第3話 敗北

 地に臥し動かない白銀の娘。

 その頭部を、漆黒の娘が踏みつける。

 何度も、何度も、頭蓋を砕かんばかりに踏みつける。

 石畳が朱に染まり、破損した鎧から漏れ出す蒸気が辺り一面に立ち込める。


 観覧席は荒れ狂う海原の如くに、波打って見えた。

 狂騒。乱痴気。

 汗に塗れて拳を突き上げる貴族達の、顔、顔、顔。


 誰ひとりとして、地に伏す娘を憂う者などいない。

 誰ひとりとして、漆黒の娘を誹る者などいない。

 むしろ望まれているモノは暴虐であり、残酷であり、死であった。


 しかし、その圧倒的享楽の中にあって独り、悲壮な叫びを上げる者がいた。

 ブラウンのフロックコートを身に纏ったその青年は、顔面蒼白になりながら観覧席の人ごみを掻き分け、血煙漂う闘技場へと走り寄っていた。

 ウェーブの掛かった髪はダークブラウン、瞳も同色、年の頃は二十代半ばといったところか。

 このアリーナを訪れる客としてはやや若く、場にそぐわない印象を周囲に与えた。

 

「やめろ! やめてくれ! 我々は敗北を認める! 我々の負けだ!」


 絶叫しながら観覧席に設えられた階段の傾斜を下り、闘技場と観覧席を隔てる石壁の上へ強引によじ登り、そのまま巨大な入場門の鉄柵へと近づく。

 そこには唯一、観覧席から闘技場へと入る事が可能な、折りたたみ式の梯子が設置されており、フロックコートの青年は悲痛な表情で、たたまれた梯子を伸ばすと、闘技場へ降り始めた。


「頼む! 負けを認める! 負けを認めるから止めてくれ!」


 青年は悲鳴にも似た声で、何度も敗北を宣言し続けた。

 しかし、気ばかり急くのか手足が縺れ、あろう事か梯子の中ほどで足を滑らせ、青年は石畳の上へ、うつ伏せに落ちてしまった。

 痛々しい音が響き、埃が舞い上がる。

 それでも青年はすぐに立ち上がると、コートの汚れを払おうともせず、二人の娘の傍へ、ヨロヨロと走り寄った。

 

 その有様の一部始終を見下ろす観客席から、一斉に怒号が飛んだ。

 ふざけるな! 退出しろ! 勝負を愚弄するか! 無礼な平民上がり!

 聖戦の決着に泥を塗るか! 決着が着くまでという取り決めだろうが!

 条件戦のルールも知らんのか! 帰れ帰れ! 薄汚い成り上がり者!


 闘技場に向かって次々と、口汚い言葉が唾と共に叩きつけられる。

 罵詈雑言の嵐の中、青年は漸く娘の下へと辿り着いた。

 石畳の上に血溜まりを作るほど、真っ赤に染まった娘の傍へ。


「私達の負けだ! これ以上の戦闘続行は望まない! 頼むから許してくれ!」


 青年は叫びながらその場へ屈むと、倒れ臥したまま動かない娘へ手を伸ばし掛けて、止めた。

 血糊に塗れた白銀の鎧は拉げ歪み、駆動を司る各パーツも酷く損壊し、素人が安易に抱え上げる事など、到底叶わぬ状態にある事は明白だった。

 

 ハルバードを手にした漆黒の娘は攻撃を止め、立ち止まっている。

 恐怖と絶望に震える青年の後ろ姿を、醒めた目で見下ろしていた。


「ああ、アデリー……なんて事だ、こんな……」


 苦悶の表情を浮かべた青年は、身に纏った埃塗れのフロックコートが血溜まりの中で赤黒く染まる事も構わず、入場ゲートの方へ振り向くと声を上げた。

 

「頼む! 搬送してくれ! 応急技師の手配を頼む!」


 そんな青年の背に、場内から湧き上がる怒声とは別種の、しかし何処かに嘲りの調子を含んだ男の声が投げ掛けられた。


「ダミアン卿! これは貴公と衆光会が望んだ条件戦ですぞ? コッペリアの魂、そのいずれかがグランマリーに捧げられるまで、或いはコッペリアが自ら敗北を宣言するまで……それが絶対のルール、それを覆そうと? 教会への礼を欠いていると誹られても、言い訳出来ませぬぞ?」


 倒れ臥した娘の傍らへ跪く青年は、声の主を振り仰ぐ。

 そこは観客席前列に設えられた、関係者用の特別席。

 複数の従者と共にアリーナを見下ろす男は、でっぷりと肥えた貴族だった。


 はち切れそうな紫のフロックコートに、派手なフリルが目立つドレスシャツ。

 タイを飾る瑪瑙のピンは、短い指に嵌められた指輪の石と同じ紅色だ。

 整髪油でピッチリと撫でつけた薄い頭髪と口髭。

 ニヤニヤと嗤う細い目の下は弛み、頬と顎はそれ以上にブヨブヨと弛んでいる。

 尊大さと不愉快さを兼ね備えたこの男は、それでもグランマリー教会上層部に、多額の寄付を行う事の出来る貴族であり名士の一人なのだ。


「ラークン伯……」


 青年は苦虫を噛み潰すかの如き形相で、その貴族の名を呼んだ。

 しかし己の置かれた状況をすぐに思い出し、改めて高らかに敗北を宣言した。


「ラークン伯! そんなつもりは無い……グランマリーの教えは絶対だ、しかし……しかし彼女はこれ以上闘えない、敗北を認める、受け入れてくれ!」


 その言葉を聞いた醜悪に太った貴族……ラークン伯は、細い目を更に細めながら、両の手を軽く持ち上げ、鷹揚な態度を示すと言葉を返した。


「酷いものだ、上級グランギニョールへの参加を決める条件戦は、グランマリー教会認定の魂を賭けた死闘が基本、それはお互い納得ずくだった筈。それを今更翻すとは……ならば先ずは、このグランギニョールを見届けようと、忙しい中、時間を割いて馳せ参じた諸氏に謝罪すべきではないか? そして……」


 ラークン伯は、弛んだ頬を笑みの形に歪めつつ言葉を続けた。

 

「我が家に仕えるコッペリア、ナヴゥルにも謝罪するのが筋だろう……彼女が損壊する可能性もあったのだよ? それくらいは己で気づくべきだ、何よりもグランギニョールはグランマリーへの供物だ、聖戦だ、それを蔑ろにしたのだ、その程度の事は自ずから察して膝を着き、頭を垂れるべきだろう? そうではないのかね? ダミアン卿……」


 同じ貴族に対する物言いでは無かった。

 これ程に侮辱的な発言、本来貴族間で行われる事など有り得ない。

 しかしこの状況、飛び交う怒声と罵声。

 誰一人として青年の立場を慮る者などいない現状。

 何より家格が違う。


 ダミアン男爵と言えば、先代の経済的成功と教会への尽力に因り、庶民の出自でありながら爵位と領地を与えられ、世襲が許された特殊な家柄だ。

 それに対しラークン伯は、古の豪族であるゲヌキス氏族の末裔で伯爵、広大なラークン領を有した数百年続く大貴族である。


 故に成立してしまう。

 理不尽な要求が、成立してしまう。

 青年は唇を震わせながら、闘技場の石畳に片膝を着いた。

 膝頭が、白銀の娘から流れ出した血の赤に染まる。

 構わずそのまま頭を下げた。


「グランギニョールの中断を願いたい! 聖女・グランマリーの名を穢すつもりは無い! しかし……我が家のコッペリアを救いたい……どうか! ご容赦頂きたい!」


 悲痛な叫びがアリーナに響いた。

 しかしその声は、再び観客席から沸き上がる怒号にかき消された。

 ふざけるな! グランマリー様を愚弄するか! 礼儀知らずの下民上がりが!

 耳を覆いたくなる様な罵声を全身に浴びながら、それでも青年は片手を地に着いたまま、許しを乞うべく頭を下げ続けた。


「ナヴゥル嬢……どうか我が家のアデリーを救ってやってくれ……君の勝ちだ、どうかアデリーを……大切な娘なんだ……」


 青年の言葉を聞いた漆黒の娘・ナヴゥルは、手にしたハルバードを肩に担ぎ上げると、侮蔑の笑みを浮かべ、口を開いた。


「ダミアン卿、頭をお上げ下さい。オートマータ相手に膝を着くなど……認めましょう、卿と、そのお仲間、そしてその大切な娘とやらの敗北を」


 慇懃な口調ではあるものの、その目に敬意の色など欠片も無かった。

 ナヴゥルはその場で身を屈めると、青年の耳元に唇を寄せて囁いた。


「しかしダミアン卿、衆光会の為ならば、大切な娘すら聖戦に差し出すとは……ご立派です。せいぜい大事にその人形を愛玩されると良い……今後は愛人としてでも飼われるが宜しかろう……」


 それは、度し難い侮辱の言葉だった。

 青年の肩が震える。

 しかし怒りを露わにする事無く、ただ一言、うな垂れたまま発した。


「慈悲を、感謝する……」


 その言葉を聞いたナヴゥルは背を伸ばすと、勝ち誇った笑みと共に、手にしたハルバードを頭上で大きく旋回させた。

 二度、三度、巨大な戦斧は自在に振るわれ、虚空に銀の軌跡を描く。

 やがて背中へ沿わすが如く、鋼鉄製のハルバードをピタリと制止させ留める。

 そのままゆっくりと、観覧席最上段を指し示す様に掲げ、高らかに宣言する。


「我が主・ラークンの刃は! 未だ渾身の力で振るわれていない! 暴虐と死を司る精霊『ナクラビィ』たる我に! 相応しい場を与えよ! 現レジィナたるコッペリア、『オランジュ』の前へ我を導き給え! さすればグランマリーに! 至高の聖戦を捧げよう!」


 そして優雅に一礼。

 爆発的とも言うべき拍手と歓声が、観覧席より湧き上がった。

 更に勝者を讃える荘厳な演奏が、オーケストラピットより改めて響き渡る。

 それは漆黒の娘に対する賞賛と、絢爛たる祭りの再開を告げる号砲の様で。

 闘技場へ向かって花束や財貨を投げ込む者が現れ、アリーナは再び狂乱と興奮の坩堝へと塗り替えられて行く。

 青いドレスを着たマスクの女が、高らかに謳い上げる。


 見よ! 彼の者を見よ!

 聖女・グランマリーに選ばれし、勇者たる者の姿を見よ!

 聖戦の高みを望む猛き魂、そのありかを見よ!

 嗚呼! 我らグランマリーの子! その叡智を顕し給え!

 嗚呼! 我らグランマリーの子! その勇気を示し給え!

 

 狂騒に沸き返る中。

 地に臥す娘の許へ救護の係員が、闘技場入場口から小走りに近づいて来る。

 簡素な儀礼用制服に身を包んだ彼らは、すぐさま血塗れの娘を担架へ移す。


 「頼む、丁重に扱ってくれ!」


 蒼白のダミアン卿が悲壮な声で懇願する。 

 白銀の鎧を纏った娘は、意識不明のまま苦鳴すら漏らす事無く、闘技場から運び出されて行く。

 搬送の途中、入場門を潜る際、付き添うダミアン卿に、齧りかけのパン、シャンパンのグラス、丸められたゴミ、そういった物が罵詈雑言と共に、次々と投げつけられた。


 ダミアン卿は項垂れたまま何も言わず、観客席を背に腕を伸ばして担架に寄り添い、血に塗れて動かない白銀の娘に被害が及ばぬ様、壁になるばかりだった。

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