金の卵

 女は、隣に眠っている恋人の奇妙な呻き声を聞いた。

「勘弁してください。おじいさん、僕の恋は真剣なんです……」

 須藤グループの若き総裁、須藤正夫の寝言はいかにも苦しげで、魂の底から訴えかけるようであった。額にいっぱいの汗を浮かべ、時折ギリギリと、歯軋りするような音さえ立てているが、それはどうも、真剣な訴えが聞き届けられぬ悔しさに満ちているように思われた。

「くどいぞ。あの娘との結婚はお前の、いや一族のために害となる」

 ふいに正夫の声色が変わった。老人のように皺枯れた声になった。女は正夫の口元に耳を近づけた。

「政界に繋がりを求めるのなら、他所の代議士に良い縁がある。そちらの娘に切り替えるのだ」

「ああ、おじいさん。僕の恋はそんなんじゃあありません。僕はあの人といると心が安らぐんです。忙しい仕事の慌ただしさも、少しの間は忘れられるんです……」

「なに、仕事を忘れるだと。そんな事はならん。お前は私の代わりに一族を引っ張って行かねばならんのだ。私の頭の中には次の仕掛けのアイデアがいくつも溜まっておるのだ。お前には迅速にそれを実現してもらわねばならない。良いな、目が覚めしだい、すぐにその女を追い出して仕事に取り掛かるのだ。まずは吉島鉄鋼の社長へ手紙を……」

「お願いします。少し休ませてください。僕の頭は、本来眠っているはずのこの時間まで、こうやって酷使されているのですから」

「ならん。お前はこの夢枕のおかげで人よりも優れた人間になれているのだ。さあ、ぼんやりしている暇はないぞ。手紙の文面はだな……」

「勘弁してください。勘弁してください……」

 正夫は二つの声色を使い分け、一晩中呻き続けていた。

 翌朝、憔悴しきった顔で目を覚ました正夫は、不気味なモノを見る目をした恋人に背を向け、言葉少なに別れを告げた。

「僕はいかなる時も祖父の妄念に監視され、指示に従うだけの傀儡なのだ」

 正夫がそうと気づいた時には、もう全てが遅かった。

「正夫。正夫や。商売だけが私の楽しみだ。私は自分の肉体を捨てて初めて、人生のすべてを商売のために費やすことが出来るようになったのだ。これからもバリバリやるぞ」

 夜毎夢に現れる稲吉は、完全に執念の鬼と化していた。正夫が少しでもミスをしたり、執務室でぼうっと休んでいたりすると、厳しくそれを糾弾した。元から厳格だった稲吉の性情はますます苛烈になり、正夫が少しでも反発の意思を示せば、一晩中でもネチネチと叱り続けた。

 祖父の責め苦から逃れるには、その命令を完璧にこなす事しかなかった。執務室で書類に目を通していた正夫は、豪奢なソファにもたれて休みたい誘惑をこらえながら、沸々と苦悩の内をぶちまけていた。

「ああ、他の連中が羨ましい。他の者ならば例え昼間に嫌な事があったとしても、夜眠っている間はそのことを忘れられるだろう。しかし僕の苦痛は夢の中に巣食っているのだ。僕の精神は寝ても覚めてもひと時も休まることがない。僕にはもう、繁栄も地位も十分過ぎるぐらいだ。僕が欲しいものは、ただぐっすりと、何者にも妨げられない眠りだけなんだ」

 思いつめた正夫は、夢の中で稲吉に懇願した。もうこれ以上の発展はいらないと、切に訴えた。それを聞いた稲吉はまさしく憤怒の鬼であった。

「この恩知らずめ! 私のおかげで生きていられるというのに、私を無下にするというのか。私の肉体はもう役に立たず、何の刺激も得られないのだぞ。こうしてお前の夢に現れて商売の話をすることだけが生きがいであり、魂の救いなのだ。私は決してお前から離れないぞ」

「どうしても僕でなければいけないのですか。お父さんが代わりではダメですか」

「ダメだ。正勝君では私を宿す器に足らん。それに、お前がこれまで世間に積み上げてきた実績を放り捨てるのは、あまりに非効率だ。お前だけが唯一の手段なのだ」

「ではせめて、せめて何日かはぐっすりと眠れる時間をください……」

「馬鹿者。その眠っている時間で他人に出し抜かれたらどうするのだ」

 そうして、正夫は表向きは現代の成功者として名を馳せる一方、心はすり減っていく一方だった。

 正夫は神社や仏閣に駆け込み、己に巣食った悪霊を祓い落とそうとした。ところがいずれも無駄だった。

「あなたの内に、悪霊だの、怨霊だのというものは憑いていません。あなたの悩みは、あなたの心のありようにあるのです」

 坊主どもはそのような毒にも薬にもならぬ事を言うばかりで、夢の中では、そのような試みをした事でますます稲吉の不興を買うのだった。稲吉の魂はいまや正夫と一体になりつつあり、夢の中でいちいち報告せずとも、稲吉は正夫の振る舞い全てを知り尽くしていた。

「私を引きはがそうなど無駄な事じゃ。私はお前の一部であり、お前は私の生命なのだ。無駄なあがきはやめて、私のように仕事を生きがいとせよ。そうすれば何の苦痛も憂いもなくなるではないか。そうすれば良いだけのことだ」

「おじいさん。おじいさん。あなたは本当におじいさんの霊魂なのですか。それとも、僕の思い込みが作った幻想に過ぎないのですか――」


 その頃、須藤稲吉の本来の肉体は、ほとんど植物人間に近い状態だった。

 須藤グループに連なる大病院の特別室にて寝た切りの稲吉は、何も見ず、何も言わず、何も聞かず、ただ形ばかりで生き長らえていた。

 コツン、と乾いた足音を立てて、一人の人物が病室に入ってきた。看護師も伴わずドアを開けて入ってきたのは、娘婿の正勝だった。

 正勝はこの偉大なる義父のために金を惜しまず、最上級の延命治療をもって一日でも長く生きていられるように図っていた。そして息子の正夫が休む間もなく事業に奔走している間、頻繁に病室を訪ねては、人の好い笑顔で優しく語り掛けるのだった。

「お義父さん。そうやっていつまでも、私たちの会社を大きくしてくださいねぇ」

 オカルトマニアの正勝はそう言って、大事な金の卵を伏し拝むのだった。

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夢枕 狸汁ぺろり @tanukijiru

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