところ何もないのです。

 すれ違う度にやはり憎らしそうにわたくしのことを一瞥していましたが、特に何の嫌がらせもなく大人しいものでした。もうルイーゼ嬢は殿下のことを諦めたのだろうとわたくしが思い始めた時でした。


 ある日、わたくしが教室に残り帰り支度をしていたら、いきなりルイーゼ嬢が教室に入ってきました。わたくしは、これは危ないと思いました。なぜなら、教室にはわたくしと彼女の二人きりだったからです。

 わたくしの側まで近づくと、突然彼女は自分の腕を机の縁で強打し、その場にゆっくりと横になりました。よく見ると腕から血が出ているようです。わたくしは慌てました。早く手当てをしなくては。


「ルイーゼ嬢! 大丈夫ですか!?」


 わたくしが彼女の体を心配して声をかけた途端に彼女が大声で叫びます。


「きゃあーー! やめてえ! 痛いっ!」


 彼女の悲痛な叫びを聞いて、まず2人の男子生徒がすぐさま教室に飛び込んできました。そのうちの一人が彼女を抱き起こし、必要以上に大きな声で話しかけます。


「おいっ! 大丈夫か!」


「酷い……。わたし何もしてないのに、エルザ様がわたしのことを突き飛ばして……。レオ様の周りをうろうろするなって……。」


「なんて酷いことを……! お前っ、このことは殿下に報告してやるからな!」


 騒ぎを聞きつけ、教室の外に関係のない方までちらほらと集まってきました。彼らは私たちのやり取りを見ているようです。


 ああ、やられました……。最初に駆けつけた男性2人は、普段ルイーゼ嬢とよく一緒にいらっしゃる方たちです。恐らくこの狂言の共犯者なのでしょう。

 わたくしはこのような場面にも拘らず、ひどく頭は冷えておりました。他の方もこの騒ぎを見ていらっしゃいます。このままいけばわたくしはルイーゼ嬢に傷を負わせたと公に責められるのでしょう。多くの証言のもとに。


 わたくしがそのとき思い浮かべたのは、断罪されるであろう自分の姿ではなく、わたくしを優しく見つめる殿下の笑顔でした。

 もうこれであの書類を提出できる。そして、殿下との婚約も解消できると。ですがなぜかわたくしは、胸に湧き上がる大きな喪失感で息が苦しくなりました。

 わたくしが全てを諦めて、近くの椅子にへたりと座り込んだ時でした。


「何をしている。」


 ああ、とうとう殿下までいらっしゃいました。わたくしは殿下にだけは軽蔑されたくありませんでした。

 最初に駆けつけた男子生徒が、憎々しげにわたくしを見ながら訴えます。


「この女がルイーゼ嬢を突き飛ばし、このような大怪我をさせたのです! 本当になんて酷い女だ!」


「ふむ……。」


「レオ様っ! エルザ様が、目障りだからレオ様に近づくなっておっしゃってわたくしを突き飛ばしたのです! わたくし何もしていないのに……。」


 ルイーゼ嬢の瞳からいつのまにか大粒の涙が零れています。信じられないほどの大量の涙が次々と彼女の頬を濡らしては落ちていきます。


「ふむ……。」


 殿下はしばらく何かを考え込んで、ルイーゼ嬢の方を向き、首を傾げておっしゃいました。


「俺の名前を馴れ馴れしく呼ぶ、君の名前はなんだっけ……?」


「「「え?」」」


 ルイーゼ嬢と男子生徒2人は顎がはずれんばかりにあんぐりと口を開けて愕然としていました。

 殿下はお話を続けます。


「まあいいや。誰か、エルザがこの子を突き飛ばした瞬間を見たものはいるか? 嘘の証言をした者は死んだほうがましだと思えるくらいの処罰をするが。」


 誰も名乗りを上げません。最初に駆けつけた男子生徒は一様に顔色が真っ青です。いるわけありません。わたくしは突き飛ばしてなどいないのですから。

 殿下はルイーゼ嬢の傍にいる男子生徒2人に追い打ちをかけるように、一言ずつゆっくりと問いかけます。


「君たちは突き飛ばした瞬間を見たから、私の・・エルザに対して、『この女』扱いを、したんだよね?」


 殿下の周りにはまるでブリザードが吹き荒れているようです。問い詰める殿下の瞳はまるで本物の氷のようでした。


「い、いえ、あの……。私は、何も見ていません。」


「わ、私も何も見ていませんっ……!」


 2人の男子生徒は、蛇に睨まれた蛙のように、殿下から目を逸らせずに震えて動けなくなっていました。

 殿下はそんな二人を蔑むように見た後、そのままルイーゼ嬢に向き直り、同じく凍えるような声で問いかけます。


「……ああ、名前は忘れてしまったが、君、本当にエルザが君を突き飛ばしたと言うんだね? 記憶違いとかじゃなく。」


 ガタガタ震えながらも痛そうに腕を抑えて、ルイーゼ嬢は気丈に殿下に答えます。


「は、はい。エルザ様に突き飛ばされました。きっとわたくしが密かにレオ様をお慕いしているのが気に入らなかったのです……。」


「そうか……。君たちは知らなかったと思うが、エルザの側にはね、君のような女や不埒な輩が彼女を害さないように、私が常に影を潜ませているんだよ。」


「「え……。」」


 図らずもわたくしとルイーゼ嬢の声が重なりました。


「まあ、その影の報告で私はここに来たんだが、影によると、君は自分で机に腕をぶつけ、頭をぶつけないように気をつけながらゆっくりとその場に横になったと、そう聞いているんだがね。」


「あ……。」


 ルイーゼ嬢の顔色がみるみる失われていきます。


「これはどういうことだろうね。私はさっき『嘘の証言をした者は死んだほうがましだと思えるくらいの処罰をする』と公言した。にも拘らず、君は、堂々と、この私に、私の・・エルザを陥れるために、嘘を吐いたわけだ。これがどういうことか分かるね?」


「ひぃっ……!」


「お前のような者のせいで、俺とエルザの婚約が解消されるようなことがあったら、俺はお前を切り刻んで海の魚の餌にしてやる。」


 殿下は丁寧な口調から一変して乱暴な口調に変わり、声のトーンを落として地を這うような低い声でルイーゼ嬢に囁きます。


「あ、ああ……。お許しを……。レオ様、レオ様!」


「二度と私の名前を口にするな! 私をそう呼んでいいのはエルザだけだ。連れて行け。」


 いつの間にか教室の外に待機していた騎士たちが、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになってしまったルイーゼ嬢の両脇を抱えて、引きずるように連れていきます。

 今まで見たこともないような殿下の恐ろしさの片鱗を見せられ、わたくしは無意識に肩に力が入って震えてしまいました。

 それを見た殿下がわたくしの肩をそっと抱いて「怖がらせてごめんね。」と優しくおっしゃってくださったので、わたくしはほっとして肩の力が抜けました。


「殿下、わたくし、もう二度と殿下と2人でお会いすることはできなくなると思いました。」


 わたくしは零れ落ちる涙を堪えることができず、思わず殿下の服をぎゅっと握って顔を隠しました。殿下の服はわたくしの涙を吸って汚れてしまいましたが、殿下はそんなわたくしを胸に抱いて優しく包んでくださいました。


「これから何があっても、誰にも俺達の邪魔はさせないから。君を守ると言ったろう? それから、これからは俺のことをレオと呼んでくれ。」


 そうおっしゃった殿下の声は、先程の冷徹さの欠片など全くない、暖かな春の日差しのような優しい声でした。






 そしてわたくしは17才、レオンハルト殿下は19才になりました。

 婚姻の日までもう間近。あれからは特に女性からの嫌がらせもなく、なぜか男子生徒から話しかけられることも全くなくなりました。後から聞いた話だと、全て殿下による妨害で前もって排除されていたそうです。


 あれからルイーゼ嬢には二度と会うことはありませんでした。

 聞いたところによると、わたくしを陥れた罪で男爵家が取り潰されそうになり、男爵家はそれを回避するために彼女を勘当し家を追い出したそうで、今では行方すら分からない状態だそうです。


 そして、あのルイーゼ嬢のご友人の男子生徒2人は、やはり彼女との共犯が明るみに出て、ご実家の取り潰しこそありませんでしたが、退学となり学園を去っていきました。

 学園を去る前にお二人から謝罪のお手紙が届きましたが、わたくしが読む前に殿下が握りつぶして焼いてしまわれましたので、その内容を読むことはできませんでした。


 そして婚姻の前日、殿下はわたくしの部屋に来て、わたくしの目の前で跪き、胸に手を当て頭を下げられます。


「エルザ、改めて謝罪させてくれ。初めて君に会った時、君を傷つけて本当にすまなかった。」


 そして跪いたまま、今度はわたくしの右手を取りその甲に口づけると、顔を上げておっしゃいました。


「君を愛している。どうか私と結婚してほしい。」


 わたくしはとても温かい気持ちになりました。そして机の引き出しを開けて中からずっと大切に保管していた婚約破棄承諾書を取り出し、殿下の目の前でそれをびりりと破りました。


「謹んでお受けいたします。わたくしも愛しています、レオ様。」


 そう答えて、わたくしもレオ様に向かってわたくしの気持ちを伝えました。

 レオ様は破顔してわたくしを堅く抱きしめてくださいました。


 レオ様の胸の中で、わたくしと、わたくしの愛する者たちの幸せな未来を想い描き、わたくしは胸いっぱいに喜びが満たされていくのを感じました。




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婚約破棄でみんな幸せ!~嫌われ令嬢の円満婚約解消術~ 春野こもも @yamadakomomo

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