土砂降りの雨の中

増田朋美

土砂降りの雨の中

土砂降りの雨の中

良く晴れた穏やかな日だった。

「おじさん、読んで。」

そうせがむ武史君に、水穂は、隣にいたブッチャーに手伝ってもらいながら、何とか布団から起きて、布団の上に座った。

「読んで。」

あらためて本を差しだす武史君に、水穂も戸惑いながらも、本を受け取って、本のタイトルに目をとおした。本のタイトルはライオンとネズミである。武史君は、娯楽的な本よりも、こういう教訓的な本がすきだ。理由を聞いてみても、よくわからないらしく、すきなものはすきだからとしか言わなかった。

「いくよ、ライオンとネズミ。昔々、、、。」

水穂もゆっくり読んでみる。時々、咳をすることがあるので、ブッチャーはそばについているようにしている。今日も、ライオンとネズミを読み聞かせているが、一度も咳き込んではいないことにブッチャーは気が付いた。読み終わると武史君はすぐにもう一回読んでくれとせがむ。はいはい、と言って、又読み始める水穂さん。どうやら武史君は、そのライオンとネズミの話がイソップ童話の中で一番すきなようだ。

「水穂さん、疲れるようであれば、横になって休みましょう。」

ブッチャーは心配になって、そういうのであるが、水穂はまだいいよと優しく首を横に振った。それを見た武史君は、待ってましたとばかり、もう一回読んでと子どもらしくお願いするのであった。

「はいはい。じゃあ、もう一回ライオンとネズミね。いくよ。昔々、、、。」

三度目にライオンとネズミを読み終わった直後、こんにちはと玄関先から声がした。ブッチャーは、あ、ジョチさんが来たと言って、玄関に迎えに行った。

「こんにちは。具合いかがですか?」

そういいながら、ジョチも四畳半にやってくる。丁度武史君が、もう一回読んでとせがんでいる所だった。

「あ、そうか、たしか浜島さんの知り合いと仰ってましたね。たしか、お母様がいらっしゃらなくて、お父様だけで育ててらっしゃるとか。」

「ええ、そうなんです。今日はお父様が学校で保護者会があるようで、それで彼を預かってほしいと問い合わせがありまして。」

と、水穂はにこやかにこたえた。

「僕、学校嫌い、行きたくない。」

武史君は小さくなって、そう呟く。

「はいはい。わかってますよ。お父様は、新しい学校を探すために、あなたをここに預けて行ったんでしょ。今までの学校は、あなたのことを変な子と言っていたけど、今度の学校は、そうは言わないって、約束してくれるでしょうから、大丈夫ですよ。」

ジョチもにこやかに笑って、そう言った。と言っても、新しい学校探しは実は難航している。岡本太郎のような絵を描くとなると、途端に受け入れてくれなくなってしまうのである。

「まあ、ゆっくり探せばいいと思います。やっぱり学校って、子どもの人生観みたいなモノをある程度作ってしまう所であることは間違いないですしね。出来れば、すべての子がそうやって学校探しに慎重になってくれたら、いじめももう少し減るんじゃないかと思うんですけど。」

「僕、学校なんか嫌いだよ。僕はおじさんとずっと一緒にいるんだ。」

明るくそういう武史君だが、ブッチャーとジョチはちょっと困った顔で彼を見た。ブッチャーが、そうはいかないよ、新しい学校がきまったら、嫌でも行かなきゃと言おうとしたが、

「そうだね。武史君、ずっとおじさんと一緒に居ようね。」

水穂がそんなことを言った。武史君は喜んでおじさんに抱きつくが、言葉の代わりに咳が返ってきた。

「水穂さん、疲れたら、横になって休みましょう。」

ジョチはちょっと武史君を戒めるような顔で見て、水穂にそういった。

「ええ、なんで?」

理由のわからないのか、子どもらしくそう聞く武史君。

「もう休まないと。あなたが、何回も本を読んでとせがむから。」

と、ジョチは武史君を水穂から引き離した。水穂はいえ、僕はと言いかけたが、また咳き込んでしまい、素直に従った。急いでブッチャーがその体を支えて布団に寝かせてやる。

「すみません、何だか、武史君に申し訳ないことをして。」

水穂は、しずかに言ったが、急いでブッチャーが薬を飲ませた。その吸い飲みの中身には眠気をもたらす成分があるのか、そのまま水穂は、眠ってしまうのである。

「つまんない。おじさんに本読んでもらおうと思ったのに。」

「そうですね。だったら、庭にいるたま君と遊んだら如何です?」

ジョチにそういわれて、武史君は縁側から庭に行った。丁度たまが縁側の座布団の上で寝ていたが、武史君に尻尾を引っ張られて目を覚ます。たまもたまでちゃんとわかっているのか、武史君に反撃することもなく、遊ぼうという指示にすぐ従った。武史君がたまと一緒にロープで力比べをしているのを眺めながら、ブッチャーとジョチは、ほっとため息をつく。

「はあ、たまがおとなしい犬で良かったですよ。武史君のことを彼なりに理解してくれている様で。」

ブッチャーはそう言った。

「そうですね、武史君が定期的にこちらに訪れるようになってから、水穂さんも意欲的になってくれている様ですしね。」

ジョチは、そっちの方を心配していた様であった。

「ええ、そうですね、お父様のジャックさんから話を持ち掛けられた時は、大丈夫かと心配になりましたけど、やってみたら案外そうでもないようで。水穂さんも、少し前向きになってくれたんですかね。ついでにご飯を食べるようになってくれると、もっといいんですが。」

ブッチャーは頭の痛い話を始めた。

「あら、また食べないんですか?」

「ええ。昨日だって、またたくあん一切れでもういいとか言い出して。俺、また悪くなってしまったのかと、ひやひやしました。最近は、武史君がああして定期的にやってきてくれるのを、楽しみにしているような態度を取っていますから、悪くはなっていないとは思うんですがね。」

「そうですか。まあ、少なくとも、体力的に武史君の相手をするのはむずかしいという所くらいは、本人もわかるでしょう。それをもう少し、考えてくれれば、たくあん一切れからは卒業してくれるのではないでしょうか。」

「そうですか、其れじゃあ、武史君の学校がなかなか決まらないほうが、武史君にも水穂さんにもいいという事ですかね。」

ブッチャーとジョチがそう言い合っていると、またガラッと戸が開いた。

「ただいま戻りました。おい、武史、かえるよ。」

「武史君、帰るわよ。」

ジャックさんと、浜島咲が迎えに来たのだ。武史君は、たまとボール遊びに夢中になっていて、お返事をするのも忘れている。代わりにジョチさんが、応対に行った。

「理事長さんいらしていたんですか。武史君に嬉しい知らせだと伝えてください。今日相談してきた支援学校の校長先生が、次に来てくれたら、本人に話をしたいって、仰ってくださったんです。」

にこやかに言って咲がそういった。

「そうですか。やっと見つかりましたか。」

「ええ、これでやっと、武史が通えそうな支援学校が見つかりそうです。本当に、何回もこちらに預けてばかりで申し訳ありません。」

ジャックさんは、恐縮するように言って、一寸上がりますよ、といい、中へ入った。ジョチも、こちらですと、二人を中庭に案内する。

「武史、帰るよ。もうこれからこっちへ来なくてもいいんだよ。」

ジャックさんはそう声をかけたが、武史君はまだたまとボールで遊んでいた。

「武史、たま君にありがとして、帰らなきゃ。」

「嫌だ、おじさんが目を覚ますまで、こっちにいるんだ。」

武史君は無邪気に言った。またおじさんかとジャックさんはちょっとため息をつく。

「何を言ってるの、おじさんは、晩御飯の時間まで目を覚まさないわよ。それに、おじさんは眠っていないと、体が持たないんだから、そうさせてやって頂戴。」

「いやだい。僕は、おじさんにさようならしてから帰る。」

まだ遊び続けている武史君。右城君はどうしてこんなに、人気者なんだろうと、咲は一寸ため息をついた。

「武史君、おじさんには僕が言っておきますから、今日は帰った方がいいですよ。お父さんが大事な話があるんですって。」

ジョチもそういうことをいって、やっと武史君は帰る気になってくれたらしい。たまにボールを投げるのをやめて、縁側にもどってきた。たまももどってきたが、縁側に上って又座布団のうえに座ってしまった。

「帰る前に、おじさんにありがとうしていい?」

と確認をする武史君。

「だめよ。おじさんは眠ってるの。それを邪魔しちゃいけないわよ。」

と、咲は注意するが、ジョチはいいんじゃないですかといった。武史君は許可もないのに、四畳半に行って、

「おじさんお休み。」

と小さな声でいい、帰り支度を始めた。ここだけはちゃんと、わきまえているのかと咲は思う。

そのままジャックさんは、ブッチャーやジョチにお礼を言って、武史君を連れて帰っていった。咲も、すみませんと言って、製鉄所を後にする。

その数日後。今日もジャックさんは、児童相談所に武史君のことについて相談に行こうとしていた。相談というか、新しい学校が決まりそうだということを報告に行くためだ。その日は、咲が、製鉄所に連れていくことになっていて、咲は、武史君に出かける支度をさせていたその時。ジャックさんのスマートフォンがなる。

「もしもし、ああ、わかりました。そうですか、何だかだいぶ無理をさせてしまったんでしょうか。ええ

、本当にすみません。」

ジャックさんはそんなことを言って電話を切った。咲は何となくだけど、嫌な予感がした。そのままジャックさんに一寸来てくれと言われて、隣の部屋へ行く。

部屋にもどってくると、咲はわざと明るい顔をして、武史君に話しかけた。

「武史君。今日は、咲おばさんと遊ぼうか。いま、理事長さんから連絡があってね、おじさん、体の具合が良くないから、ちょっと今日は来ないでっていうのよ。だから、おばさんが遊園地でも連れて行ってあげるわ。」

武史君の顔がみるみる泣き顔になって、

「嫌だ!」

と強く言う。

「嫌だじゃないわよ。そういうことはこれからいくらでもあるの。だから一寸我慢しようね。おじさんが良くなったら、おじさんのところに遊びに行こうね。」

「だって僕。」

武史君は、またそんなことをいう。

「また学校に行くんだもん、、、。」

「学校行きたくないの?」

咲が聞くと、

「学校なんて嫌だ!僕はおじさんと一緒にいたいんだ。学校なんて、先生もほかの人もどうせ僕のことを変な絵ばっかり描いている、馬鹿な奴だって笑うもん!」

と、武史君ははっきりと答えた。それを聞いて、咲は頭にきて、

「武史君の馬鹿!」

と、一言言った。すると、わあんと泣き出してしまう武史君。咲はため息をついて、頭をかじった。

「すみません浜島さん。本当にわがままでどうしようもなくて。僕がもう少し厳しく育てて置けば良かったのでしょうか。何だか、僕は育児に失敗した親なのかもしれないな。こういうことも教えて上げられなかったんですからね。」

ジャックさんが申し訳なさそうに言った。

「後でしかっておきますよ。やっぱり日本では日本なりのやり方で育児しなくちゃだめですね。イギリスでは、決してしからないとか、そういう風にしていますけど、それはイギリスの話で、日本では、そういうやり方はいけないとよくわかりました。しかし、水穂さんは大丈夫ですかね。曾我さんの話によると、すこし疲れたというか、無理をし過ぎただけだと言っていたから、二、三日、休みを取れば大丈夫かな。」

「そんなことないわ。」

と、ふいに咲は言った。

「いつもいつもそうなのよ。少し良くなったようにみえて、ある日突然、一気に悪くなるの。その理由だっていつも同じよ。少し疲れたとか、無理をし過ぎたとか、大体そう。そして、お医者さんには、滋養を付けるしかないっていわれて。若しかしたら、良くなっているのは見せかけで、本当はもっともっと、衰弱しているんじゃないかしら。そうなったらどうしよう、、、。」

急に咲は不安になった。咲自身も理由はよくわからないけれど、そうなったら困るという感情があった。

「どうしよう。あの人、もう逝ってしまうんじゃないかしら、、、。い、いや、やだやだ、、、。」

思わずポロンと涙がでる。

「浜島さん、大丈夫ですか?」

ジャックさんがそう聞くが、咲は見る見るうちに大人らしくなく、泣き出してしまった。なぜか自分には

止めることができない。

「大丈夫ですよ、浜島さん。多分きっとお医者さんにみせたりとかしていると思いますし。僕たちは、それに任せればいいんじゃありませんか。」

そう励まして貰っても、咲は不安な気持を抑えることが出来なかった。その間に、一人の子どもが、家を飛び出していったのに気が付かなかった。

どれくらい時間がたったのか不明だが、咲もジャックさんもやっと周りを見る事が出来た時には、日はすでに西に傾き始めたころである。

「あれ、武史君は?」

たしかにそばにいた筈の武史君は何処にもいない。

「何処に行ったんでしょうか。」

ジャックさんも家の中や庭などを探すが、何処にもいなかった。

「も、若しかしたらですよ。若しかしたら製鉄所まで行ったんじゃありませんかね。水穂さんに会いに行くつもりで、、、。」

「製鉄所までどのくらい距離ありましたっけ?」

ジャックさんの話に、咲は急いでそう付け加えた。

「ええとたしか、この家からは一キロメートル弱位あったはずでは?」

一キロメートル弱。大人であれば何てことのない距離である。しかし武史くんにとってはたいへんな距離でもあった。まだ、小学校一年生。交通ルールだってしっかりわかっていない可能性もある。

ジャックさんと咲は血相を変えて、自宅から飛び出して行った。

そのころ。

「僕が、水穂さんの診察に立ち会いますから、ブッチャーさんはたまを探してきてくれて結構ですよ。」

「あ、ああ、すみませんね。全く、馬鹿な犬だなあ。水穂さんのことで俺たちが目を離しているうちにどこかへ行ってしまった。」

ジョチとブッチャーはそんなことを言い合っていた。

「まあ、犬ですから、ちゃんと状況を把握できるはずがありませんよ。こういう時は、杭をもっと深く打っておくとか、工夫をしなくちゃ。とにかく、クルマに轢かれでもしたらたいへんですから、急いで探して来てください。足の悪い犬ですから、さほど広範囲は行かない筈です。」

「わかりました。」

ブッチャーは申し訳なさそうに部屋を出て行った。その間に、ジョチはスマートフォンを取って、沖田先生の番号を回していた。

「おーい、たま!」

ブッチャーが一生懸命探していると、武史君、武史君、といいながら道路を走っている咲の姿がみえた。

「浜島さん!」

急いでブッチャーはそう声をかける。

「どうしたんですか?」

「あ、ああ、ブッチャーさん、あの、武史君を見かけませんでしたか?」

これを聞いてブッチャーはおどろいてしまった。武史君まで脱走したのか。これは偶然といえるのだろうか?

「若しかしたら、右城君のいる方へ向かったのかもしれないんです。」

「ええ?そうなんですか?実はですね、俺たちもたまを探しているんですよ。俺とジョチさんが水穂さんのこと見ていたら、急にどこかに行ってしまって。」

この時は、水穂さんの容体を聞く暇もなかった。咲も、たまが居なくなったと聞いて、なにか因縁があるのではないかと思ってしまった。

「若しかしたら、どこかで落ち合って、一緒に脱走した可能性もあるかもしれないわね。人間と犬は、時おり、常識を超えたことをしでかすことがあるでしょう。時に映画なんかなるけど。」

たしかに忠犬ハチ公のような、人間以上に愛情を示す犬だっている。ブッチャーもその逸話を思い出して、そういうこともあると思った。

急に雷がなりだした。あら、雨かしらという間もないうちにざーっと雨が降ってきた。たちまち道路は海と化し、雨が痛いほど二人の肩にあたった。

「おーい、浜島さん。」

丁度そこにジャックさんがもどってきた。

「すごい雨になりましたね。もしかすると、僕たちまで危険な目に合うかも知れません。すぐに安全な建物に避難した方がいいですよ。」

「でも武史君が。」

咲はそういった。西洋人というのは、ずいぶんのんびりしていると思った。しかし、そういうわけではなくて、本当はこういう土砂降りの雨を経験したことが少ないのだとすぐにわかった。

「僕たちでは危なすぎるので、警察にお願いしました。餅は餅屋というか、この方が早いなと思いましたんで。」

とりあえず、三人はジャックさんの自宅へもどった。数分後に警察は来てくれた。警察の人たちは武史君の服装や、体の大きさなどを聞き出し、捜索に乗り出した。ただ、たまの事は、後回しということになった。

「とりあえず、警察の人に任せた方がいいですね。こんな雨では道路も冠水してしまいそうだ。」

と、ジャックさんは、自分に言い聞かせるようにいった。ブッチャーも、これではそのほうがいいかもしれないといった。警察は探すのは得意だから、と、咲は言ったが、咲自身も警察が確実に見つけ出してくれる、保証は出来なかった。

ふと、玄関先でわんわんという声がする。咲は、急いで玄関先へいった。まだ、雨はザーザー降っていたが、犬の鳴き声がはっきり聞こえてきたからだ。後ろでジャックさんたちがなにか言っているのも聞こえなかった。

がちゃんと戸を開けると、そこにいたのはたまだった。

「たま!」

咲はおどろくのと怒りとを同時に表現出来たらいいのになと思いながら言った。それを聞いて、ブッチャーもジャックさんもやってくる。三人そろうとたまは、こっちへ来い、とでも言いたげに、雨の中へ飛び出していった。といっても、足の悪いたまだから、三人の人間たちにとっても十分ついていけるスピードだった。

三人はたまについて歩く。びしょぬれになったとかそういうことは関係ない。ただ、土砂降りの中を、歩いているだけである。たまは、製鉄所の方向に向かっているが、途中、道が二つに別れている所に来た。本来製鉄所は右に曲がるのだが、たまは左に曲がった。ああなるほど、と何となく咲は思う。たまは、そのまま左に曲がって、ごみ捨て場の方へ向かっていく。そしてごみバケツの前でわんわんと二回吠えた。よし!とブッチャーがごみバケツをどかすと、その後ろに武史君が小さくなって座り込んで泣いていた。

「武史君!」

咲は怒鳴りつけてやりたかったが、武史君がなにかをしっかり持っているのが目に入る。其れはいつも読んでくれとせがんでいるライオンとネズミの本ではなくて、冷蔵庫から取り出したサツマイモだった。

「武史君。おじさんにそれ、渡すつもりだったの?」

そう聞くと、武史君は、

「だって咲おばさんが、滋養を付けるしかないって言ってたから!」

と、ワーンと声をあげて泣き出した。ジャックさんが、わかったわかった、ごめんごめんと、武史君の体をごみバケツから離して、そっと抱きしめる。

「そうかそうか。武史は其れなりに、考えていてくれていたんだね。」

「うん、咲おばさんには出来ないから、僕が代わりに行こうと思った。」

なんとも子どもらしい発想だ。多分泣いている咲を見て、僕が何とかしなきゃいけないと思ったのだろう。それで、冷蔵庫にあったサツマイモを引っ張り出して、水穂さんにたべさせようと思い、家を飛び出したのだ。

「そうか。ごめんね、咲おばさん、もうちょっとしっかりすべきだったね。」

咲は苦笑いする。

「しかし何でたまが、武史君を見つけて俺たちをここまで連れてきたんだろうな。」

と、ブッチャーが言う。其れは若しかしたら、犬に特有の本能で、人間には出来ないことなのかもしれなかった。たまは、たまなりのやり方で、武史君を見つけたのだろう。たまもたまなりの理由があって、製鉄所を脱走し、何処かで武史君と落ち合ったのだ。若しかしたら、製鉄所へ案内しようとしたか、保護者であるジャックさんを呼び出しに行ったのか。其れは、犬語を知らなければわからないことだ。

ブッチャーが見つかりましたと警察に連絡した時、雨がやんだ。

そのまま、三人は武史君を連れてジャックの家にもどろうと思ったが、ふいにたまがまたわんわんと吠えて、歩き始める。三人ともびしょぬれになったまま、たまの後についていった。

「一体どこに行くんだろう。」

ブッチャーが思わず呟くと、たまは素知らぬ顔をして元来た道を帰って行くのだった。そして例の二つに別れている所へもどってきて、今度は製鉄所のある、右方向に曲がっていく。三人がその後を

ついていくと、たまは製鉄所の正面玄関の前で止まった。

「ごめんなさい。何だか武史君だけでなく、ほかの人まで巻き込んでしまって、申し訳ないことをしました。本当にすみません。」

布団に横になった水穂が、申し訳なさそうに言った。

「いや、いいんですよ。しかたないことじゃないですか。こういうことは予測がつきませんから。とりあえず、次に彼がこっちへやってきた時には、ちゃんと迎えてやれるように、今日は一日休むのが先決だと思います。」

沖田先生を送り出して部屋にもどってきたジョチは、とりあえずそういう言葉を返したが、本当はもう少し水穂さんにも自覚をもってもらいたいなという気持がない訳ではなかった。

「本当に、すみません。何だか、悪いことしてしまって。」

「そういう気持があるのなら、もっと前向きになってください。あなたは、ご自身のことを単なるごみとかそういいますが、意外にそうでもないということを知ってくださいませ。」

思わず本音を出してしまったジョチであるが、わかりましたという言葉ではなく、咳で返ってきたのが、悔しい所であった。とりあえず、薬を飲ませて、眠ってもらい、咳き込むのをやめさせる。と、同時に、いままでうるさい位降っていた雨が、やんだことに気が付いた。

暫くして、玄関先に犬の吠え声がしていることに気が付き、急いで立ち上がって、玄関先に行った。戸を開けると、ブッチャーと咲、そしてジャックさんに抱かれた武史君がずぶぬれになって立っていた。

「あ、どうしたんですか?」

と、ジョチも三人そろってやってきたのを不思議がっている。

「それも皆さんびしょぬれで、、、。」

咲も、ジャックさんも、何が起きたのかを話す気力を失くしていた。武史君だけ一人にこにこして、

「おじさんは何処?」

と、聞いた。

「おじさんは、いま寝てますよ。薬飲んで。」

ジョチがそうこたえると、

「あの、ど、どうなんでしょうか。」

と、咲が思わず聞く。

「ええ、とりあえず咳き込む所は薬を飲んで止まりました。本人もこんな事になって申しわけないという事です。」

と、ジョチはとりあえずこたえる。

「申し訳ないって。」

「ええ、そういっておられました。それではいけないと、ご自身でもわかっているのではないでしょうか。」

「じゃあ、もう、大丈夫なんですか?」

咲がそう聞くと、ジョチはそうかなという顔をした。そうなのかもしれないが、子どものいる手前、本当の事は言えないのかなと咲もわかる。

「ええ、多分一晩眠れば何とかなるとは思うんですけど。それだけでは、、、。」

「僕、おじさんに会いたい。」

武史くんは、そういい始めた。ここまで来た以上、追い出してしまう訳にいかないなとジョチも覚悟を決め、

「ではどうぞ。」

と、四畳半に向かって歩き出す。武史君の目だけではない。たまの大きな黒い目が、そうしなければだめだ、と言っている様だったからだ。

「すみません、ほんとに迷惑かけて。」

ジャックさんはそういうけれど、

「いえ、大丈夫です。どうぞ。」

わざと明るく、ジョチも言った。ブッチャーは何かあってからではいけないと、一緒に製鉄所に入っていく。

「今回のヒーローは君だったね。」

咲はおもわずたまに声をかけた。たまは犬らしく表情を変えることはしなかった。

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土砂降りの雨の中 増田朋美 @masubuchi4996

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