救われない男達

白川津 中々

第1話

 梅雨入り前の五月晴れに散歩とは我ながら実に雅ではないか。


 まったく意味もないのに愉快だ。労働後の自由は素晴らしく、13連夜勤明けの開放感といったらない。よもや人間とはこれほど清々しく生きられるものか。どれ、ここは一つ。人生と青空に乾杯すべく、コンビニエンスストアでヱビスなビールを購入しよう。



 上機嫌に身を任せ朝から酒という破廉恥を決め込もうとした矢先であった。気分良く空を見上げ背筋を伸ばすと、ビルの屋上に人影が見えた。


 自殺だ……自殺未遂者がそこにいるのだ!


 それはまさに晴天の霹靂。これはいかん。

 俺はかくも哀れな迷える羊を救わんと一旦ビールを忘れてダッシュにて候。古いビルへと不法に侵入し、一目散に屋上目指し階段を駆け上がる。2階3階4階5階6階7階8階9階……

 さすがに太もの肉が拒絶反応を起こすも人命がかかっているのだから休むわけにはいかなかった。ここは男を見せる時。歯を食いしばり拳を握り、無理やり足上げ遮二無二に進む。


 もってくれよ俺の大腿筋……我が行く道は人の道……生に貴賎あれど命に軽重なし……ならば死を捨て置くはできぬ薄情……是非もなく助けなくてはならぬ……正義に従うのであれば成さねばならぬ……さぁ行くぞ! 気合いをいれろ!


 肉離ミートグッバイも厭わぬ絶対正義の猛ダッシュにて屋上参上仕りなおも駆ける。眼前にはフェンスを乗り越えた中年が一人。奴が自死を望む理由は知らぬがそんな事はどうでもいい。止めねば!


「そこな男! 早まるな! 死んでは何もならんぞ!」


 届け俺の思い! 何があったか分からぬが命を粗末にするなかれ!


「あ、はい……」


 中年はフェンスを軽々よじ登りセーフティゾーンに着陸。これにて万事安心。一件落着である。


「いやぁ。すみませんね。止めてもらっちゃって」


「あ、あぁ……」


 頭をかきながらヘラとこちらに近付いてくるのを見ると何故だか妙な苛立ちを覚えるのだがなぜだろうか……分かった。きっと腹が減っているからだ。そうに違いない。

 ……よし。ここは一つ、この中年が何を思い絶命せんとしたのか聞いてみよう。自ら死を選択するなど余程の事情があるに違いない。しかるに、そこに至るまでの逡巡を窺い知ったのであれば腹の虫も静まり腑に落ちるというもの。冷静になれよ俺。


「いったい何があったのだ。よければ、事情を話してみてはくれまいか」


 努めて優しく柔和に声をかける。ここでこの中年に俺の懐の広さをご覧に入れよう。天井知らずの有情の気概。マリアナ海峡が如き深い慈愛。

 如何かな。実に聖人君子然とした素晴らしき人徳ではないかね。


 人様の人生に干渉するなど少々傲慢ではないかと思わなくもないが、この場合は致し方ないだろう。何せ救った俺が助けたはずの相手に苛立っているという不可解な事象が発生しているのだから、俺の中でこの感情の処理を優先するのは当然の帰結。何としても、俺は人一人を助けた人間として胸を張りたいのだ。心中の靄は断じて認められぬ。故にさぁ話せ中年オヤジ! 自殺の理由を!


「え、聞きたいんですか? まいったなぁ……まぁ、どうしてもっていうなら……」


「……」


 「うるさい馬鹿早く話せ」と、喉元まで出かかるもグッとこらえ中年のハニカミに対し頷く。やはり何かおかしい。中年の一挙手一投足が許し難い。これはいかん。さっさと話を聞いて、同情の感に流してしまおう。


 俺は腕を組んで目を閉じて、張らぬ声で含み笑いを随所に挟む中年の話に耳を傾けた。


「いやね。私ヒモをやっているんですけれど、先日愛想を尽かされまして、もう生きちゃおれんとここまで来たわけなんです。ですが、やはり死にきれない。躊躇してしまう。というのも、袂を分かった理由がまた実に酷いんですわ。奴に対しての怒りが収まらず、死んでも死にきれないと足が勝手に留まるんです。あの野郎、俺に払う小遣いが少ないくせに最近やたらと化粧品に金かけてやがったんですよ。それを見かねて言ったんです。お前ねぇ。ババアがいくら厚塗りしたって汚ねぇもんは汚ねぇんだから、その無駄に高い白粉やら紅やらに使う金を俺の為に使ってくれねぇかって。そしたらあの女、涙流しながら死ね甲斐性なしなんていうもんだから、こっちも売り言葉に買い言葉で、あぁ死んでやるよ! つって、女の財布から二万拝借してパチンコやって、すっからかんになって今に至るってわけなんですよ。いやまったく、酷い奴でしょう。俺は仕事も住む場所もないってのに、あんな薄情者とは思いませんでしたね。いやはや……しかしあんな女の為に死ぬなんざ、馬鹿らしいなと考え直しました。兄さん。止めてくれてありがとうございます」


「……」


 中年は話してスッキリ満足といった様子で爆笑している。こうまで醜悪な人間が存在するのかと、感動的ですらある。


 俺はなんという過ちを犯してしまったのだろう。話を聞くのではなかった。自殺を止めるのではなかった。こいつを見るのではなかった。斯様な人間がこの世界に存在しているとは何たる不幸か。こいつは世界の恥だ。俺は地球の恥部に救いの手を差し伸べてしまったのだ。一生の不覚。末代まで残る罪過である。





「いやいや。ありがとう。ありがとうお兄さん」



「うるさい死ねクズ!」


 俺は握手を求める中年の手を振り払い背を向けた。

 けったくそ悪い! 早く帰って酒でも飲もう!


「待てや! あんたが止めたんだろ! 責任持てや!」


 響く中年の怒声に、俺は足を止める。いや、止めざるを得なかった。


 中年の主張はもっともな意見だ。此度はよく知らずに人類の失敗作と関わってしまった俺に落ち度がある。その責は取らねばならぬだろう。


「……何が望みだ」


 そう聞くと、中年は満面の笑みで指を二本立てこう言った。


「二万でいいよ」



 俺は慰謝料と治療費の先払いとして五万円を渡し全力で中年の顔面を殴り抜いくと、カードで酒を買って帰った。


 一人部屋で酒をやるも、それは今まで飲んだ中で一番不味い酒であった。しかし、飲まなずにはいられなかった。

 酔わずにはいられない。素面ではいられない。俺はあの中年と話し、すっかりと鬱屈としてしまっていた。気分が悪く、まったく晴れないのだ。


 酔わなければやりきれず、酔ったところで嫌な後味が消えるわけではない。

 俺は浴びるように焼酎を飲んで早々に床に就き、久方ぶりの休日を無駄にしたのであった。


 明日から、また、仕事だ……

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