第102話 海底
巨大なドームの内側で、熱気と狂喜が渦を巻いていた。
管弦楽団の重厚な演奏、目許をマスクで隠した女の美しい歌声。
透き通ったソプラノに併せ、観覧席の貴族達が声を張り上げる。
戦え、抗え、祖国の為に! 刃振るいて血花咲かせよ!
疾走れ、斬り裂け、悪意を挫け! きらめく刃で血花咲かせよ!
すり鉢状に設けられた観覧席から、止め処も無く湧き上がる混声合唱。
祈りにも、神聖にも程遠い、暴力的なまでの感情の発露。
残酷にして悪醜な欲望を垂れ流す貴族たちは喜色満面、闘技場に臨む。
円形闘技場では、二人の人造乙女がしのぎを削っていた。
◆ ◇ ◆ ◇
紅いイブニングドレスが、流麗かつ豊かな肢体を包んでいる。
美しく結い上げられたブロンドのロングヘアが、輝いている。
小さなトーク帽で揺れる白いダリヤ。
メリッサは口許に笑みを浮かべ、手にした得物を躍らせる。
無数のワイヤーを捩り合わせて作られた、鋼の鞭だ。
背筋が凍る様な風切り音と共に鞭が振るわれ、床に敷かれた石板が割れる。
恐るべき威力を秘めた一撃だ。
弾き、叩く事を目的とした革製の鞭とは、比べ物にならない。
重厚かつ凶悪な打撃にして、撓りが先端に集約される強烈な斬撃だった。
「痛覚を抱えたまま闘技場に立ち入り、何をするかと思えば……」
言葉は半ばで途切れた。
一切の予備動作が見えぬ深い踏み込み、同時にメリッサの右腕が霞む。
鋼の鞭は銀色の光と化し、激しく波打ち襲い掛かる。
「……勝てぬと知って、己が主に慈悲を乞おうと!?」
対峙していたナヴゥルは、左サイドへ大きく飛ぶ。
肩口から転がる様に着地するも、鞭の追撃は止まらない。
閃光が疾走り、強烈な炸裂音が立て続けに鳴り響く。
「ほほっ……慈悲など乞えぬ様、喉を締め上げましょう、眼も潰しましょう、集まり頂いた名士の方々に、ラークンなどという俗物、何の事も無しと知らしめましょう!」
ナヴゥルは横っ飛びに回避を重ねるも、腕に、脚に、擦過創が増える。
黒いレザースーツの切れ端が、溢れる血潮が、砕かれた石板と共に飛び散る。
更に鞭が飛ぶ、薙ぎ払う様に空間を引き裂く。
ナヴゥルは身を捻りながら回避し続ける、肌を弾かれ、スーツを裂かれる。
立て続けに鞭が踊る、驚異的な威力を秘めて唸りを上げる。
その有様は、空中を蛇行する銀色の毒蛇だ。
攻撃はおろか距離を詰める事も出来ないまま、ナヴゥルは後方へと退く。
連続で放たれる鋼の鞭、その圧倒的な攻撃力に成す術も無いという事か。
着地と同時に膝を折るナヴゥルを見据え、メリッサは自身の足元に鞭を引き寄せると、嘲る様に嗤う。
「せいぜい見苦しく足掻きなさいな? その方が観客の皆さんが悦んで……」
「――海底にて、足掻くは貴様よ」
低く掠れた声が、地を這うように響いた。
長大な戦斧――ハルバードを手に片膝を着いたナヴゥルだ。
赤光を放つ瞳を輝かせながら、ゆっくりと立ち上がった。
メリッサは、片眉を軽く吊り上げて口を開く。
「……海底? 私が足掻く? どういう事でしょう、気でも触れ――」
「何も解さぬまま、藻屑と消ゆるが良い――ガラクタがっ……」
間髪置く間すら無かった。
鋼の鞭が閃くと同時に、メリッサは距離を詰めていた。
何の前触れも予兆も、何も感じさせない、唐突な踏み込み。
予備動作も無く、地を蹴る反動も無く。
対峙する者からすれば、いきなり距離が縮まった様に感じる筈だ。
それはいわゆる『縮地』と呼ばれる技術であった。
前方へ倒れ込みざま一歩踏み出す事で、挙動の『起こり』を悟らせない。
反動や溜めを用いず、俊敏に距離を詰める技術として知られている。
加えてメリッサは、この『縮地』に独自の改良を加えている。
足を踏み出すと同時に、後方に残った脚の『足指』にて加速しているのだ。
挙動の起こりを悟らせず、踏み込む距離も誤認させる――メリッサの使用する『縮地』は、タイミングと距離感を狂わせる、魔性の技として完成していた。
その上で、手にした武装は鞭である。
魔法の如き『縮地』と、目視困難かつ変幻自在な鞭による攻撃。
これら二つを組み合わせ、メリッサは常勝連勝を積み上げたのだ。
そして今。
致死性の高い二つの闘技を駆使し、メリッサはナヴゥルに襲い掛かる。
距離とタイミングを誤認させる、究極の踏み込みと。
前後左右一切を予期させず、不規則に放たれる強烈な鋼の鞭。
霞むほどの速度で地を這い、波打ち、獲物を狙う。
ナヴゥルの足元で激しく跳躍し、そのまま肩口の辺りでうねる。
鞭の先端が狙うは、紅く輝くナヴゥルの眼だ。
この苛烈極まる攻撃を。
ナヴゥルはゆるりと一歩踏み出しながら。
僅かに首を傾け、軽く回避した。
メリッサの右腕が踊り、間断無く二撃目が放たれる。
しなる鞭の半ばが山なりにうねり、そのままナヴゥルの顔に向かって弾けた。
ナヴゥルは歩きながら、軽く上体を仰け反らせ、その攻撃をやり過ごす。
メリッサは手元まで鞭を引き戻す、すでに口許の笑みは消えている。
全身を極限まで撓らせ、渾身の力で右腕を振るう。
撃ち出された鞭の一閃は、僅かほども目視する事が出来ない。
閃光と化して大気を引き裂き、ナヴゥルを打ち倒さんと疾走る。
――が。
ナヴゥルは歩みを止める事無く、僅かに半身の姿勢となり、悠然と回避した。
攻撃を外した鞭は、ナヴゥルの後方で石板を叩き割り、粉塵を巻き上げる。
粉塵の中から引き戻された鞭が、ナヴゥルの背後を狙う――しかしほんの一歩、ナヴゥルが左へ移動しただけで攻撃は外れた。
「……なっ!?」
メリッサは目を見開く――こんな馬鹿な事があるか。
確かにナヴゥルは、回避能力の高いコッペリアだった。
過去の仕合に於いて、殆どダメージを負う事無く勝利を重ねて来た。
しかし前回の仕合、エリーゼに敗北した。
ワイヤーを用いた、不可解な飛び道具の前に屈したのだ。
つまり――挙動の読みにくい、不規則な攻撃に弱いという事だ。
ならば『縮地』と鞭を使用する、私には大きなアドバンテージがある。
事実、今の今まで、鞭を躱しきれずにダメージを負っていたではないか。
にも拘らず、ここに来て何故。
いきなりナヴゥルを捉える事が出来なくなった。
掠りもしない、大きく避ける事もしない。
こんな馬鹿な事があるか。
「おのれっ……」
後方へと飛び退き様に鞭を振るう、立て続けに振るう。
直撃すれば、皮膚はおろか肉も骨も弾ける威力だ。
直撃さえすれば――しかし当たらない、掠らない。
歩み寄るナヴゥルは、僅かな体捌きで全ての攻撃を躱す。
不規則な軌道を描く鞭の先端など、人間では目視不可能だ。
それがオートマータであったとしても、目視は限り無く困難だ。
そんな攻撃を、易々と避ける。
まるで――まるで全ての攻撃を、事前に把握しているかの様な。
予知能力が在るとでも言うのか!?
悠々とナヴゥルは歩を進める。
後方へ距離を取ろうと、その距離分をあっさり詰めて来る。
戦斧の射程に届けば攻守が逆転する、鞭を用いての防戦は不利だ。
攻撃せねば押し切られる、しかし鞭による攻撃がこれほどに回避されるとは。
ならば。
「シィッ……!」
メリッサは『縮地』を用いて、一気に前方へ踏み込んだ。
初動と距離を読ませぬ『縮地』だ。
『縮地』にて戦斧の射程――その内側へと、飛び込んでしまえば。
鞭のグリップエンドに手を掛け、そこから仕込みの刃を引き抜く。
近距離刺突用の武装だ、これを用いて速攻を仕掛け――。
――全く同時に。
ナヴゥルもこちらへと踏み込んでいた。
初動と距離を読ませぬ筈の『縮地』。
そのタイミングを、完全に読まれたのだ。
「……うぉおおっ!?」
気づけば眼前にナヴゥルがいた。
刃を携えた左手を反射的に突き出す――が、その左手首を掴まれた。
右手を躍らせ、鞭による加撃を繰り出そうとして、右手首を掴まれた。
ゴリゴリと鈍い音が響く。
両手首の関節を、その握力で一気に外されたのだ。
ナヴゥルの背後で長大な戦斧が、音を立てて石床の上に倒れた。
驚愕と混乱の中で、メリッサはナヴゥルを見上げる。
揺らめく黒髪の下、冷たく煌めく紅い瞳が、こちらを見下ろしていた。
両手首を拘束していたナヴゥルの手が、一瞬にして首へと伸びる。
掠れた声が、低く響いた。
「朽ちろ」
「……っ!?」
抵抗を試みようと考えた次の瞬間。
生木を鋼鉄のハンマーで打ち砕くが如き音が響いた。
メリッサは在り得ぬほどの衝撃を、顔面に感じた。
視界が深紅に染まり、何も見えない。
呼吸も出来ない。
メリッサの顔面へ、ナヴゥルが額を叩きつけていた。
渾身の力で、立て続けに、二度、三度、四度。
メリッサの全身から力が抜ける。
頽れようとするメリッサを、しかしナヴゥルは右手で首を掴み、離さない。
そのまま前方へ大きく踏み込みつつ、全力で腕を振るった。
槍を投げる様なフォームだ。
メリッサの身体は半ば霞みながら、空中に紅い弧を描き流れる。
間髪置かず、炸裂音が響いた。
床に敷き詰められた石板が、爆ぜる様に砕け散る。
投げずに足元へ叩きつけたのだ。
爆心の如くに丸く砕けた石板の上、メリッサが横たわる。
もはや紅く引き攣れた布袋の様に力を失い、ピクリとも動かない。
直後、バルザック辺境伯サイドから敗北宣言が成され、仕合は終了した。
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