第23話 退学回避工作
五島教授の研究室は五階だ。晴れた冬の日が続いたせいか青い流れの多摩川が澄んで見える。
丹沢の山並みの向こうに富士山が優美な姿を見せている。
この眺めが五島教授は大好きだ。でも、あと数年で、この風景とお別れだ。そろそろ退職のための心の準備が必要だ。少し感傷的になっている。
午後一番の窓越しの日差しは真冬だが暖かい。むしろ暑いくらいだ。
そんななか、
(山田君の期待にどう応えようか)
と、こわばった表情の本多准教授が五島教授の研究室を訪れた。
あらかじめ訪問することは伝えてある。
まずは型どおり本多准教授が五島教授に挨拶をする。
「お忙しいところ、お時間を取らせてすみません」
「いえ、とんでもない。………チューターをなさっている学生のこととか?」
「ええ、一年生の林田さんのことで……。AO入試の合否判定会議で話題になった林田さんについてです」
本多准教授は、『メガトン』と言っても、五島教授には誰だか分からないだろうと、『林田』の名前をわざわざ出したのだ。
でも、不要な気遣いだったのを本多准教授は、次の五島教授の返事を聞いて即座に悟る。
「本多先生。メガトン、何かやらかしましたか?」
「いえ、悪さはしていません」
「あの子、相変わらず元気ですか? あの子の早口についていくのは、僕には大変です」
メガトンは五島教授には孫みたいなものだ。五島教授が『メガトンをあの子』と言ってもおかしくはない。
しかし、本多准教授は五島教授を微笑しながらたしなめる。
「五島先生。……『あの子』なんて言うと、また、セクシャルハラスメント委員会に訴えられますよ。『私達は、もう子供じゃない』って」
「まったく先生の言うとおりだ。気を付けなきゃ。それにしても住みにくい世の中になったものです」
「学生に悪気はないと思います。先生に、『一人前の大人の女性』と、認めてもらいたいだけですわ、きっと」
「僕は、まぶしいくらいに認めているのですがねえ。でも、大人扱いするのが何となく照れくさくて。……ところで、メガトン、どうかしたのですか?」
単刀直入に尋ねた五島教授に、本多准教授も正面から話を切り出す。
「メガトンに『退学勧告』を出さなくて済む、うまい方法がないかと相談に伺ったのです」
メガトンの数学科進学には五島教授も手を貸している。
それが仇になったかと五島教授は案じ顔だ。メガトンの修学状況が気になったようだ。
「文科系の受験科目さえちゃんと勉強してこなかったメガトンには、理工学部はやっぱり荷が重かったかな? どんな科目が不合格だったのですか? まさか、すべてじゃないでしょうねえ」
本多准教授はメガトンのチュータだ。きちんとメガトンの状況を把握している。その内容を落ち込んだ表情で五島教授に伝える。
「リメディアル科目(高等学校レベルの内容の大学における再教育)の物理。それに、やっかいなことに、『微分積分学Ⅱ』と『線形代数Ⅱ』を落としています」
「試験の内容によっては、僕も落としそうな科目ばかりですね。たしかにやっかいな科目です」
「そう言われてみれば私も落としそうですわ」
ここで、二人は大笑いする。でも、五島教授は、すぐに表情を引き締める。
「メガトンは、ひょっとして公式の暗記や計算が苦手なのかな?」
「同級生の男の子は、たしかにそう言っていました」
「そうか。でも、計算が出来ないのは僕らも同罪だな。それと比べ工学系の学生は達者なものだ」
「その通りですわ。複雑な計算、私、見るのも嫌ですものね」
メガトンの現代数学の履修状況を真剣な面持ちで五島教授が尋ねる。
「それで本多先生の『数学序論』の出来は、どうでしたか?」
「メガトンは抜群の出来の一人でした。正直なところ驚いています」
「あの子、論理的な思考は生まれながらにして備わっているように感じました。もしかしてメガトンは数学オタクかな」
「そのきらいは、あると思います。でも、決して受験数学オタクではないですわ」
それを聞くと、五島教授は笑顔を作りながら意味深長な言葉を発した。
「数学が大好きなのは歓迎ですねえ。けれど、人間嫌いになったり、ほかのことに興味をまったく無くしたりすると、人生にマイナスのような気がします。メガトンもその点が心配ですね」
美人で独身を通している本多准教授は、『人間嫌い』の噂があった。そんな噂を本多准教授自身も気にしていた。
それで、すぐに五島教授に応えることが出来た。
「数学に恋をして現実の世界を疎んじる人間になる心配があると言うことですか?」
「まあ、メガトンは若いですから今はいいですけれど、やはり心配ですね」
「私は年を食っているから、もう心配してもしょうがないのですね」
にやりとした五島教授は、本多准教授の問いには答えず質問を返した。
「ところで、本多先生、誰に頼まれたのかな? 『退学勧告』を出さないようにしてくれって。……ひょっとしてメガトン自身にかな?」
「いいえ。同級生の山田君から。……必要なら署名を集めて嘆願書を出すとまで言っていましたわ」
「また大げさな。……『退学勧告』であって、『退学命令』ではないのですよ。だから、『退学勧告』が出たって堂々と無視すればいいだけなのに」
これを聞いて本多教授はすぐに悟った。
(合否判定会議のときに、五島先生はメガトンが退学しなくてすむ案をまとめてくれていたのだ。だとすれば、山田君の頼みを五島先生は受け入れてくれるかも知れない)
そう判断すると勇気百倍、本多准教授は山田から訊いた情報を正確に五島教授に話した。
そして、『退学勧告』を出さない方向で数学科をまとめてくれるように頼み込んだ。
しかし、五島教授の回答は本多准教授の期待に反するものだった。
「本多先生がよくご存じのように、学科主任は決められたことはきちんと守ります。融通を効かせることは絶対にありません。確かに杓子定規かも知れません。……でも、学科をまとめていくには、決めたことを遵守するのは大事なことです」
「それは、そうですが」
五島教授の回答に少し落ち込んで、そう答えた本多准教授が、山田の案を再度それとなくおそろおそろ打診した。
「署名を集めて学生が騒いだりしたらまずいですよね」
「それはそうです。これは学生が口出しするような話ではありません。それにそんなことになったら、うちの学科主任、ますます意固地になります」
五島教授の回答は予想された内容だ。「やはり」と思い本多准教授は肩を落としてつぶやいた。
「やはり無理ですか?」
「ところで、高橋先生が、前期、全員不合格にしたのが話題になっていましたね。それで再試験をしたはずですが、結果をご存じですか?」
「そう言えば、『再試験もみんな出来が悪い』って嘆いていましたわ。目に余る答案もあったそうです。でも、メガトンがどうだったかは確認していません」
「そうですか……」
そうつぶやくように答えた五島教授は、しばし考え込んでいる。何か思案している様子だ。
窓の外に広がる多摩川上空の青い空に、五島教授は目をやっている。白い小さな雲が動かない。
いつになく五島教授の眼光が鋭い。
そして結論を出した。
「退学うんぬんは、結局のところメガトン次第です。僕にはそれ以外考えられません」
正論である。
静かであるが反論を許さない断固とした口調だ。
それを聞くと、本多准教授はため息をもらし五島教授の研究室を後にした。
それでも数学科の進級会議で何とか頑張ってみようと、本多准教授は気を取り直す。
日の当たらない南北に延びた廊下はうす暗く寒々としている。
そのひとけのない廊下を、エンジ色のハイヒールがコツコツとリズミカルな音を立てる。
いつもなら学科の先生達の思考を邪魔しないように足音を消す本多准教授は今、気が動転しているのだ。
足音が馬鹿に高い。
廊下を歩きながら本多准教授は名案を思いついた気になった。
(後期の講義科目は追試験も再試験もなかったはずね。ということは、来年度の前期に再試験をやるのが順当だわ。これにメガトンが合格すれば、めでたく単位取得だわ。だとすれば、再試験の結果が分かるまで、『退学勧告』を延ばしてもおかしくない。これは名案かも知れない。学科主任と掛け合ってみよう! よし!)
そして、本多准教授は、この提案を学科主任に一蹴されないようにするにはどうしたらよいかを思案し始めた。
(そうだわ。まずはメガトンの味方をしてくれる先生を募る必要があるわ。これは若い先生に頼めば何とかなりそうだわ)
本多准教授のハイヒールが、さっきよりさらに小気味よい甲高い音を立てる。
何もかもがうまくいきそうで本多准教授は高揚しているのだ。
さらに今、本多准教授は重要なことに気が付いた。
(それに、来年度、学科主任は交代だわ。今年度さえうまく乗り切れば、すべて何とかなるかも知れない)
明るい顔になった本多准教授は、山田に頼まれたので『メガトンの退学回避』に尽力していると思い込んでいる。
自分自身の願望の方がはるかに強いことに未だまったく気付いていない。
動機は何であれ、本多准教授は、『年寄りなんかに頼らない』と、やる気満々だ。
闘志のみなぎった顔が恐いくらいに引き締まっている。
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