夢枕

狸汁ぺろり

祖父と孫

「おじいさん、変わった本をお読みですね」

 のどかな春の夕暮れのことである。

 縁側に籐椅子を持ち出して分厚い本に読みふけっていた須藤稲吉は、窓外からの声にジロリと振り向いた。庭では稲吉の孫にあたる正夫が、たった今大学から帰ったばかりと見えて、額に薄い汗を浮かべて突っ立っていた。

 稲吉は戦後の傑物の一人である。若くして土建会社を興し、昭和から平成にかけての好景不景の波を巧みに乗り越え、一代で大グループへと発展させた剛の人と知られている。その険しい目つきは平時においても人をぞっとさせる鋭さを持っているが、孫の正夫はとんと気にする様子もなく祖父の手元を覗き込んで、

「あっ、これは父の蔵書ですね」

「うむ。正勝君が貸してくれたんだよ。君のお気に入りで何か面白い本はないかと尋ねたら、お義父さんこれはどうですか、と薦められてね」

「へえ、父のオカルト趣味に、おじいさんも興味を持たれましたか」

「馬鹿を言っちゃいけない」

 稲吉は傍らの小卓に本を置くと、代わりに煙草を一本吸いつけた。

「私は幽霊だの、UFOだの、そういったマヤカシには興味がない。だが、そういったものを信じる人間の心理には興味がある。神にしろ仏にしろ、あるいは妖怪にせよ、存在のはっきりしないものを信じる心というのは、人間の無意識の行動に大きな影響を与えるのだ。わかるか。私は実際の話をしているのだ」

「はあ……? ええと、それではおじいさんは、そのオカルト大全を心理の側から研究されていると」

「研究というほど大げさなものではないがな。人間の心は不思議なものだ。それに私自身、見えぬはずのものが見えるという経験を知っている」

「え、それはどんな話ですか」

 正夫は彼の父、あるいは稲吉にとっての娘婿にあたる正勝ほど、オカルトに熱心なわけではない。しかし、変わった話や奇妙な話にはそれなりに興味を抱く年頃である。まして普段は口を開けば今後の事業はどうだの、経営者としての心構えはこうだの、硬い話ばかりをする祖父からそのような話を聞けるのは新鮮だった。

 稲吉は籐椅子に深くもたれて煙草を吹かし、煙の行方を目で追いながら、ゆったりと語りだした。

「私の父が戦争で亡くなったという話は知っているな」

「ええ。ラバウルでしたっけね」

「そうだ。伍長だった。前線の部隊で勇敢に戦ったのだよ。昭和十九年のある夜、母は父から送られてきたハガキを胸に抱いて眠っていた。無論、その隣には幼い私が寝ていた。私はシクシクと泣く声で目を覚ました。隣を見ると、母が眠ったまま泣いていたのだ。翌朝そのことを尋ねると、母は私の目をしっかりと見つめてこう言った。昨夜、お父さんが亡くなったのよ、と」

「あっ、それはひょっとして『夢枕に立つ』という奴じゃありませんか」

「おお、お前もその言葉を知っていたか。その通りだ。母は夢の中で父に会い、今生の別れを告げられたのだという。その時の私にはピンと来なかったが、母は真剣にそう信じていた。そして後日、軍から正式に父の戦死を知らされた。亡くなったのは母が夢枕を見たその翌日だった。……敵陣への玉砕でな」

 語り終えた稲吉は、まだ長く残っている煙草を灰皿に押し付けた。

「不思議ですねえ」

 思いがけず重い話を聞かされた正夫は、もっともらしく腕を組みながら、祖父に話を合わせた。

「ひいおじいさんが戦死したことは知っていましたが、そんな話があるとは知りませんでした。それに僕が知っている夢枕というのは、遠い昔に死んだ人が夢に現れるというものですが、今の話だと、ひいおじいさんはまだ生きている間に夢に現れたんですね」

「うむ。きっと生霊というものだろう。いや、ひょっとするとそれは霊魂などではなく、母自身の心の影であったのかもしれん。母が父の死を恐れるあまり、裏返しにそのような夢を見たのだとも考えられる。虫の知らせという言葉もあるしな」

「どっちにしても日付が合致しているのは奇跡ですね。そうそう、これも父から聞いたことですが、生霊というものは死者の霊よりも執念が強いのだそうですよ。なんでも、生霊というのはまだ死んでいないがために、いっそう生への執着を抱くのだとか……」

 正夫が聞きかじりの知識を得意げに話すのと反対に、稲吉は籐椅子に深くもたれて、じっと押し黙っていた。そして、何かを思案するように天井に向けていた視線を小卓の本に注ぐと、商売敵をひやりとさせる凄みな声で、

「生霊か……」

と、確かに呟いた。

「だけどおじいさん。生きたまま霊魂を自由に飛ばせるようになったら、お金のかからない結構な通信手段になりますね。でもまさか、今後そういった事業に乗り出すつもりじゃあないですよね。あっははは!」

 正夫は無邪気に笑ったが、このとき稲吉の頭の中で、事業を拡大させる時と同じぐらいの熱心さである事が計画されていると知ったら、きっと笑ってはいられなかっただろう。

「それはともかく、学校の方は順調だろうな」

「もちろんです。須藤グループの一員として恥じぬ成績は治めていますよ」

「うむ。お前には将来、私の跡取りとなってもらうつもりだからな。正勝君は真面目で人当たりはいいが、トップとして人を引っ張る腕力に欠けておる。我がグループにはまだまだ発展させる余地があり、私たちはそれを成し遂げねばならん。やはり私の血を引くお前こそが後継者に相応しい。大学を卒業したら会社でビシバシ鍛えてやるからな。覚悟しておけよ」

「ええ、楽しみにしています」

 正夫は不敵に笑った。正夫の方でも、人は良いがどこか頼りない趣味人の父より、若く情熱のある自分の方が、祖父のお眼鏡に適っているという自覚があった。まだまだ闊達な祖父の下でみっちりと薫陶を受ければ、必ずやひとかどの人物になれるという自信もあった。

 祖父と孫の思惑の通り、正夫は一流大学を卒業し、須藤グループ本社へ就職した。

 稲吉が重度の認知症と診断されたのは、それから一年後の事であった。

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