第99話 童女

 交錯の瞬間、クロエは思考停止の状態に陥っていた。

 左腕の肘から先を刎ね飛ばされ、対応策を見失っていた。

 切断面から溢れ出す大量の濃縮エーテルが、辺り一面に撒き散らされる。


 どうすべきか。

 何をすべきか。

 何か手段を、策を、講じなければ。

 しかし何も思いつかず、防戦する事すら叶わない。

 手にした武器・ミゼリコルドは、左腕ごと床の上に転がっているのだ。


 必死に距離を取ろうと、クロエは後退る。

 だが、遅い。

 身体が鉛の様に重く、脚が思う様に動かない。

 何故これほどに、動きが鈍いのか。

 腕のダメージが、脇腹のダメージが、重く響いているのか。

 ここまで急激に、身体が動かなくなるほどのダメージなのか。

 混乱の中でクロエは、追撃を加えんと眼前に迫るベルベットを見た。


 無残に引き裂かれ、濃縮エーテルに塗れた黒いドレス。

 裂傷を負った素肌から、際限無く濃厚な紅色が滲み出している。

 胸も、腹も、腕も、脚も、傷の無い所など無く、血塗れていない所も無い。

 しかも右胸に負ったダメージは貫通創、致命傷では無いのか。

 何故、ベルベットは動けるのか。


 御下げ髪は乱れてほつれ、血に濡れた頬にへばりついている。

 凄惨な有様で、ベルベットは口角を吊り上げ、嗤っている。

 口許から、獣の如きギザギザとした鋭利な牙が覗く。

 黒縁眼鏡の奥で、黒い瞳がキラキラと煌めいている。

 先ほどまでの、憔悴した表情は何だったのか。

 追い詰められていたのでは無かったのか。


 ベルベットの両手に携えられたグラディウスが、鈍く光る。

 光は帯を引き、そのまま振り被る様に、引き絞る様に。


 もはや逃れる事など。

 脚がもつれ、そのままクロエは後方へと倒れ――


「待てっ! 待てぇっ! 敗北を宣言する!」


 闘技場内に野太い大音声が響いた。

 同時に血相を変えた複数の男達が、待機スペースより飛び出して来る。

 仕立ての良いスーツを着込んだ、クロエの介添人達だ。

 闘技場にて頽れたクロエの元へ、みな全力で走り寄る。


 クロエは竦む脚を震わせながら、石床の上に座り込んでいた。

 震えながら濃縮エーテルの吹き出す左腕を右手で抑え、蒼白の顔を上げる。

 傍らに立つ、ベルベットを見た。


 ズタズタのドレスを纏った血塗れのベルベットは、観覧席を見上げていた。

 両手にグラディウスを携えたまま、笑みを浮かべていた。

 先ほどまでの、獣染みた狂気の形相では無かった。

 童女を思わせる、無垢な笑みだった。

 全身全霊を賭し、仕合っていた対戦相手に対する想いや感情――そんな物は微塵も感じさせない、怖いほどに透き通った笑みだった。


 ◆ ◇ ◆ ◇


 観覧席最上段に設けられた、大理石作りの豪奢なバルコニー席。

 歓声に湧き返るアリーナを見下ろしながら、マルセルは軽く口笛を吹いた。


「――なるほど。確かにイザベラが自慢するだけの事はある……が、ベルベットのダメージは深過ぎやしないか? 二週間後の本戦に間に合うのかい?」


「――問題ないさ、二週間後の仕合にも十分に間に合うよ」


 余裕の笑みと共に答えるベネックス所長も、闘技場を見下ろしている。

 視線の先には、死闘を終えてこちらを振り仰ぐベルベットの姿。

 血塗れで微笑むベルベットに、ベネックス所長は軽く手を振り応じる。

 その様子を眺めながら、マルセルは左眼のモノクルを煌めかせつつ告げた。


「ふん……それがキミの言う新機軸という奴かな? まあ良い、ともあれ賭けは成立だ、イザベラ。キミのベルベットが勝つか、ボクのオランジュが勝つか、勝負といこう」


「……勝たせて貰うよ、マルセル君。この世の『神性』を否定する為にね」


 ベルベットを見つめたまま、ベネックス所長は笑顔で応じる。

 マルセルは白い歯を見せながら笑い、踵を返した。


「ボクのオランジュは特別さ、楽に勝てるだなんて思わない事だ」


 そう言い残すと、バルコニー席と廊下を隔てる扉から退出する。

 ベネックス所長は、改めて卓上のデキャンタに手を伸ばした。

 グラスに新たなワインを注ぎながら、小さく呟く。


「キミを追うのは、いつだって楽じゃなかったさ。マルセル君……」


 ◆ ◇ ◆ ◇


 見よ! 彼の者を見よ!

 聖女・グランマリーに選ばれし、勇者たる者の姿を見よ!

 聖戦の高みを望む猛き魂、そのありかを見よ!


 管弦楽団の演奏に、蒼いドレスを着た女の美しい歌声が響き渡る。

 そこに居並ぶ貴族達の混声合唱が加わり、闘技場内は怒涛の聖歌に包まれる。

 狂騒と狂喜に彩られた観覧席を見下ろしながら、シャルルは言った。


「――ベルベットの仕合を見るのはこれで二度目になる、覚えているだろう……エリーゼとグレナディの仕合が行われた日だ」


 レオンはシャルルの横顔に視線を送る。


「ああ、覚えてる」


「あの日もベルベットは、頭部に重篤なダメージを負っていた。どう見ても動けそうに無いダメージだった。そんな状態から逆転したんだ。今回の仕合もそうだ。あれほどのダメージを抱えて……オートマータと言えど、動き回れるものなのか?」


 訝しむ様にシャルルは尋ねる、レオンは答えた。


「……基本的に、戦闘用オートマータの痛覚は抑制されている。だから人間より遥かにダメージ耐性は高い。でも……シャルルの言う通りだ、今の仕合でベルベットが受けたダメージは、身体制御に支障が出るレベルだと思う」


「警戒すべき事柄が、また増えたという事か……」


 シャルルは息を吐き、低く応じる。

 レオンも頷き、肯定の意を示す。


 そもそも『コッペリア・ベルベット』は、あのベネックス所長が送り出したオートマータなのだ。ベネックス所長が優秀な錬成技師である事は、レオンのみならず、誰もが認めている。

 予想を超えた特殊な技術が用いられていたとしても、なんら不思議では無い。

 倒さねばならぬ敵となったならば――容易い相手では無いだろう。

 かつての恩人であるベネックス所長を、敵として考えねばならぬ現状に、レオンは苦いものを感じていた。


 ◆ ◇ ◆ ◇


「ただいま戻りました、皇子」


 警備員がバルコニー席の扉を開けるなり、にこやかにマルセルは口を開く。

 スーツの襟とシャツの袖口を整えつつ、小部屋へ立ち入る。


「おかえり、マルセル。ベネックス勲爵士(くんしゃくし)の要件は何だったのかな?」


 そう声を掛けたのは、欄干脇に設えられたソファに座る美丈夫だった。

 年齢は、三〇を僅かに過ぎた頃か。

 引き締まった肉体を包むのは、シルバーグレーのタキシード。

 ウェーブ掛かったブラウンの頭髪に、透き通った蒼い瞳。

 品良く整えられた口髭、右手にはワイングラス。

 ガラリア皇帝『ヴァリス四世』の第二皇子。

 エリク・ドミティウス・ドラージュ・ガラリア――その人であった。


「賭けに誘われましたよ、トーナメントでどちらが勝ち残るのか……ってね」


 マルセルはビロード張りの椅子に腰を降ろしつつ、軽く応じる。

 エリク皇子は手にしたワイングラスを揺らし、微笑む。


「なるほど……それで?」


「賭け事は大好きなんでね、受けました」


「大博打かね?」


「ええ。ボクが勝てば、彼女が錬成した『コッペリア・ベルベット』の情報を開示して貰う。仮に彼女が勝ったなら――ボクと皇子が推し進めている事業に参加させる……」


 膝を組みつつ、事も無げにそう告げた。

 エリク皇子はワイングラスを傾けつつ、目を細める。


「……ほう? ベネックス勲爵士は、私と君が推進している事業の内容を、把握していると?」


「どうでしょうかね、完全には理解していないでしょう……ですが」


 マルセルはそこで言葉を切ると、卓上のデキャンタに手を伸ばす。

 そして己のグラスにワインを注ぎながら続けた。


「彼女はボクという人間を良く理解している……長い付き合いですからね、何かしら察しているのかも知れない。そして彼女は――」


 ワインで唇を湿らし、マルセルは微笑む。


「帰るべき場所も、守るべき物も、何も無い人間ですから」


「へえ……パパに似ているのね?」


 可憐な声が揶揄う様に、心地良く響いた。

 微笑む皇子の向かいに設置された、猫脚ビロード張りのカウチソファ。

 そこへゆったりと撓垂れ掛かる、純白のシュミーズドレスを纏った娘だった。


 優雅に波打ち煌めくブロンドのロングヘア。

 長い睫毛に縁取られた、エメラルドグリーンの双眸。

 蜜を含んだようにトロリと濡れ光る、紅い唇。

 シルクの如き光沢を帯びた、白い肌。

 その肢体は優美であり、絢爛であり、その相貌は絶美であった。

 天より降臨した美姫も斯くやと思うほど――それほどに美しい。

 『グランギニョール』序列第一位、『レジィナ』の称号を与えられた娘。

 マルセルの錬成したオートマータ、オランジュだった。


「パパも、そういう人間でしょう?」


 歌う様に問うオランジュの美貌を、マルセルは見遣る。

 モノクルの下で、片眉を吊り上げてみせながら応じた。


「どうかな? いやあ、半分ってトコロだろうね」


「半分なのかね?」


 エリク皇子は楽しげに尋ねる。

 黄金に輝く義肢を胸元に添え、マルセルは答えた。


「ええ。ボクも帰るべき場所は不要だし、守るべきモノも無い。だけどボクは彼女と違って、過去に捉われない、常に明日を、未来を見据えている――」


 綻ぶ口許から、真珠の様に白い歯が零れる。

 輝くグレーの瞳は、夢見る少年の様だ。


「――未来を望むこの想い、胸の奥から湧き上がるこの衝動、嘘偽りの無い、完全なる意志、ボクの全ては未来にこそある。先へ、前へ、未来へ、辿り着かねばならない場所だけが、ボクにはあるんです」


「なるほど、未来か。実に良いね……」


 エリク皇子は、ソファに背を預けながら満足そうに息を吐く。

 ゆっくりと目蓋を閉じつつ告げた。


「共に征こう――同志よ」

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