第69話 慈愛
控室のドアには『シュミット商会』のプレートが取り付けられていた。
ドアを抜けた先の通路には、儀礼用制服を着込んだ男達が集まっていた。
『グランギニョール』を管理運営する『枢機機関院』のスタッフ達だ。
皆一様に沈痛な面持ちで、口を閉ざしている。
彼らと向き合うのは『シュミット商会』代表、ヨハン・ユーゴ・モルティエだった。
ヨハンは暗い眼差しで、眼前に立つスタッフの手元へ視線を落としている。
見据える先には、差し出された書面があった。
スタッフは手にした書面をヨハンに示したまま、口を開く。
「先の仕合で発生した事故に関する、正式な通達となります。『枢機機関院』と致しましても、この度の決定は痛恨の極みであります」
「……」
「ですが『グランギニョール』競技規則第二項に含まれる『会場内観客及び人員に対する、故意的な加撃』は、黙認しかねる行為です……こちらの書面に眼を通して頂いた上で、適切な対応をお願い申し上げます」
「解った……」
話を聞き終えたヨハンは頷き、差し出された書面を受け取る。
スタッフはヨハンを見遣り、心苦しげに告げた。
「……我々は、外で待ちます」
「ああ……」
短く応じたヨハンは、彼らに背を向ける。
『枢機機関院』のスタッフ達は、控室へ戻るヨハンの背を黙って見送った。
◆ ◇ ◆ ◇
一〇人は留まれそうな広々とした控室に、しかし人影は無かった。
本来なら『シュミット商会』のサポートメンバー達もここへ戻る予定だった。
しかし彼らは今、戦闘中に倒れた『グレナディの娘たち』と共に、会場の駐車場に停めてある駆動車両へ移動していた。
ヨハンは控室を二つに区切る間仕切りの奥……医療スペースへと向かう。
そこには、簡易ベッドの上でうつ伏せに横たわる、グレナディの姿があった。
負傷個所の縫合も圧迫止血も終えて、点滴による輸液が施されていた。
ダメージが深刻だった腕と脚のみならず、全身至る所に包帯が巻かれている。
既に蘇生処置は終えている、しかしグレナディは動かない。
目許を隠す黒い布のせいか、眠っている様にも見える。
簡易ベッドに隣接した診察机の椅子を引き、ヨハンは腰を下ろした。
そして、卓上のスチーム・アナライザー・アリスを起動する。
淡く蒸気が漂う中、ヨハンは何本ものエーテル測定用ケーブルを取り出し、スチーム・アナライザー・アリスに接続し始めた。
「ヨハン……? そこにいるのですね……?」
細い声が聞こえた、グレナディだった。
ヨハンは答える。
「ああ……ここにいるよ」
「すみません……娘達がいないので、ヨハンに気づく事が出来ませんでした」
消え入りそうな声でグレナディは呟く。
眼の役割を担う娘達が全て倒れた為、視力を失っているのだ。
「……不便だとは思うけれど、少しだけ我慢して欲しい」
ヨハンは静かに応じる。
グレナディは声を震わせた。
「ごめんなさい、ヨハン。グレナディは……」
この控室で蘇生を行った直後。
意識を取り戻したグレナディは酷く取り乱し、嗚咽と共に謝罪を繰り返した。
ごめんなさい、ごめんなさい。
本当にごめんなさい。
酷い事をして、ごめんなさい。
取り返しのつかない事をしてしまった。
グレナディはもう――。
血塗れで慟哭するグレナディを抱き締めながら、ヨハンは繰り返した。
大丈夫だ、大丈夫だから。
問題無い、大丈夫だ。
先方から、命に別状は無いとの連絡があった。
後の問題は、僕が対処する。
心配しなくて良い。
グレナディは良く戦ってくれた。
だから、落ち着いて。
もう、大丈夫なんだ。
「大丈夫だ……心配しなくて良いよ、グレナディ」
ヨハンは指を伸ばし、グレナディの頬に掛かるほつれ髪を、そっと払った。
指先を頬に感じたグレナディは、柔らかに口許を綻ばせる。
「ありがとうございます……ヨハン……」
「……」
黒い布で目許が覆われていても、その微笑みは美しい。
ヨハンは無言のまま、卓上のケーブルコネクタを手に取る。
「私はヨハンに迷惑を掛けてばかり……」
「グレナディ、そんな事はもう……」
グレナディの言葉を、改めて諫めようとするヨハン。
いいえ、違うのです――と、グレナディは断り、言葉を続けた。
「……もうひとつ、ヨハンにご迷惑をお掛けしてもよろしいですか? グレナディに代わって『コッペリア・エリーゼ』の主である、レオン・マルブランシュ様に、謝罪をお願いしたいのです……あってはならぬ凶行故、謝罪など受け入れて頂けないかも知れませんが……」
ヨハンは頷く。
「……必ず伝えておく」
「わがままを言って、ごめんなさい……」
「良いんだ、気にしなくて良い……」
そしてゆっくりと、グレナディの首筋に埋設された接続用ソケットへ、手にしたコネクタを差し込んでゆく。
グレナディは動かない。
されるがまま、ベッドに横たわっている。
「――このまま『音響睡眠』措置を施すよ。応急処置は終わったけれど、状態は良く無い――神経にも、臓器にも、損傷がある。万が一に備えて、睡眠状態で研究室まで移送する……」
「はい、お任せします……」
ヨハンの説明に、グレナディは小さく頷く。
口許が、淡く綻んでいる。
ヨハンは視線を逸らす。
「――ヨハン。眠るまでの間、少しだけお話しても良いですか?」
グレナディの言葉に、ヨハンは手を止める。
束の間の沈黙。
「……ああ、構わないよ」
ヨハンは短く応じた。
グレナディは口を開く。
「グレナディは遠い昔に子供を失った……そんな記憶に苛まれていたんです。以前、お話しましたよね? グレナディはオートマータだから、子供なんている筈も無いのに。でも、何故かずっと、子供を亡くした事が悲しくて、辛くて、そんな事ばかり考えていたんですよ……」
「……うん、そう言っていたね」
ヨハンはグレナディの首筋に、新たなコネクタを差し込む。
グレナディはコネクタを受け入れつつ、静かに呟く。
「だけどヨハンは、そんなグレナディに、八人もの娘を授けて下さって……本当に嬉しかったんです。良かった、グレナディの子供達なんだあって……」
「……うん」
「やっと願いが叶ったんだって。グレナディは、お母さんになれたんだなあって。不思議ですねえ……でも、そういう気持ちだったんですよ……嬉しかったんです……」
「……うん」
それは、グレナディの魂が『精霊ラミアー』であるが為に生じた、かりそめの記憶だった。その記憶を補完するべく、ヨハンは娘達を錬成したのだ。
そして『千里眼』の伝承を、グレナディを支える八人の娘達で再現したのだった。
「グレナディには八人の娘がいて……凄く幸せで……だからグレナディは、ヨハンに凄く感謝してて……ヨハンは神様みたいって、そんなヨハンの為になら、グレナディは何でも出来るって、そう思っていたんですよ……」
「……ありがとう、グレナディ」
ヨハンは謝意を口にすると、鈍く光る新たなコネクタに手を伸ばす。
グレナディは更に続ける。
「……でも本当はグレナディ、ヨハンの事を神様みたいに思っていたんじゃなかったんですよ……」
「……」
グレナディは、コロコロと笑った。
「神様よりも、もっと大切な存在……。ヨハンの事、グレナディの子供みたいだって……ヨハンもグレナディの子供だったら良いのにって……ふふっ、おかしいと思いますか? だけどなんだか、そんな風に思っていたんですよねえ……」
ヨハンの手が止まる。
グレナディの白い横顔を見つめた。
「グレナディは、ヨハンのお母さんになりたかったんだなあって……グレナディはヨハンのお母さんだから、ヨハンの為に頑張ろうって、思っていたんですねえ……」
グレナディの口許には、幸せそうな微笑みが浮かんでいた。
その優美な微笑みに、コネクタを摘まんだ指先が震える。
「可愛いヨハンの為に、グレナディは絶対に頑張ろうって、ヨハンのお母さんだから何があっても頑張ろうって、そんな風に思って……だから、勝ちたかったなあ……」
ヨハンは歯を食いしばり、最後のコネクタを差し込む。
言葉を発そうと口を開き、何も出て来ない。
「……最後に良いですか? ヨハン」
「うん……」
なんとか声を絞り出して応じる。
グレナディは、そっと囁いた。
「お母さん……って、呼んでくれませんか……?」
ヨハンは、息を吐いた。
グレナディの横顔を見つめる。
美しい相貌を見つめる。
知っているのだ。
グレナディは、自分がどうなるのか、知っている。
ヨハンが行っている事の意味を、理解しているのだ。
◆ ◇ ◆ ◇
『グランギニョール』競技規則第二項。
『会場内観客及び人員に対する、故意的な加撃』を行ったコッペリアは、勝敗に関わらず廃棄処分とす。
◆ ◇ ◆ ◇
仕合の最中、グレナディはレオンを加撃した。
そうする事でエリーゼの隙を突き、討とうとした。
誰の目にも明らかな、重大な競技規則違反だ。
決して行ってはならない禁止事項だ。
しかしグレナディには、その判断がつかなくなっていた。
その時、その瞬間。
心の箍が外れてしまったのだ。
筆舌尽くし難い絶戦の末、精神のバランスを崩してしまったのだ。
それは、優れた戦闘用オートマータほど陥りやすい現象だった。
攻撃性の高い妖魔精霊の魂を内包している為だ。
人間とは異なる魂だけに、精神の安定と維持が難しい。
結果、グレナディには『枢機機関院』監視の元、廃棄の決定が下された。
ヨハンが今、グレナディに施そうとしている処置は。
『音響睡眠』では無かった。
スチーム・アナライザー・アリスの『音響効果』を用いて『エメロード・タブレット』の一行目に記述された『EMETH(真理)』の文字列から、最初の一文字『E』を消去、『METH(死)』に書き換えようとしていた。
そうする事で、タブレットの機能を停止させようというのだ。
云わばそれは、安楽死にも似た処置だった。
◆ ◇ ◆ ◇
意識を取り戻したグレナディは、気づいたのだ。
取り返しのつかない事をしたと、自覚したのだ。
自分の犯した罪を理解していた。
その結果、自分がどうなるのかも。
ヨハンの嘘にも、気がついていた。
その上でグレナディは、ヨハンに全てを委ねたのだ。
グレナディはまた、コロコロと笑った。
「それとも、恥ずかしいですか……?」
ヨハンはグレナディの微笑みを見つめたまま、動けない。
息が詰まりそうになる。
狂おしい程に、胸が痛い。
母の事を思い出す。
兄を救う為、炎の中へ飛び込んだ母の事を。
恐ろしかった。
でも、羨ましかった。
あそこまで愛して貰えるのかと。
グレナディは、仕合の中で狂気に陥った。
ヨハンを想い、ヨハンの為に道を踏み外した。
ヨハンの為にグレナディは。
炎へ飛び込んだのだ。
ヨハンは口を開いた。
「僕は……」
グレナディが想ってくれるほどに。
グレナディを想う事が出来たのだろうか。
だけど……それでも。
「……お母さんと一緒にいられて、幸せだったよ」
その言葉は、ごく自然に流れた。
ヨハン自身も気づかぬうちに、そう感じていたのだろう。
いや、明確に意識した事は無くとも。
発した言葉に、僅かほどの違和感も覚えなかった。
そうか。
そうだったんだな。
グレナディは、ふっ……と、吐息を漏らした。
口許に微笑みを湛えたまま、言った。
「グレナディも、ヨハンと一緒にいられて幸せでした……」
包帯の巻かれた腕が差し伸べられて。
ヨハンは、その手を握る。
「もう、何も思い残す事なんてありませんよ……」
「お母さん……」
ヨハンは左手をスチーム・アナライザー・アリスに伸ばした。
右手はグレナディと繋いだままだ。
「身体に気をつけて……どうか幸せに……ヨハン」
「ありがとう、お母さん……」
ヨハンは、そっと最後のコマンドを入力した。
生まれて初めて感じた確かな繋がりが、静かに途切れた。
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