第24話 進級会議

 三月も半ば暖かい日が続いている。桜の開花には、あと数日は必要そうだ。

 そんななかの午後一番の会議に、ぞくぞくと数学科の先生が集まっている。

 今日は進級判定会議だ。

 進級判定会議は卒業研究に着手する学生を確定させるのが主な目的だ。

 卒業研究に着手出来ない学生は、来年度は卒業が不可能なだと自動的に決まる。

 このため、留年生を含め三年生以上の学生は、進級会議の判定結果が掲示板に張り出されるのを、そわそわしながら今か今かと待ち構えている。

 しかし、卒業研究着手の判定で学科がもめたことは未だかつてない。

 判定基準が明確なおかげだ。

 だが今年度は進級会議に集まった先生の表情が一様に固い。

 AO入試で入学した一年生のことで、学科主任と若手教官の間に、きびしい対立があるのが伝わっているのだ。

 学科主任は決まったことを厳格に守ろうとする。

 一方、一年生の講義を受け持った若手教官は、一番前の真ん中の席でド近眼の大きな目をらんらんとさせていたメガトンに親近感を持っている。

 それに、満月のような大きな顔に掛けた黒ぶちの眼鏡が印象に残っているのだ。

 メガトンを直接教えなかった教官の多くは、

(合格した学生に、わざわざ『退学勧告』を突きつけなくなくてもよいのは確かだ。さりとて、一旦決まったことを明確な理由もなしにひっくり返すのも筋悪だ)

 と、ことの成り行きを見守っている。

 例年とは違う張り詰めた雰囲気の中で、教務委員の先生の主導で卒業研究着手判定会議が進み、例年のように無事に終わった。

 つぎは、いよいよ退学勧告が議題だ。

 教務委員の先生がメガトンの履修状況を報告し始める。

「今のところ林田さんの単位は揃っていません。しかし、前期不合格だった科目は、後期には再試験によりすべて合格となっています。このような状況を勘案しますと、後期不合格の科目も来年度前期には再試験により取得可能と思われます。また、担当の先生から、あと少しで合格だったとの報告があります」

 学科主任は教務委員の先生の意図を的確に見抜く。即座に議論を打ち切ろうと高飛車に出る。

「おっしゃることは、よく分かりました」

 そう慇懃に言うと学科主任は一呼吸置いた。

 そして全教員が注視するなか発言を続ける。

「それでは誰が退学勧告の文案を書くかの審議に移りましょう」

 会議室が重い沈黙に包まれる。学科主任のいつもの強引な議事の進め方が始まったのだ。

 それをみんなが感じている。

 さらに学科主任は発言する。

「ご承知のように退学勧告を出すことは、すでに決定済みです。しかし、誰が書くかは明確になっていなかったはずです。AO入試がらみとの意味では入試委員の先生の担当が筋です。でも、進級判定の観点では教務委員の先生が筋です。どちらがよいでしょうか? 皆さん、ご意見がありましたらお願いします」

 主任は学科の先生みんなの意見を募っているように見える。

 しかし、教務委員が始めようとした『退学勧告を、今、出すか否か』の議論をきっぱりと封じたのだ。

 本多准教授は、どう反論するかを考え始める。しかし、考えがまとまらない。

(このままでは押し切られる。でも、学科主任は、決まったことを進めようと言っているだけだ。これに、どう反論したらよいのかしら?)

 若手教官の間に今日は暗黙の連携がある。

 教務委員の若い先生が会議を長引かせる作戦に出る。

「退学勧告文の素案の作成は、学生生活の面倒を見る学生委員が担当ではないでしょうか? 入試委員あるいは教務委員が担当との主任のお考えには賛成出来ません」

 入試委員も教務委員も学生委員も研究活動とは無縁な仕事だ。しかも、激務だ。

 三つの委員とも学科の若手教員が担当している。

 学生委員の先生は、教務委員の先生の意図を読み取る。

 さらに会議を紛糾させる方向の意見を述べる。

「退学届けの提出には、まず学生が主任と面談する必要があります。退学が妥当と判断された場合は、主任が、その理由及び学生の状況を記載し捺印した後、学務課に退学届けを提出することなっています」

 学科主任が、むっとした顔で学生委員に尋ねる。

「そんなことは分かっています。だから、どうだと言うのです」

 学生委員の先生は、学科主任のいやがりそうな意見を返す。

「林田さんの退学理由は、授業料の未納でも、本人が学業を続ける意思を無くしたことでもありません。まして、非行による退学処分でもありません。つまり、前例のない理由での退学となります。ですので、退学勧告書の作成は、かなり困難になると思われます。我々若輩者では、とても作成出来ません。これは、主任に作成をお願いしたいと思います」

 今度は学科主任が反論しなければならない。

 学科主任が反論する前に本多准教授が別の議論を仕掛ける。

「教務委員の先生からの報告をお聞きした限りでは、林田さんは不合格だった科目も、再履修のチャンスを与えさえすれば、十分、単位取得可能と思われます。拙速に退学勧告を出すことには反対です」

 学科主任は原則論を繰り返す。

「皆さんご存じのように、『一年次の専門科目を一科目でも落とした場合、退学勧告を出す』ことを条件にして入学を許可したのです。その旨、本人にも伝えているはずです。それを覆すのは朝令暮改のそしりを受けかねません」

 しかし、本多准教授は引き下がらない。

 小判型の端正な顔が紅潮している。

「でも、意欲のある学生から勉学機会を奪うのは如何なものでしょうか」

 学科主任は声を荒げる。

「退学処分にする訳ではありません。あくまでも退学勧告です。本人が『退学したくない』と考えれば、それまでのことです。機会を奪うわけではありません。これ以上、だらだらと勉学を続けても、結局卒業出来ないという事態を防ごうという親切心です。……林田さんのチューターは誰ですか? 指導状況を説明してください」

 本多准教授は、これでやっとメガトンの擁護演説が出来ると喜々として話し始める。

「林田さんは極めてまじめな学生です。いつも最前列で講義を受けています。それに数学が大好きです。ただし、『退学勧告を受けたら、入学するときの約束だから素直に従う』と言っています。そして再受験して、再入学を目指すそうです。林田さんは明るい性格です。そのうえ学科対抗駅伝大会では、当学科が大逆転優勝する立役者だったそうです」

 学科主任は本多准教授がメガトンのチューターだと知って、熱心な訳が分かったと思った。

 だが、筋論で反論する。

「学科対抗駅伝大会で活躍するのと、数学を理解する能力とは無関係です」

 学科主任は一呼吸おいて本多准教授を睨み付け、『退学勧告』の正当性を主張する。

「問題は、卒業出来る能力を有しているのかどうかです。安易にずるずるといくのは、学生にとっても大きな損失です」

 学科会議でいつも寡黙な高橋教授が珍しく口を開いた。いかつい顔をさらに険しくしての発言だ。

「僕、解析学特論の試験で、林田君に口頭試問を課しました。学力が本物かどうかを特別にどうしても見たかったのです」

 高橋教授に視線が集中する。

「林田君は確かに表現力に問題がありました。でも、本質を嗅ぎ取っている点では、文句の付けようがありませんでした」

 会議室の先生全員が、高橋教授の話に耳を傾け始める。

「むしろ林田君は抜群の出来でした。林田君は受験数学が苦手だとしても、現代数学は向いているようです。現代数学を身に着けるコツを誰よりもつかんだようです。僕はそう確信しています」

 予想外の強力な援護射撃に本多准教授の顔がぱっと明るくなる。

 高橋教授は、たんたんと語る。

「能力がないとの事実は絶対にないと思います。壁に何度も何度もぶち当たり、何とか自力で乗り越えてきたしたたかさを林田君には感じます。他の学生には感じられない特徴です」

 すると、五島教授が高橋教授に尋ねる。

「林田さんの成績は?」

「AAです」

 すると、どよめきが起こった。高橋教授は学科で一番厳しい成績を付けるので有名だったのだ。

 五島教授が今度は教務委員に尋ねる。

「林田さん、どの科目を落としたのかな? 僕、聞き漏らしたのかも知れない」

 教務委員が答える。

「『微分積分学Ⅱ』と『線形代数Ⅱ』、それにリメディアル科目の物理です」

 これを聞いて五島教授がゆっくりと学科主任に話しかける。

 主任に念を押したいようだ。

「合否判定会議で決まった通りでよいのではないですか。今さら議論を蒸し返す必要はないでしょう。……主任! これに異存はないですよね」

 最長老の問い掛けに学科主任は力強くうなずく。

 しかし本音では、『うまい理由が見付かれば、退学勧告を撤回してもよい』と、内心思い始めている。

 そのくらい、高橋教授の発言に説得力があったのだ。

 もっとも今さら後には引けない。

(決まったことは決まったことだ。何か特別な利用が無い限り今さらひっくり返せない!)

 本多准教授は敗北感をかみ締める。

(主任と数学科最長老の五島先生の意見が一致したのだ。もう誰も逆らえない。せっかく高橋先生がメガトンの応援をしてくれたのに、『退学勧告』は出さざるを得ない)

 五島教授がにこやかに再び教務委員に尋ねる。

「林田さん、『数学序論』と『解析学特論』の両方とも合格なのでしょう」

「はい、そうです」

「だったら問題は何もないはずです」

 教務委員は『メガトン擁護』の立場を忘れて問い返す。

「リメディアル科目は専門科目ではないので、『退学勧告』には関係ありません。……でも、『微分積分学Ⅱ』と『線形代数Ⅱ』が専門科目です。この二つを落としています」

 会議室の全員がよく理解出来るように五島教授がゆっくり発言する。

「その二科目とも厳密には理工学部基礎共通専門科目であって、数学科専門科目ではないでしょう」

 これに答える教務委員の歯切れが悪い。

 五島教授に虚を突かれたのだ。

「それは、そうですが……」

 これをきっかけに、合否判定会議で決めたのは、『理工学部専門科目だったのか数学科専門科目』だったのかの議論が続いた。

 大方の先生は、

(確か『理工学部専門科目』で決まったはずだ)

 と、思っていた。

 しかし、記憶がもう一つはっきりしない。

 学科主任が、とうとう業を煮やした。

「誰か事務室に行って、議事録を取ってきてください!」

 そう叫んだとたんに学科主任は気が付いた。

(あのとき議事録を書いたのは僕ではない。五島先生だ)

 議事録の案が出来ると、全教官に電子メールで配布されるのが数学科のルールだ。

 そして一週間以内に修正要求がなければ議事録は確定する。

 学科主任は茶色のふちの老眼鏡を胸ポケットから取り出す。

 議事録が綴じられたパイプファイルをぱらぱらとめくる。

 学科主任の手元をみんなが注視する。例外は五島教授だ。あらぬ方向に目を向け知らんぷりだ。

 議事録の当該部分を探り当てた学科主任が老眼鏡のふちに手をやる。

「議事録には確かに学科専門科目と明記してあります」

 議事録を見ながら主任が思わずため息を漏らす。

「……うーん」

 主任には立場がある。自分が勘違いしていたとは認めにくい。もっともらしく締めくくる。

「一部に誤解があったようです。事実をしっかり確かめて、教務委員の先生、次回からはもっと要領よく報告してください。そうでないと今回のように無駄に会議が長引いてしまいます」

 訓示を交えた主任の発言に、ほっとしたため息があちこちから漏れる。

 本多准教授は何かだまされた気分だ。

(でも、本当によかった!)

 本多准教授は、メガトンのように明るい笑顔だ。山田に頼まれたことを果たしたとの安堵感がじわじわと広がった。

 校舎の外は裸の桜が連なっている。しかし、木々は何となく桜色に色づいて見える。土手沿いの古木に満開の桜が広がるのは、もうすぐだ。

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