離魂

 一口に認知症と言っても症状の進み方は人それぞれだが、須藤稲吉の場合においては、医者も首をかしげるほど異常な早さだった。

 元来、認知症と言うものは仕事や生活のハリを失くし、新鮮な刺激に触れることの少ない人ほど発症しやすいとされている。しかし稲吉は七十の坂を超えてなお一門の棟梁として活躍しており、肉体は多少衰えるところあったとしても、その気力胆力においては誰もかなわぬと評判だった。

 その稲吉が、今や腑抜けである。

 魂の抜け殻と言っても良い。孫の正夫や娘婿の正勝がいくら枕元で声をかけても、稲吉の虚ろな目がそちらの方を向くことはなかった。物忘れがひどくなるだとか、自分の居場所がわからないだとか、そういった事態はとっくに通り越して、肉体の動かし方というものをまったく忘れてしまったかの如き衰弱ぶりである。夜中に町を徘徊したりせぬ事だけが唯一の救いだが、時折、モゴモゴと乾いた唇を動かしては、何事か呟いている。

「……次の、市営アパートの建設……あれはダメだ……競走のわりに、旨味が少ない……」

「おじいさんは夢の中でも仕事なんですね」

 正夫は祖父のあまりの変わりように戦慄したが、彼にとってそれ以上に重大なのは、就職したばかりの企業のことだった。稲吉というカリスマを急な形で失った企業は、表向きの業務こそ平常通りに回っていたものの、従業員の間に滲む動揺と不安は隠せなかった。

 誰かが代わりにリーダーシップを取らねばならない。しかし、婿の正勝は仕事は出来るが根はお人好しで、剛腕な稲吉の代わりとしては見劣りする。他の重役連中の中にもしっかりした人物がいるにはいるが、創業者の稲吉を崇拝し、その配下に甘んじていることを是としてきた者どもには、やはり荷が重い問題だった。

「おじいさんの一言さえあれば、みんな迷いなく動けるんですけどねえ」

 正夫は祖父を寝かしつけながら、懇願するように呟いた。返事など期待しない、ただの独り言のようなものだったが。

 その願いは聞き届けられた。

「正夫……正夫……」

 誰かに呼ばれて、正夫は目を覚ました。

「おやっ、ここはどこだろう」

 自分の部屋の布団で寝ていたはずが、寝間着姿のまま奇妙な場所に突っ立っていた。そこは無間の暗闇のようで、また同時に透明の靄がかかっているような、得体のしれない空間だった。

「正夫、こっちだ」

「あっ、おじいさん!」

 暗闇の中からぬっと現れたのは、腑抜けになったはずの稲吉だった。稲吉の格好は正夫が着せた寝間着のままだったが、その瞳には会社で檄を飛ばす時と同様の、鋭い閃きがあった。

「おじいさん、体は治ったんですか。ここはどこなんですか」

「落ち着け。ここはお前の夢の中だ」

「夢の中……?」

「そうだ。いま私の霊魂は肉体を離れ、お前の夢の中に現れておるのだ」

「あっ、夢枕!」

 正夫は仰天した。確かに一年ほど前、祖父とそのような話をしたと覚えているが、よもや自らが体験しようなどとは思ってもみなかった。

「私は一年かけてこの時に備えてきた。お前たちには隠しておったが、私の肉体は確実に衰えつつある。いずれは本当に動けなくなる時がくるだろう。しかしそれでも企業は存続、いや拡大させねばならん。そのために私は対策を立てた。例え肉体が衰えても、精神を残す方法をな」

 稲吉は悠々と煙草を吹かし、さぞ美味そうに味わった。

「ソ、それが夢枕ですか。確かに、今のおじいさんは以前のままに見えます」

「うむ。私は正勝君の蔵書を読み漁って、魂を肉体から離す研究をした。その結果がこれなら上等だ。もっとも、それだけ余計に肉体の衰弱をも招いてしまったが、今となってはそれも問題ではない。……正夫。お前は会社のことで心配があるのではないか?」

「おっしゃる通りです。皆さん自分の仕事は出来るのですが、より大きな決断となると尻込みしてしまうのです」

「その尻を押す人物が必要というわけだな。ならば正夫、お前がそうなるのだ。新米の言うことなど誰も信じないだろうなどと考えるな。お前は私の孫だ。胸を張れ。役員の動かし方、取引先との付き合い方、全て私が夢の中で教えてやる。お前は堂々と私の後継を演じておればよい。そうすれば必ずや皆はお前を認め、奉るだろう」

「ほ、本当ですか。僕が会社を引っ張って行けるのですか。おじいさん、何か何までありがとうございます。ありがとうございますーっ」

 ありがとうございます……と、口から出た言葉で、正夫は本当に目を覚ました。明るい朝日の差し込む部屋で、正夫は祖父と同じ銘の煙草を一本吸いつけながら、深いため息をついた。

「夢みたいな話だ」

 夢は真だった。

 正夫は祖父の教えに従い、人の好い正勝に頼み込んで、重役会議に列席した。そこで正夫の放った一言一句、さながら会長の生き写しだと、旗を失くし消沈していた役員たちはこぞって感激した。

 それからの正夫の勇躍は目覚ましいものだった。なにしろ臨時のトップを務める正勝自身が正夫の成長を称え、ゆくゆくは我らの棟梁にとおだてるものだから、他の者たちも自然に正夫を認め、支えるようになった。また同時に正夫は、敵対する同業者からは稲吉に匹敵する鬼神として恐れられるようになった。

「若様には会長のご加護がついておられる」

 誰かが戯れにそう言ったが、まったく正鵠を突いた発言である。正夫の功績は全て、夜ごと夢の中に現れる稲吉の助言によるものだった。稲吉は正夫を介して最新の情報を仕入れ、時宜を得た鋭い指摘をくれた。正夫はただそれに従っているだけで良かった。的確な指示と強気の姿勢さえあれば、味方には慕われ、敵には恐れられるのだった。

「おじいさん、聞いてください。僕はいよいよ社長になるのですよ。まだ二十五歳だっていうのに」

 夢の中で正夫は祖父と煙草を酌み交わし、ゲラゲラ笑った。

「知っておる。正勝君のお人好しも大したものだな。我が子の方が己より優秀とみるや、さっさと己の立場を明け渡してしまうのだから」

「それはそれで先見の明ってヤツでしょうかねえ。とにかく、おじいさんさえ居てくださったら、僕の、いえ僕ら一族の未来は永劫に明るいですよ」

「そうであろう、そうであろう。私も肉体の方では出来ることがないから、昼間はじっと仕事のことを考えてばかりいられる。正夫、ますます励むのだ。お前を介して会社を育て上げる事だけが、私の生きがいなのだからな。はっはっは!」

 二人は夢の中で朗らかな笑いを上げた。

 時は流れ、企業はますます発展し、それと呼応するように稲吉の肉体は衰え、近頃ではうわ言を発することさえなくなっていた。しかし、もはや肉体に執着していない稲吉にはどうでも良い問題だった。

 やがて若き傑物として業界に広く知られるようになった正夫は、とある政治家の娘と真剣な交際をするようになった。

 そこには政略的な意味がないでもなかったが、それ以上に相手の容色の美しさ、艶っぽさが正夫の気を引いた。

「おじいさん。僕は良い人を見つけましたよ」

 夢の中で、正夫は浮かれた顔で祖父に告げた。きっと祝福されるだろうと期待していた。

 ところが期待に反し、稲吉は仕事の話をするときと同じ顔を崩さなかった。それどころか、言下にこう切り捨てたのである。

「その娘は良くない。すぐに縁を切るのだ」

 そう言ってスパリと煙を吐き出した。

 正夫は耳を疑った。

「そいつの父親は家柄こそ立派だが、政治家としては三流の小悪党だ。いまにつまらん不祥事をしでかすに違いない。そんな奴のために、うちの会社まで巻き添えを食らうことは許されん」

「し、しかし父は父、娘は娘じゃあありませんか」

「世間の連中はそんな風には考えない。悪党と縁のある者、片っ端から悪党だと考える。良いか、我が一族のためにその娘との縁は切れ。嫁の貰い手ならば候補はいくらでもある。その中からじっくりと私が見定めてやるから、今は余計な色気を出すな。さて、それで今度の総会での発言だが……」

 淡々と事業の話をする稲吉を前に、正夫はくらくらと眩暈のする思いだった。しかし、そこはすでに夢の中。気を失って逃げることさえ叶わない。

「おじいさん、どうか僕の話を聞いてください」

「聞かずとも良い。お前の知っていることはみな私も知っている。さあ、この仕事が正念場だぞ正夫。この発注を取れるかどうかで、今後のわが社の発展に大きく影響が出るのだからな」

 稲吉は一方的に仕事の話をし、正夫は夢から覚めるまでそれを聞かされた。

 正夫の悪夢はそこから始まったのである。

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