第101話 鋼鞭

 漆黒のレザースーツを纏ったナヴゥルは、低い姿勢で戦斧を構える。

 筋肉の束が浮き上がる両腕に、前方を睨む双眸に、力が漲っている。

 ――が、その精悍な横顔には、一筋の傷が刻まれていた。

 傷口からは濃縮エーテルが染み出し、頬を伝って顎へと流れる。

 鞭による一閃を受けての傷だった。

 

 紅いドレスを身に纏うメリッサは、背筋を伸ばして不敵に微笑む。

 右手に携えた鞭を、石床の上で波打つ様に軽く躍らせている。

 鞭の長さは柄の部分も含め、およそ三・五メートル。

 金属ワイヤーを編んで仕上げた、いわば鋼の鞭だ。

 この鞭を用いてメリッサは、ナヴゥルの頬を切り裂いたのだ。


 仕合開始時、二人は六メートルほどの距離を置いて対峙していた。

 間合いの遠い鞭を用いてなお、届かぬ間合いだ。

 にも拘らずメリッサは、予備動作の無い踏み込みにて一気に距離を潰し、鞭を振るったのだ。

 それは慎重に間合いを図るナヴゥルの、機先を制する一撃となった。


「ほほっ……眼を潰すつもりでしたが、上手く避けましたね」


 唇の端を吊り上げながら、挑発する様にメリッサは囁く。

 しかしナヴゥルは応じない。

 メリッサを見据える表情も落ち着いている。

 飛び退いた位置から改めて、じりじりと左側へ回り込もうとする。

 前腕を覆う強化外殻から蒸気を漂わせつつ、機を窺う様に移動する。

 慎重な動きだ。

 その様子に、観覧席の貴族達がどよめく。

 些か慎重過ぎるのでは無いか――そういう想いがある為だ。


 これまでナヴゥルは一貫して、攻撃的なスタイルを貫いて来た。

 その上でかすり傷ひとつ負わぬ、神業の如き回避を行っていた。

 烈火の如き攻撃と、圧倒的な回避。

 成立困難な攻防の極みを、成立させていたのが、ナヴゥルというコッペリアだった。


 そのナヴゥルが今回、相手の出方を伺い、しかも早々に被弾している。

 これまでの戦闘スタイルからは、想像もつかない展開だ。

 それほどにメリッサの攻撃が、冴え渡っているという事か。

 或いは。

 エリーゼとの仕合を経て、ナヴゥルの技量に問題が生じたのか。

 つまりは弱くなったと――貴族達はその様に感じているのだ。


「……ま、遠からず、その眼は潰しますがね? ほほほ……」


 嘲笑と共にメリッサは、ゆるりと一歩、ナヴゥルの方へ足を踏み出す。

 白い爪先が、前方へ伸びる。

 初弾を受け、後方へ跳躍したナヴゥルとの距離は、五メートルほど。

 この足取りならば鞭の間合いには、まだ届かない――

 にも拘わらず。

 その一歩を以てメリッサは、鞭の間合いに飛び込んでいた。

 先ほども見せた、何の予備動作も無い『踏み込み』だった。


 直後、強烈な風切り音と共に鋼の鞭が閃く。

 うねる鞭の先端は、完全に目視の限界を超えていた。

 弾ける様にナヴゥルが地を蹴り、左サイドへ飛び退く。 

 耳を劈く炸裂音が響き、ナヴゥルの黒いスーツ――その肩口が引き千切れる。


 間髪置かずメリッサの右手が、しなる様に動く。

 その挙動は半ば霞んでいる。

 鋼の鞭は、意思を持つ蛇の如くに跳ね上がり、ナヴゥルを狙う。 

 肩に攻撃を受けたナヴゥルは姿勢を崩しており、再度跳躍する事が出来ない。

 頭から床の上へ飛び込み、転がる事で回避する。

 しかし完璧な回避とは成らず、筋肉の隆起する背に、新たな傷が刻まれた。

 

「ほほっ……死と暴虐のナクラビィ、この程度ですかっ……!」


 メリッサは嘲り、更に踏み込むと、畳み掛ける様に攻撃を重ねる。

 鋼の鞭は銀光と化し、立て続けにナヴゥルを襲う。

 複雑に波打ち、煌めき、霞む高速の軌跡は、さながら稲妻だ。

 不可視の刃と化した強烈な連撃を、ナヴゥルはそれでも回避し続ける。

 機敏に飛び退き、身を翻しては転がり逃れる。


 が、鞭による攻撃は、僅かずつ、僅かずつ、ナヴゥルの身体を刻んでゆく。

 直撃こそ避けてはいるが、躱し切れてはいない。

 黒いレザースーツのあちこちが弾けて千切れ、濃縮エーテルが飛沫く。

 ナヴゥルは後方へ跳躍しつつ戦斧を振るい、追撃の鞭を弾こうとする。

 にも拘らず鞭は鋭敏に反応、振るった戦斧の柄を伝い、迅速に這い上がる。

 その動きは生ける蛇を思わせる、それも毒を持つ蛇だ。


 次の瞬間。

 鞭の先端が閃き、戦斧を握るナヴゥルの眼を狙った。

 ナヴゥルは咄嗟に首を巡らせ、ギリギリでその攻撃を回避する。

 しかし完全な回避には至らず、再び頬を切り裂かれ、紅色の飛沫が散る。


「ちっ……!」


 ナヴゥルは微かに眉を顰め、石床を蹴る。

 大きく、左サイドへステップした。

 そして改めて、戦斧を手に低く構える。

 戦斧の柄を握る強化外殻の関節部から、仄白い蒸気が溢れ出している。


 メリッサは放った鋼の鞭を、手元へ引き戻す。

 背筋を伸ばして立つ妖艶な姿に、変化は無い。

 イブニングドレスと同色の、紅い唇を歪めて嘲笑った。


「……どういうおつもりか知りませんが――」


 言いながら、手にした鞭を足元へ垂らす。

 床の上に伸びた鞭は脈打つ様にうねりながら、メリッサの周囲に広がる。


「――痛覚を抑制されていないのですね?」


 ナヴゥルはメリッサの言葉に答えず、じりじりと回り込む様に移動する。

 身に纏う黒いレザースーツのあちこちが、無残に切り裂かれている。

 裂けた箇所からは引き攣れた傷口と、滲み出す濃縮エーテルが見えている。

 前腕部を覆う強化外殻から溢れる蒸気は、ダメージによる流血を思わせる。


 メリッサの言葉通り、ナヴゥルが痛覚抑制措置を解除しているのだとしたら。

 全身を激痛で苛まれていても、おかしく無い。


「そういった趣味をラークン伯はお持ちなのかしら? でなければ、闘技場で痛覚を抑制しない理由なんてありませんもの。それとも痛みに苦しむ姿を主に敢えて晒し、情けを乞うて早々に仕合を放棄しようと?」


 嘲りの言葉を口にしながらメリッサは、移動するナヴゥルを眼で追う。

 ナヴゥルは一定の距離を保ったまま、左へ、左へと、回り込む。

 挙動の読みにくい鞭による攻撃を警戒しているのか。


 本当に痛覚を遮断していないならば、慎重になって当然だろう。

 しかしそんな事をする必要があるのか。

 結果、消極的な戦闘になるなら、本末転倒に過ぎるのではないか。


 観覧席より闘技場を見下ろす貴族達は、ナヴゥルの消極姿勢にどよめく。

 やはりエリーゼとの一戦が原因か。

 敗北を経て、歯車が狂ったのか。


 思えば仕合開始直前の、空砲を用いたセレモニーも無かった。

 爆音と共に姿を現し、観覧席に向かって己が聖戦をアピールする。

 己が力を誇示し、絶対の回避を披露し、絶対的な決死決着へと雪崩れ込む。

 それがナヴゥルの仕合であった筈だ。

 自己を顕示する事を止めたのか。意識に変化があったのか。

 いずれにしても、過去に一度も見せた事の無い姿だった。


「――痛みに怯えて逃げ惑い、自ら間合いに踏み込む事すら出来ない。死と暴虐のナクラビィがこの程度だったとは。興も醒めるというものですわね」


 メリッサは唇の端を吊り上げたまま、右手の鞭を勢い良く振るった。

 耳を劈く風切り音、そして炸裂音。

 足元の石床を、鞭の先端が強かに打ったのだ。

 その僅か一撃で、床に敷き詰められた石板の一枚が、砕けて散った。

 巨大なハンマーで打ち据えたかの様な、重い打撃だ。

 粉塵が立ち昇る中、メリッサが嘲る様に言った。


「ならば私が臆病な贄を打擲する事で、興の乗った娯楽としましょう。せいぜい無様に逃げ惑えば良い……伝承にあるナクラビィに倣い、全身の皮膚を、ひん剥いで差し上げましょうかね? ほほほっ……」

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