第93話 宿木
降り注ぐ陽光の下、瑞々しい芝生が煌めいて見えた。
色鮮やかな花壇、丁寧に剪定された低木、白いベンチに日よけのパラソル。
広々とした庭園を取り囲むのは、壮麗極まる白亜の建造物だ。
神殿の様にも、宗教施設の様にも思えるが、いずれでも無い。
そこは特別区画の貴族達が遊興に耽る為の施設――『喜捨投機会館』だった。
緑豊かな庭園の、そこかしこで着飾った貴族達が、ワイングラス片手に談笑している。
話題はもちろん、近く開催されるトーナメント戦に関する事柄だ。
どの様な組み合わせになるのか。
オッズの行方はどうなるのか。
一〇年無敗のコッペリア『レジィナ・オランジュ』を破る者は現れるのか。
三日後に迫った『グランギニョール』が、トーナメント戦の皮切りとなる。
今回の『グランギニョール』は通常プログラムの他に、トーナメントの予選が四仕合、決定していた。
貴族達は皆、庭園入口の向こう正面に設置された、掲示板を仰ぎ見ている。
そこには既に、何枚ものポスターが貼り出されていた。
イベント前半は、下位リーグに登録されたコッペリア同士の仕合だ。
後半がトーナメントの予選となっていた。
コート姿のシャルルとレオンも貴族達の喧騒に混じり、それらを見上げる。
トーナメント予選に参加するコッペリア達の名前を、確認していた。
トーナメント予選・第一仕合。
『モルビル伯爵所有・ジャクリーヌ』対『ジュスト男爵所有・コルザ』。
トーナメント予選・第二仕合。
『ベネックス勲爵士所有・ベルベット』対『ランドン男爵所有・クロエ』。
トーナメント予選・第三仕合。
『バルザック辺境伯所有・メリッサ』対『ラークン伯爵所有・ナヴゥル』。
トーナメント予選・第四仕合。
『ギャンヌ子爵所有・アドニス』対『ダンドリュー男爵所有・ブロンシュ』。
今回のトーナメントは『枢機機関院』のオッズ・コンパイラー達が協議し、過去の功績を踏まえつつ、ランダムに決めるとされていた。
矛盾した方針ではあるが、貴族社会の有力者が複数参加するトーナメントだ、当初予定されていた『上位八名』では無く『上位十二名』参加に変更されたのも、貴族間の力関係に配慮した結果だろう。
また、予選に参加したコッペリアが、本戦へ進めぬ状況に陥った場合は、序列下位のコッペリアから補欠を募る事が決まっていた。
シャルルはレオンに囁く。
「エリーゼの名前は無いな」
その言葉通り、エリーゼが予選にエントリーされる事態は回避されていた。
もとよりエリーゼは、序列四位の『グレナディ』に勝利している。
故に予選スタートという可能性は薄かったが『過去の功績を踏まえ』『ランダムに』という曖昧な方針に不安を覚え、急遽『喜捨投機会館』へと足を運んだのだった。
「取り敢えずは……一安心といったところか」
「ああ……予定が狂う心配は無さそうだ」
レオンはシャルルの言葉に頷きつつ、未だ掲示板を見上げている。
見知った名が記載されている事に、気づいた為だ。
『コッペリア・ナヴゥル』。
そして『コッペリア・ベルベット』。
いずれも因縁深い相手だった。
片や『ヤドリギ園』の負債を巡って対立する貴族――ラークン伯所有のオートマータであり、片やマルセルの目論みに手を貸し、密かに信頼を裏切っていたかつての恩人――ベネックス所長が所有するオートマータだ。
これらの因縁は、断ち切らねばならない。
その為には、勝たねばならない。
勝ち続ける事で『ヤドリギ園』が抱えた負債を清算し、マルセルの思惑を無に帰する――それしかない。
傍らでシャルルが囁く。
「行こうレオン。ベットの予定が無いなら、長居は無用だ」
シャルルの言葉通り、賭けに参加する予定は無い。
それに今日、トーナメント本戦の組み合わせが発表される事も無い。
公平を期する為、発表は二週間後だ。
ただ、ベッティングに関してはひとつ、朗報があった。
仕合に参加するコッペリアの関係者は、対戦相手へのベットを禁ずるという『グランギニョール』の規定が、トーナメント戦にもそのまま適用されている点だ。
この規定が有効ならば、マルセルやラークン伯、そしてベネックス所長による、エリーゼのオッズ引き下げ工作を防ぐ事が出来る。
これまでの様な、理不尽な倍率での仕合が回避されるという事だ。
上手くすれば、このトーナメント戦で、全ての負債を返済出来るだろう。
レオンは頷き、低く応じた。
「そうだな……『ヤドリギ園』に戻ろう」
◆ ◇ ◆ ◇
シレナ川上空は、工業地帯から立ち昇る噴煙で、薄墨の色に滲んでいた。
板金屋根のバラックが建ち並ぶ街並みは、錆とオイルに塗れていた。
狭く入り組んだ街路には、廃材とスクラップが積み上がっている。
水と蒸気を供給する鋳鉄ダクトが、雑然と路面を這い回り、絡まって見えた。
そんな『歯車街』を、カブリオレ型の蒸気駆動車が静かに走り抜ける。
シャルルとレオンを乗せた蒸気駆動車だ。
やがて雑然としたバラックが途切れ、レンガ造りの建物が見えて来る。
屋根にはグランマリーのシンボル。
鉄柵に囲まれた敷地内にはマロニエの木。
『ヤドリギ園』に到着したのは、午後五時を過ぎた頃だった。
正面玄関をくぐり、板張りの廊下を暫く歩けば、診察室に辿り着く。
レオンが扉をノックする、はい――と、室内から返事が返って来る。
扉を開ければ、僅かに漂うフェノール希釈溶液の匂い。
「おかえりなさい、レオン先生」
カトリーヌが明るい声で、出迎えてくれた。
レオンとシャルルはコートを脱ぎつつ、ただいまと応じる。
室内ではカトリーヌと、シスター・ダニエマの二人が働いていた。
シスター・ダニエマは薬棚の前で、調剤作業を行っている。
カトリーヌは診察机に向かい、卓上の書類に目を通していた。
書類の傍らにはレオンより預かった、スチーム・アナライザー・アリス……『蒸気式小型差分解析機』が、微かに白い蒸気を漂わせていた。
「今日は午後からの患者さんが少なくて、レオン先生から預かった宿題を、しっかり進める事が出来ました」
カトリーヌは書類を片手に微笑みつつ、報告する。
手にした書類には、レオンの義肢に関する詳細なデータが記載されていた。
「助かるよ、シスター・カトリーヌ」
レオンは謝意を伝えつつ、シャルルに丸椅子を薦める。
そのまま部屋の隅に設置された小型サモワルへと近づき、カップを用意する。
手伝おうと立ち上がり掛けたカトリーヌを笑顔で制し、お茶を淹れた。
「それで……どうだろう、シスター・カトリーヌ。対応は可能だろうか」
湯気が立ち昇る四人分のカップをトレイに乗せながら、レオンは尋ねる。
カトリーヌは胸を張り、答える。
「はい。スチーム・アナライザー・アリスをケーブルで繋げば、ある程度なら先生の義肢を制御出来ると思います。分解や組み直しは無理ですが――一時的な応急処置なら、私が習い覚えた一般的な義肢の応用で対応出来ますし」
澱みの無い口調から、静かな自信が伺えた。
頼もしさを感じつつ、レオンは頷く。
「ありがとう、シスター・カトリーヌ。本来なら僕が一人で対応すべき事なのに、申し訳なく思う。シスター・カトリーヌには負担を掛けてばかりだ……」
感謝に次いで謝罪の言葉を口にするレオンに、カトリーヌは唇を尖らせる。
「もう……先生、良いですか? 私は先生の助手として、グランマリーの助祭として、すべき事をしているんです。負担だなんて思っていませんよ? だから、安心して私に任せて下さい」
そう言ってカトリーヌは胸元を右掌で、ポンっと叩いて見せた。
少しお道化た仕草だが、それはカトリーヌなりの気遣いだ。
レオンはカトリーヌに対し、義肢内部に仕込んだ『知覚共鳴処理回路』使用に際して発生する、トラブルの処理を頼んでいた。
エリーゼの『神経網』に掛かる負担を、自身の脳と神経で処理する――その為には『知覚共鳴処理回路』の正常な可動が必要だ。
しかし『知覚共鳴処理回路』には未だ原因不明の問題があり、エリーゼの『神経網』が発する『エーテル・プルス』を正常に処理し切れず、義肢にダメージを与える事が解っている。
とはいえ回路の改修作業を行う時間は、もはや残されてはいない。
ならば回路の稼働時、外部から義肢を制御するしか方法は無い。
エリーゼの演武に際し『知覚共鳴処理回路』を使用した結果、レオンがどの様な状況に陥ったのか――カトリーヌには既に伝えてある。
立っていられぬ程の体調不良に加え、義肢の稼働に必要な『血液混合希釈エーテル』の喪失という症状について、カトリーヌは把握している。
その上でカトリーヌはレオンの頼みを聞き入れ、協力を約束したのだ。
仕合に際し、カトリーヌにも介添人として参加して貰う。
そしてスチーム・アナライザー・アリス――『蒸気式小型差分解析機』を用いて、義肢の制御を頼む。
それが、レオンの講じた苦肉の策であった。
「……解った。すまない、シスター・カトリーヌ」
「ほらまた。先生が謝る必要なんて無いんですからね?」
負い目を感じている為か、つい謝罪の言葉が口をついてしまう。
そんなレオンの様子に、カトリーヌは敢えて気丈な振舞いを見せる。
大丈夫なのだと、態度で示してくれているのだ。
そんな心遣いが嬉しく、同時に心苦しくもあった。
父との確執に『ヤドリギ園』を巻き込んでいる――その想いがある。
そこに明確な証拠は無い、しかし事の発端が父親である事は明白だ。
その事が、レオンにとっての拭い難い負い目となっている。
或いは『シュミット商会』のヨハンに頼めたなら――そう思う。
しかしヨハンは、エリーゼの『エメロード・タブレット』が特殊な代物である事に、半ば気づいている。
そんなヨハンに協力を仰ぐというのは、厳しい。
いや……この一件が片付いたなら、ヨハンには全てを伝えるつもりではいる。
その結果レオンは、自身が断罪される事になっても仕方が無いと考えている。
しかしそれは『ヤドリギ園』の負債を、全て返済し終えて後だ。
ふと、部屋の扉がノックされた。
カトリーヌが、どうぞ――と、応じる。
扉が開くと二人の子供達――サムとアビィを従えたエリーゼが姿を見せた。
灰色の修道服を纏ったエリーゼは目を伏せたまま、静かな口調で切り出す。
「お忙しいところ恐れ入ります、レオン先生。子供達が少しだけ遊んで欲しいと、そう申しております。就業時間で無いなら、是非サッカーでもと。外にいる皆を代表して、彼らが挨拶に参りました」
「よろしく、お願い致します……レオン先生。サッカーを、しましょう……」
エリーゼに続き、鯱張った二人の子供は、礼儀正しく声を発した。
ぎこち無いほどに神妙な面持ちでいるのは、エリーゼの指導だろうか。
子供達とエリーゼの距離感は、相変わらず微妙だ。
仲良くやっているのか、そうでないのか。
レオンは苦笑する。
「長く工房に籠っていたし、良い気分転換になりそうだ……」
そう呟いて、カトリーヌに視線を送った。
カトリーヌも笑みを浮かべると、子供達を見遣りながら言った。
「あんまりレオン先生に迷惑掛けちゃ駄目よ? 良い?」
「はーい!」
カトリーヌの許可に、子供達は嬉しそうな声を上げる。
シャルルも丸椅子から立ち上がる。
「だったら俺もつき合おう。最近、運動不足気味だからね」
「無理はしないでくれよ、シャルル」
「君がそれを言うのか?」
ジャケットを脱いだ二人は、次いでネクタイ外す。
三〇分だけ席を外すよ――レオンはカトリーヌにそう告げた。
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