第51話 信頼

 質素な二人部屋だった。

 ヤドリギ園で働くシスター達の居室だ。

 木製のベッドとクローゼットが二つずつ。

 壁に掛けられた時計の針は、午前六時を指している。

 窓を覆うカーテンの隙間から、薄紫色の弱々しい陽光が忍び込んでいた。


 部屋には水銀式黄色灯の明かりが灯されている。

 その穏やかな明かりの中、カトリーヌはエリーゼの髪を整えている。

 ベッドの縁に腰を下ろし、プラチナに輝く長い髪にブラシを掛けている。

 手の中を柔らかに滑る煌めきは、月明かりを浴びる絹糸の束を思わせた。


 エリーゼは小さな背中をカトリーヌに向け、木製の丸椅子に座っている。

 タイトなゴート風の白いドレスを身に纏い、軽く俯いたまま動かない。

 透き通るほど滑らかな白い肌には、僅かな傷も残っていない。

 レオンが行った、再錬成処置のおかげだろう。


 カトリーヌは黙したまま、指先で束ねた髪を丁寧に編み始める。

 美しく、形良く、解けない様に、しっかりと三つ編みに整える。

 前回と同じく、仕合に際して長い髪が邪魔にならぬ様にと頼まれている。

 二度目の『グランギニョール』に、エリーゼが参加する日の朝だった。



 八日前、レオンと共にヤドリギ園へ戻ったエリーゼは、園長とシスター・ダニエマ、そしてカトリーヌの前で、謝罪の言葉を口にした。


「ご心配をお掛けしてしまい、申し訳ございません」


 園長は柔和な笑顔で、エリーゼとレオンを迎え入れた。

 シスター・ダニエマは厳格な表情を崩す事無く、熱いお茶を振舞った。

 レオンも長期の不在を詫びると共に、診療所を任せっぱなしにしていたカトリーヌを労い、謝意を示した。

 カトリーヌは、大丈夫です、と答えて笑顔を作った。

 

 それからの八日間、カトリーヌはレオンと共にこれまで通りの診療活動を行う傍ら、代理診察を請け負う中で生じた様々な問題や、アイテム管理についての指示を仰いだ。


 使用頻度の高い薬品や機器についての扱いはともかく、滅多に使用する事の無い特殊機器や、レオンで無ければ扱えない人体用義肢の管理等についても、ある程度、知識として覚えておくべきだと感じたのだ。

 カトリーヌの質問を受けたレオンは、すぐに複数のケースを想定し、その対処法を丁寧に纏め、用紙にタイプアウトして応じてくれた。

 

 エリーゼは孤児達の面倒を見つつ、彼らの着ている服を洗濯し、傷んだ個所を見つけては繕うといった雑用を、他のシスター達と共に行っていた。

 それ以外の時間は、静かに本を読んで過ごしていた。

 伝記伝承について記された本であったり、近代史の本であったり。

 いつも通り、ダミアン卿より借りた物らしい。

 レオンのメンテナンスを受ける回数が増えた以外は、これまでと何も変わらない。


 それは、エリーゼがヤドリギ園で過ごした数か月間と全く同じ日常だった。

 穏やかで落ち着いた、ほんの少し騒がしい、ヤドリギ園の日常。

 ありふれた日常の中で、八日間を過ごした。


 ただ、それで良かったのだろうかと、カトリーヌは感じている。

 本当は、もっと何かすべき事があったのではと、考えてしまう。

 でも何も思い浮かばない。そしてどんな言葉も出て来ない。


 今だって、目の前に座るエリーゼに、何と話し掛けて良いのか解らない。

 もうすぐ仕合なのに、何と言って良いのか解らない。

 二週間前にも、同じ事を思っていた。


 ただ、二週間前とは、決定的に違う点がある。 

 エリーゼが実際に仕合を行い、深手を負ったという事実だ。

 そして仕合を行えば、命に関わるという現実。

 それは二つの意味に於いて、命に関わるという事だ。


 エリーゼが敗北する事など、考えたくも無い。

 でも、エリーゼが勝利するという事は――それは。

 それは、エリーゼが仕合で対戦相手を。

 そういう事だ。

 ……それでも、エリーゼが勝利しなければ、ヤドリギ園は存続出来ない。

 子供たちも生活出来なくなる。だけど。


 死が。


 死が、エリーゼのすぐ隣りに在る――その現実に。

 子供たちにとっての現実、その傍らにも死が在る現実に。

 他者の死を以てでしか、子供達が支えられないという現実に。

 そんな現実の、最も残酷で、最悪な部分を、エリーゼが担っている。


 申し訳ないのに、ありがたい筈なのに、辛くて、言葉にならない。

 過酷過ぎる現実を前に、カトリーヌは無力を感じていた。



「……シスタ・カトリーヌは、『アーデルツ』という方が、どんな方だったか――ご存知ありませんか?」


「えっ……?」


 ふと、透き通ったエリーゼの声が、カトリーヌの耳に響いた。

 意外な名前と不意の質問に、カトリーヌは少し迷う。

 『アーデルツ』――彼女についてカトリーヌが知っている事は、僅かばかりだ。かつてレオンが錬成し、ダミアン卿が預かっていたという、オートマータの女の子。そして、レオンの診療所で意識不明のまま、機能停止と判断されていた――ほぼ、何も知らないに等しい。

 どう答えるべきか悩みつつ、それでも口を開いた。


「その……レオン先生の診療所に運ばれて来たのを覚えてる。でも損傷が酷くて、そのまま意識も戻らなくて……だから私は会話した事が無くて、彼女については殆ど何も知らないの。ごめんね。ただ……レオン先生が錬成して、ダミアン卿が本当に、大切にされていたというのは良く解るから……上手くは言えないけれど、きっと良い子だったんだと思う……」


「左様でございますか」


 いつもと変わらぬ、エリーゼらしい返答だった。

 声質が柔らかな為か、冷たい印象は受けない。

 ただ、続く言葉にカトリーヌは戸惑った。


「――シスター・カトリーヌ。私はこれからもシスター・カトリーヌに、ご心配をお掛けしてしまうかも知れません。我が身を傷つける事無く仕合う事は、どうしても叶いません。申し訳ございません」


「えっ!? ううん! エリーゼ、謝らないで? 私は……私にはエリーゼにこれ以上、何かを望む事なんて……せめて、無理はしないで……」


 エリーゼの謝罪が辛い。

 本当に詫びるべきは、何もせずにいる自分なのだ……そう思う。

 続けてそう告げようと口を開き掛け、エリーゼの言葉が更に続いた事で、口を噤んだ。


「ですが……シスター・カトリーヌと子供達に『業』を背負わせる様な仕合も致しません」


「……『業』?」


 『業』を背負わせる――とは、どういう意味か。

 何を指しているのか。



「それは……どういう……」


 カトリーヌの問いに、エリーゼが答える。


「仕合を終え、暫くして気づきました。私は恐らく人を――それがオートマータであっても……仕合に際して、もう殺める事が出来ない、という事でございます」


 一瞬、ヒヤリとした冷たさを、カトリーヌは背中に感じた。

 殺めるという言葉――それは、気づいていた事だ。

 エリーゼが仕合を行い、勝利を得るという事は、そういう事なのだと。

 

 その上でエリーゼは、子供たちに『業』を背負わせないと言い、更に仕合う相手を殺める事が出来ないと言う――どういう意味か。

 思考が纏まらない。

 死の気配と、その重さが、カトリーヌの胸中を揺さぶる。

 そんなカトリーヌの混乱を拭う様に、エリーゼの声が響く。


「――初めてシスター・カトリーヌとお会いした時の事を、覚えていますか?」


「えっ……? う、うん、覚えてるよ……」


 静かなエリーゼの口調に、カトリーヌは落ち着きを取り戻した。

 エリーゼは今まで、一度も取り乱した事など無い。

 不用意な言葉で、カトリーヌを傷つけた事も無い。

 ならば今は、悩む事無くエリーゼの話を聞けば良い。


「――あの時、ご主人様が仰った通り、私は機能不全の状態で、放置されておりました。そんな私を救う為にご主人様は、私の『エメロード・タブレット』を『アーデルツ』という方の身体に移植されたのです……つまり、私のこの身体は『アーデルツ』という方の身体、という事でございます」


「そう、なんだね……」


 確かにレオン先生はそう話していた……カトリーヌは思い出す。

 深刻な機能不全に陥っていたエリーゼを『移植施術』で救ったと。


 その施術が具体的に、どの様な物だったのか解らない。

 『エメロード・タブレット』に関しても、過去にレオンとシャルルが行った会話の中でしか、カトリーヌは耳にした事が無い。

 ただ、その時に行われた会話と、エリーゼの発言から察するに――死亡した『アーデルツ』の身体に、エリーゼの『エメロード・タブレット』……いわば『魂』を移植した――という事なのではないか、と考える。

 その事についてカトリーヌは、倫理的に何かを思う事は無かった。


 瀕死の『アーデルツ』を前に、本気で激高したレオンを見ている。

 悲嘆に暮れるシャルルの姿も見ている。

 そして今、エリーゼが『ヤドリギ園』におり、レオンがエリーゼのメンテナンスを行い、シャルルがエリーゼの為に、本や洋服を届けている事も知っている。『アーデルツ』の死を、最も悼んだ二人がエリーゼを受け入れ、納得しているのなら、問うべき事など何も無い、カトリーヌはそう思っている。

 エリーゼの言葉が続く。


「私は自身を『エリーゼ』であると認識しております。そこに何の矛盾もございません。以前、礼拝堂でお話した通り……闘争の宴に咲く刹那の華こそが真にして現、そう思う私が在る――ですが、蘇生して頂いて以降、私の中に、新たな価値観が生じている事に気づきました」


「価値観……?」


 新しい価値観が生じる、とはどういう意味か。

 考え方が変わった、という事で正しいのか。 


「闘争に際し、相対した者を殺める事以上に、優先すべき事があると……」


「……」


 殺める事が出来ない、先にエリーゼはそう言った。

 仕合う相手を殺める事以上に、優先すべき事があるという。

 元よりエリーゼが、戦闘用のオートマータだった事は聞いている。

 オートマータの多くが、そうであるとも聞いている。

 考えたくは無いけれど……きっと恐らくエリーゼも、そうだったのだ。

 その考え方、価値観が変わったのだと。


「私は――シスター・カトリーヌを好ましく想っております。ご主人様を好ましく想っております。ご主人様とシスター・カトリーヌが想うヤドリギ園にも、愛着を感じております。子供達の事も憎からず思うのです。戦闘格斗で得られる高揚感、闘争の宴、刹那に咲き誇る華の真実、それら以上に――今は価値を感じるのでございます」


「……」


 滔々と紡がれるエリーゼの言葉。

 カトリーヌはエリーゼが言わんとしている事を、理解しつつあった。


「オートマータの魂は、その成り立ち故に不変と言って良いでしょう。ですが私は変化した――この価値観の変化は『アーデルツ』という方の想いが、私に息づいている為だと、そう感じるのです」


「『アーデルツ』さんの想い……」


 カトリーヌは、ゆっくりと息を吐きながら呟く。

 『アーデルツ』の身体を有したが為に、新たな価値観が生じたのだと。

 そういう事なのだろう。


「ならば私は、この変化を以て私であると認識します。故にシスター・カトリーヌにも、子供達にも、決して『業』を背負わせません。それが『アーデルツ』という方の願いであり、私の誓約。そう覚えて下さいませ。そして……ひとつお願いがございます」


「お願い……?」


 カトリーヌは問い直す。

 エリーゼは静かに応じた。


「私は決して、シスター・カトリーヌを裏切りません。ご主人様を裏切りません。子供たち、ヤドリギ園の方々を裏切りません。何があろうと、何が起ころうと、決して裏切りません――そう、信じて頂けますか?」


 エリーゼの白い背中に、カトリーヌは腕を回す。

 そのまま、きゅっと抱きしめて。


「……信じるよ。信じる」


 俯き、目蓋を閉じて告げた。


「エリーゼは私の友達だもの、絶対に信じるよ」



※来週の更新はお休みとなります、ご了承下さい。

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