第98話 逆転
円形闘技場内は、悲鳴にも似た歓声で湧き返っていた。
血に塗れてネットに囚われたベルベットの姿に、貴族達は皆、興奮していた。
漆黒のドレスは切り裂かれ、白い肌は半ば紅色、脚には刃が突き立って。
有閑にして俗物な貴族達の望む光景が、闘技場で繰り広げられている。
オーケストラ・ピットの管弦楽団が、静かに鎮魂の曲を奏で始めた。
◆ ◇ ◆ ◇
絡みつく鎖のネットに苦しみながら、ベルベットは石床の上に跪いている。
顔を上げ、黒縁眼鏡の下からクロエを睨み、苦しげに歯を食い縛る。
濃縮エーテルの紅に汚れた相貌は、整っているだけに痛々しい。
ベルベットを見下ろすクロエは、ミゼリコルドを手に、敗北を促す。
「敗北の宣言をお勧めします。ここからの逆転は不可能でしょう」
しかしベルベットは応じない。
囚われたネットの内側で、手にしたグラディウスを乱暴に振るおうとする。
その度に鎖で編まれたネットが、ガシャガシャと耳障りな音を立てる。
クロエは僅かに視線をずらし、西側入場門脇の待機スペースを見遣る。
そこにはベルベットの介添人達がいる筈だ。
この危機的状況が理解出来たなら、何らかの動きを示すのでは無いか。
しかし、そんな様子は無い。
待機スペースの奥に人影は見える――が、動こうとしない。
この状況が理解出来無いのか?
それとも、ベルベットの主・ベネックスが、何の指示も出していないのか。
このままベルベットを見捨てるつもりはあるまい。
ならば、ここから逆転する術が有ると考えているのか。
「これが最後です。敗北の宣言は、なさらないのですか?」
改めて問い掛ける。
――が、ベルベットは何も答えない。
相変わらず歯を食い締めたまま、こちらを睨めつけ、手にしたグラディウスで懸命にネットを裂こうとしている。
鈍く光る刃と切っ先を、ギリギリとネットに擦りつけている。
とはいえネットは金属製の鎖で編まれている、この程度で斬れるわけが無い。
むしろグラディウスの刃がボロボロとこぼれ、欠けてゆく。
ベルベットの身体から染み出す血糊が、鎖のネットを紅く汚してゆく。
そしてベルベットが足掻く間も、介添人達は変わらず無反応だ。
ベルベットの主であるベネックスも動きを見せない。
本当に逆転の術があるのか。それとも無いのか。
逆転の術があろうと、無かろうと。
決着は死か、敗北宣言のみだ。
敗北を受け入れず、宣言しないとなれば。
決死にて仕合を終えるしか無い。
「では、続行します」
クロエはそう告げると、膝に溜めを作り姿勢を落す。
ネットに繋がる鎖を握った右手は前へ、左の刺突剣は後ろへ。
一切の躊躇無く、クロエは右手を全力で引いた。
ネット内に囚われたベルベットは、その力強い牽引に姿勢を崩す。
同時にクロエは、大きく前へ踏み込む。
そのまま流れる様に刺突剣を繰り出し、全力で打ち込んだ。
「ふっ……!」
交錯の瞬間まで、〇・一秒も要さない。
クロエの刺突剣は、身を捻ったベルベットの右胸を貫通する。
「……っ!!」
――と、同時に。
クロエは自身の右脇腹に鈍い衝撃受け、視線を落した。
目視してなお、何が起こったのか理解し難い。
それでも、はっきりと見えていた。
自身の右脇腹に突き刺さる、剣の切っ先を。
それは、ベルベットの右手に握られたグラディウスだった。
鎖で編まれたネットを、こぼれた刃で突き破り、内側から貫通したのだ。
なぜそんな事が。
「……っ!?」
クロエは即座に後方へと飛び退る。
脇腹への刺突は、グラディウスによるものだ。
幅の広いグラディウスの刃を体内で捻られたなら、大出血は免れない。
こちらの刺突も相手の右胸を貫通しており、大ダメージを与えてはいるが、一気に形勢逆転される可能性があった。
故に逡巡無く退いたのだ。
ここで退いたからといって、こちらの有利は覆らない。
鎖のネットをグラディウスで貫通されたのは予想外だが、ベルベットは未だネット内に囚われたままだ。
ベルベットにしてみれば、先の刺突こそが起死回生のチャンスだったのだ。
ネットの中からでは追撃など出来ず、再度の攻撃も難しい。
そう――グラディウスの届かぬ角度へ、回り込むだけで対応は事足りる。
その上で、刺突による必殺の一撃を加えたならば。
身動きの利かぬベルベットの背後を取る事など、難しい事では無い。
僅かな思考を経てクロエは、横から回り込むべく疾駆する。
石床の上にボタボタと、溢れ出た濃縮エーテルが撒き散らされる。
想像以上に、右脇腹の傷は深いという事か。
このまま濃縮エーテルが流出するなら、恐らく三分足らずで動けなくなる。
もはや、決死決着以外に道は無い。
一気にケリを着ける。
瞬く間にクロエは、ベルベットの背後へと回り込む。
更に右腕を躍らせ、ネットと繋がる鎖を全力で引く。
懸命に身体を捩ろうとするベルベットの姿勢を、崩す為だ。
想定通り、ベルベットは蹲ったまま傾いでよろめく。
この時点で、反撃の芽を潰した。
そのまま、左手に構えた刺突剣・ミゼリコルドを、ベルベットの頭部へ――。
その時。
何か硬い物が、脆く砕ける音を聞いた。
ゴリゴリとも、ブツブツとも聞こえた。
ベルベットの周囲に、微細な銀色の粉が飛び散るのを見た。
何が起こっているのか。
次の瞬間、有り得ぬ事が起こった。
ベルベットに絡みつく、鎖で編まれたネットが引き千切れたのだ。
「なにっ……!?」
硬く強靭である筈の戦闘用ネットが破られ、突破されていた。
濃縮エーテルに塗れたズタズタのドレス姿が、石床の上へまろび出る。
傷だらけの両脚を大きく開いて膝を曲げ、限界まで身を低く沈めている。
両手に握ったグラディウスも、刃が床の上に接している。
鋭く、研ぎ澄まされた二振りの剣が。
「……っ!?」
剣が――いや、それよりも。
力を溜めて、こちらへ一息に飛び込んで来るつもりか。
脇腹への刺突ダメージに勝機を見出したか。
或いは自身が負ったダメージから、もはや長く戦えないと判断したか。
ならば迎撃するまでだ。
ネットを内側から破れたとはいえ、ネット自体が消失したわけでは無い。
戦闘用ネットの本質は捕捉に有らず、打撃する事、斬り裂く事だ。
クロエは右手にチェーンを巻きつけ、力強く手繰る。
そのままネットの端を束ねて握り、身構えた。
同時に、ベルベットが地を蹴り疾駆する。
恐ろしく低い姿勢、地を這う様な突進だ。
そして速い。
脚に重大なダメージを負っているとは思えぬ速さだ。
しかし速いとはいえ、対応出来ぬ程の速度では無い。
この程度の速度にて行動するコッペリアは幾らでもいる。
また、正面からの仕掛けも無策に過ぎる。
こちらは既に、迎撃の姿勢が完成しているのだ。
間合いに入った瞬間、手にしたネットを振るえば事足りる。
逆転の目など無い。
全力かつ完璧なタイミングで、クロエは右手のネットを振るった。
重く硬い、金属のチェーンを束ねた強力な打撃だ。
ネットの縁には、無数の鏢(ひょう)が取りつけられている。
回避不能、強烈無比な、突進に対するカウンターだ。
そんな、決着の一撃となる筈のカウンターが。
有り得ぬ形で失敗した。
ブチブチと、ギチギチと。
再び何かが砕ける音をクロエは聞いた、次の瞬間。
「そんなっ……!?」
振るった戦闘用ネットが、バラバラに朽ちて崩壊した。
鎖が砕け、ネットが裂けて、有らぬ方向へと千切れ飛ぶ。
辺り一面に舞い散ったのは、キラキラと煌めく銀色の粉だ。
朽ちて砕けた鎖の粉だ。
その飛び散る銀粉の向こうから。
赤黒い暴風を思わせるベルベットが、低い姿勢のまま頭から突っ込んで来た。
「おのれっ……!!」
クロエは態勢を崩しつつも、強引に左のミゼリコルドを構えようとする。
――が、ベルベットの速度に対し、この状況からではカウンターが取れない。
相打ち――その言葉がクロエの脳裏をよぎる。
いや、ならば、そう覚悟した上で――。
半歩退きながら、足の裏が床を捉えると同時に。
クロエは全力で左腕を突き出し、ミゼリコルドにて迎撃した。
全く同じタイミングで迫る、ベルベットのグラディウスと交錯する。
その刹那。
クロエの上体がぐらりと傾いだ。
正確無比に刺突する筈のミゼリコルドが、ブレながら脇へと逸れる。
驚愕の形相で、クロエは目を見開いた。
「ぐうっ……!?」
有り得ぬ事が起きている。
何故、刺突が逸れたのか。
右脇腹に受けたダメージのせいか。
痛みなどは無い、痛みなどは最初から抑制、制御されている。
ただ――右脇腹周辺の感覚が、無い。
いや、思う様に、身を捩る事が出来ない。
それ故、必殺の刺突を自在に制御する事が出来なくなり――。
限り無く圧縮された、数コンマ一秒の狭間で。
クロエは目前に迫るベルベットの、愉しげな笑みを見る。
綻ぶ口許から、獣の如き鋭利な牙が、ゾロリと剝き出しになっていた。
人の歯では無い、獣の牙だ。
「――っ!?」
斬撃が疾走り抜け、残光が眼前で銀色に煌めいた。
直後、噴水の如くに濃縮エーテルの紅が吹き上がる。
切断された左腕の断面から、勢い良く溢れ出した物だ。
ミゼリコルドを握り締めた左手が、石床の上に転がり落ちた。
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