第50話 別離
グランギニョール円形闘技場に隣接する『喜捨投機会館』。
白亜の神殿かと見紛うばかりに豪奢かつ重厚な、遊興娯楽施設だ。
解り易く言い換えるなら、競馬の馬券売り場、という事になる。
回廊状に造られた建物の正面玄関を直進すれば、中庭へと抜ける。
中庭は手入れの行き届いた庭園であり、既に多くの貴族達で溢れていた。
『グランギニョール』の開催を三日後に控え、仕合に参加する『コッペリア』の顔ぶれと、現在のオッズ状況を確認する為に、集っているのだった。
中庭入口近くに設けられたテーブルには、色鮮やかな複数のオードブルとワイングラスが並び、その向こう正面には、巨大な掲示板が掲げられている。
掲示板には『グランギニョール』で仕合を行うコッペリア達のポスターが張り出され、二枚一組毎に、オッズの記載された木製プレートが取り付けられていた。
フロックコートにシルクハット姿の男達がそれを見上げ、バッスル・ドレスにショール、羽根付きのトーク帽を合わせた女達もそれに倣う。
彼らは皆、ワイングラス片手に談笑を愉しみ、派手な遊興に耽っている。
或いは仕合の行方を占いつつ、俗な噂話に口許を歪めている。
特別区画ならではの恒例行事だった。
ただし、この日集まった貴族は、普段よりもかなり多く感じられた。
ガラリア統治を代表する皇帝『ヴァリス四世』の第二皇子『エリク・ドミティウス・ドラージュ・ガラリア』が観覧を決定した為だ。
超然的帝国議会制度を採用するガラリアに於いて、皇室は特別な存在だ。特に第二皇子は、個人資産として多くの不動産と株を所有する実業家としての側面を持ちつつ、同時に『錬成機関院』の特別顧問を務め、錬成科学のみならず『グランギニョール』の発展にも尽力する、ガラリア有数の実力者として知られていた。故に彼との繋がりを求める貴族は多く、それが今日の人だかりに反映されているのだった。
「まずいぞ、レオン……」
「……」
シャルルは苦虫を噛み潰した様な表情で、傍らの立つレオンに囁く。
レオンは黙したまま、じっと掲示板を睨みつけている。
居並び群れる貴族達の後方に立つ二人は、目立たぬ事を心掛けてか、共にダークな色のラウンジスーツにネクタイを合わせ、山高帽を目深に被っていた。
どちらの視線も、掲示板に貼られたポスター――そのオッズに注がれている。
二日目第四仕合。
『衆光会所有・エリーゼ』対『シュミット商会所有・グレナディ』。
『エリーゼ=1.45』『グレナディ=2.05』『引き分け=41.00』。
現時点で『1.45倍』という倍率は、どう考えてもまずい。
当初の計画どころか、今後の見通しも危うい。
確かにナヴゥルは、評価の高いコッペリアだった。
そんなナヴゥルに勝利したのだ、ある程度はオッズにも影響が出るだろうとは考えていた。しかしエリーゼは未だ一仕合しか行っておらず、次戦の相手も序列的には格上の『コッペリア・グレナディ』なのだ。当然『枢機機関院』のオッズ・コンパイラー達も、その辺りは考慮した筈だ。
にも拘わらず、このオッズは。
実際のベッティングで、どれ程の偏りが発生したのか見当もつかない。
先の仕合での勝ち分、レオンは五五〇〇万、シャルルが一三七五万。
更に戦勝褒賞金が一〇〇万、合計でおよそ六九七五万クシールとなる。
この全額を次の仕合につぎ込み勝利しても、概算で一億クシール。
『ヤドリギ園』周辺の土地を買い取る為に必要な資金、四億八〇〇〇万クシールの、四分の一にも満たない。
そしてこの仕合に勝てば、更にオッズが下がる筈だ。
今後何仕合、行えば良いのか。
戦闘用の身体では無いエリーゼが、どれだけの戦闘に耐えられるのか。
「――ごきげんよう、ダミアン卿。そしてマルブランシュ君」
その時、唸る様に低くしゃがれた声が、背後から投げ掛けられた。
レオンとシャルルが振り替えるとそこには、張り裂けそうに膨張した紫色のフロックコートで、樽の如き丸い体躯を覆う小男が立っていた。
ぴっちりと撫でつけられた薄い頭髪に、フリルの派手なドレスシャツ。
赤いタイには瑪瑙のタイピン。弛み切った顎と頬。
血走り黄色く濁った眼は、しかし驚くほどの力に満ちていた。
ガラリア屈指の大貴族にして、先の仕合でエリーゼに敗れた『ナヴゥル』の主人――ジャン・ゲヌキス・ポンセ・ラークン伯爵、その人だった。
護衛と思しき、黒いスーツ姿の男達に囲まれたラークン伯は、シャルルとレオンを下から睨む様に見上げつつ、唇を歪める。
「前回の仕合では勉強させて貰ったよ、ダミアン卿。そしてマルブランシュ君。君達を甘く見ておった、その事を謝罪しよう、すまなかった。当家のピグマリオンも、『コッペリア・エリーゼ』には、感服しておった……」
「……」
レオンもシャルルも押し黙ったまま、眼前の太った大貴族を見下ろしている。
何をしに来たというのか。
この間と同様に、何らかの嫌がらせ染みた策を弄するつもりなのか。
適当に対応してこの場を離れるべきだ……レオンがそう思った時。
ラークン伯は笑みを浮かべて口を開いた。
「――今日は遊興を愉しみに来たのだよ……前回の結果を踏まえてね、エリーゼ君の勝利にベットさせて貰った。ウチの『ナヴゥル』に勝利するほどの強さだ、次戦も必勝だろうと確信してね、多少、張り込ませて貰ったよ……」
「なっ……」
丸々と脂ぎった表情は笑みを形作っているが、両眼は欠片も笑っていない。
レオンは、オッズに発生した異常な偏りの理由を理解した。
シャルルもその事に気づいただろう。
ラークン伯もマルセルと同じく、莫大な金額を『エリーゼ』につぎ込み、強引にオッズの偏りを発生させているのだ。
『ヤドリギ園』周辺の土地を手に入れる為に、そこまでするのか。
否。
ラークン伯は、ゆっくりと笑みを消しながら告げた。
「……我が『ナヴゥル』が『エリーゼ』との再戦を望んでいる。私もな。故に君を『グランギニョール』から逃がさぬ」
「……」
突き刺す様に鋭い視線。
強烈な意志を感じさせる眼差しだ。
「必ず雪辱を果たすぞ、レオン・ランゲ・マルブランシュ。今はせいぜい勝利を重ねる事だ、つまらん相手に敗北する事など許さぬ。貴様の『エリーゼ』は、我が『ナヴゥル』が、尋常の勝負にて、正面から打ち砕く……」
ラークン伯は、レオンにそう告げると、護衛の男達と共に踵を返す。
その背中は醜く肥え太った男の、小さく矮小な後ろ姿には見えない。
暴力的なまでの威を湛えた、大貴族の背中だった。
ラークン伯を見送ったレオンとシャルルは、無言のままだ。
『グランギニョール』にて仕合を行い資金を得る――それは、唯一残された手堅い道であるかの様に思えた、が、実際には想像を超える難事だったのだ。
「――レオン。俺は『衆光会』でもう一度『ヤドリギ園』運営の為の出資者を募ってみる。園長とシスター・ダニエマも『在俗区派閥』の司祭に援助を乞う事を検討しているらしいから……」
「すまない、そうして貰えるなら助かる……」
シャルルの言葉に、レオンは首肯する。
今からでも金策が可能であるなら、それに越した事は無い。
四億八〇〇〇万クシールという金額は、やはり尋常では無い。
基本的にはエリーゼが仕合を行い、費用を賄うという方法を続けるしかない。
現状、倍率が二倍を大きく下回っているが、それでも勝てば掛け金は増える。
掛け金が莫大になれば、そして連勝を重ねれば……いずれ届くだろう。
但し、エリーゼに掛かる負担は甚大だ。シャルルの金策が功を奏せば、少しでもエリーゼの仕合数を減らせるかも知れない。
楽観的過ぎる考えかも知れない、しかし何もせずにいられる程、状況は甘く無い。
レオンはシャルルと共に歩き出す。
建物内に設けられた『ベッティング・ルーム』へと赴き、今回の投機――『賭け』を成立させる為だ。
談笑を続ける貴族達を避けながら、中庭の出入り口へ。
その向かう先に。
ふと、レオンは見知った人物を見掛ける。
アーチ状に組み上げられた、建物入口のすぐ脇。
長身でありながら、豊満なシルエット。
藍色のフリルブラウスに、ウエストを絞る黒いコルセット。
美しく波打つ藍色のスカート、足元は黒革のブーツ。
綺麗に纏められた、ライトブラウンのロングヘア。
涼し気な目許には銀縁の眼鏡。
「ベネックス所長……?」
レオンは呟き、歩み寄る。
ベネックス所長は軽く微笑むと、右手のワイングラスを軽く掲げた。
「やあ、レオン」
気軽で気さくな挨拶は、普段通りだ。
しかし。
口許に浮かぶ淡い微笑みに、何故かレオンは危うい物を感じた。
「どうされたのですか? 今日は――」
「私も錬成技師だからね。目指すべき物を目指す為に、ここへ来たのさ。気づかなかったのかい? 二日目の第二試合さ……」
楽し気に言うベネックス所長。
その言葉の意味が掴めず、訝しむレオン。
ベネックス所長も『グランギニョール』の在り方に疑問を抱いていた筈だ、故に錬成技師であっても『喜捨投機会館』へ足を向ける事は無いと思っていた。
「すみません、それはどういう……」
「それからね、レオン。キミが錬成した『エリーゼ』にベットさせて貰ったよ」
「えっ……?」
「キミを逃がさない為にね」
「!?」
事も無げにベネックス所長はそう告げた。
レオンは耳を疑う。
聞き間違いでは無いのかと思い、問い質そうと口を開き掛けた。
同時にベネックス所長は歩き始め、そのままレオンの隣りを通り過ぎようと。
その、すれ違う瞬間。
ベネックス所長は足を停め、レオンの肩に手を掛ける。
「――キミは自分の才能を軽く見ている。私はそれが許せない。キミの『コッペリア・エリーゼ』は、いずれ私の『コッペリア・ベルベット』が潰しに行く。その上で私は、マルセルの前に立つ」
低く耳朶を打つその言葉に、冗談めかした響きは一切含まれていない。
肩に乗せられた手が、その指先が、肩口に強く食い込む。
「才能在る者は、その才能に見合う『義務』を果たすべきだ。その『義務』むざむざ放棄するような奴は、地獄を見るべきだ。せいぜい勝ち続ける事だね」
その言葉と共に、肩を捉えていた手が離れる。
立ち尽くすレオンを残し、ベネックス所長は悠然と立ち去った。
時の流れが、凍りついた様に感じられた。
感情の整理がつかない。
どういう事なのか。
混乱の中で思考する、裏切られたのか? そう思う。
これは、裏切りという事なのか?
――いや、違う。
エリーゼのエメロード・タブレットを託したのは、彼女だ。
ベネックス所長が、エメロード・タブレットをレオンに託したのだ。
マルセルから預かった小包として、レオンへ託された物だ。
つまり、裏切られてなどいない。
最初からという事だ。
「レオン……?」
裏切りではなく、エメロード・タブレットを託される以前から。
事の起こり以前から、ベネックス所長は、マルセルと繋がっていた。
この件に絡んでいたのだ。
何故、気づかなかったのか。
あの小包を受け取った時に、なぜ違和感を覚えなかったのか。
マルセルの仕込みにしては、あまりにも不用意だと思わなかったのか。
いや、そうでは無い。
ベネックス所長に対する想いを見越しての事か。
情が、冷静さを奪うのだと、マルセルは判断したのか。
そして今、感情の揺れが思考を妨げている。
目指すべき物を、目指す為に――ベネックス所長はそう言っていた。
その通りだと理解出来る。錬成技師は、そういう存在だ。
全てを犠牲にしてでも、真理を掴もうとする。
破滅してでも、目指すべき物を目指す、それが錬成技師だ。
――でも、それでも、ベネックス所長は。
感情の整理が追いつかない。
――ただ、それでも。
「レオン、おい……?」
何故かとは、もう問えない。
ベネックス所長はもう。
それでも、何故と問いたい。
何故なら、ベネックス所長は、子供の頃からずっと。
子供の頃からずっと、身近な存在で、頼れる存在で。
かけがえの無い存在だと思っていた。
でも、それは違ったという事だ。
「どうしたんだ、レオン?」
そしてようやく、思い至る。
だからあの時、エリーゼは。
ベネックス所長と初めて会った時。
『定まらなかった疑問が解決した』と、エリーゼは言っていた。
つまりエリーゼは、あの時すでに、気づいていたのか。
ベネックス所長の立場に。
そしてエリーゼは、気づいた事について黙し、語らなかった。
それは――レオンを慮っての事か。
「おい、レオン……大丈夫か、おい?」
肩を掴まれ、レオンは我に返った。
真剣な表情をしたシャルルが、こちらを覗き込んでいる。
シャルルを見遣り、レオンは言った。
「いや……何でも無いんだ。すまない。行こう」
「しかし……今のは……」
「――心配させてすまない、後で、説明する……」
「そうか……」
シャルルは困惑気味に呟くが、それ以上は何も問わない。
レオンから視線を逸らし、そのままゆっくりと歩き始める。
何が正しくて、何が間違っていたのか。
ただ、エリーゼの言葉を思い出していた。
エリーゼが、グランギニョールへの参加を申し出た時の言葉だ。
成すべき事を、成す為に。
守るべき物を、守る為に。
レオンは、重い足取りで歩きだした。
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