第22話 口頭試問
今日は、『解析学特論』の口頭試問の日だ。
只一人の受験者であるメガトンが現れるかどうかで議論が真っ二つに割れた。
彩は頑強に主張した。
(退学せざるを得ないメガトンが口頭試問を受けても意味がないわ。だから、絶対に来ない。人間は諦めが肝心だわ。無駄なことはしないことが大事よ)
一方、浜口は断言した。
(メガトンは能天気だから、数学のおしゃべりがしたくて、うずうずしているさ。やって来るに決まっている)
彩も浜口も自分が当事者だったら、どう行動するかをベースに予測を立てている。
山田は、どちらも、それなりに的を射る意見だと思った。だが、どちらが正しいか判断が付かなかった。
でも、現れることを切に期待していた。
寒風の中、山田が朝早くから鵜の木学園の正門をそれとなく見張っている。
正規の試験期間は、とっくに終わっている。学生の姿は、まばらだ。
裸の桜並木に姿を隠し落ち着かない様子でうろうろする山田は、不審者のように見える。
トイレに行きたくなった山田の目に、やっとメガトンの姿が見えた。
途端に山田はトイレに行くのを忘れてしまった。
(来た。来た。やっぱり、来た。シンちゃんの言う通りだ)
メガトンは、いつものようにお団子頭だ。
頭の中で『ソフトあんみつ』でも食べているのだろうか、いつものように楽しそうだ。
黒髪で出来たお高祖頭巾から覗く唇がほころんでいる。
木陰に隠れながらメガトンをやり過ごした山田は無言で鋭い気合を掛けた。
「頑張れ。メガトン!」
理工学部の研究棟の玄関から、真っ白なマフラーを首に巻いた女子学生が背の高い男子学生と談笑しながら出てきた。
女子学生の背は隣の男子学生より顔一つぶん低い。
その女子学生の肩当たりを、メガトンのお団子頭が通り過ぎていく。
玄関の自動ドアの向こうにメガトンが消えた。
後を追いかけようとした山田は、やっと踏みとどまった。
(僕は何も手伝えない。全力を出してパスしてくれ。頼むぞ! メガトン)
自動ドアがぴたりと閉まった。
メガトンはエレベータには目もくれず、薄暗い階段を上り始める。一段おきに飛び跳ねるように上っていく。
そのたびに膝小僧がかわいく現れる。
鍾馗さんの頬髭や顎髭のようなメガトンの黒髪が、ぴくぴく揺れる。
元気が満ち溢れている。色は白いが足腰は丈夫だ。
それに、誰も見ていないと安心しているのでお転婆をしても気にならない。
高橋教授の研究室は四階だ。
(本多先生なら、お茶かコーヒーを出してくれるかもね。もしかしたらケーキもね。
……でも高橋先生は男ですもの。期待するほうが無理よね。何も出なくても、まあ、しょうがないか)
そんなことを思い浮かべながら、高橋教授の研究室にメガトンはにこにこしながら入った。
高橋教授の褐色の四角い顔は鬼瓦に見える。今にも吠えそうな雰囲気だ。
そのうえ眉がやけに太くて長い。これで頬に傷があったら立派な『やくざ』だ。貫禄が有り過ぎる。
でも、研究室に二人きりでもメガトンは恐れない。メガトンは信じているのだ。
(わたしを取って食おうなんて考える物好きは、いるはずがない。もっとおいしそうな学生が、鵜の木学園にはうじゃうじゃいる)
口頭試問が始まった。
第一問だ。
「解析学で一番重要なのは何だと思う?」
高橋教授は、いつになく優しい声で尋ねる。でも、いかつい顔は直らない。
「わたし、『実数の連続性[注9]』 が大好きなの。すごいのよ、これ。これから、いっぱい、いろんなことが分かるの! すぐれものよ」
高橋教授はメガトンの返事が気に入ったようだ。世間話のような口調に変わる。
「例えば、どんなことが分かるのだい?」
「中間値の定理 [注10]なんか、いい例だわ。
……『連続関数(切れ目なく続くグラフとなる関数)が、ある点で正の値、別の点で負の値なら、この二つの点の間のどこかで、関数の値は0になる』なんて、絵を描いたら当たり前よね。シンちゃんは、いつもそう言っているわ。でも、このあたり前のことが、きちんと証明出来るなんて、とてもすごいと思うの。先生だって、そう思うでしょう」
高橋教授に合意を強制するようにメガトンの眼光が鋭く光る。
でも二人とも、とても楽しそうだ。
「ほかのどんなことに『実数の連続性』は使われているのかな?」
「最大値の原理[注11]も、そうね。でも、シンちゃんは、『最大値の原理なんか、尾根道を歩いた人ならとっくに知っている』くだらない定理だって言うの」
「どうしてだい?」
高橋教授の質問に、メガトンは浜口の発言を紹介した。
「歩き始めか歩き終わりの場所が一番高いところなら、そこがてっぺんだ。もしそうでないなら、出発点か到着点より高い場所があるはずだ。てくてく歩いて行けば、上りがあっても下りがあっても必ず一番高いところを通る。だから、こんなことをわざわざ証明するなんて、まったく馬鹿げているですって」
「まあ、一理あるね。それで、林田君は、どう思うのだい?」
「せっかく理解した証明を馬鹿にされたようで、わたし、くやしかったわ。だから、わたし反論したの」
いかつい笑顔の高橋教授は、メガトンがどう反論したのか興味津津だ。
「どうやって?」
「てくてく歩かないで走り抜けたら、気が付かないかもねって」
「それで、どうなったの?」
「気が付かないやつは馬鹿だ。それに、連続関数は、ずっとつながったグラフだから、どこかに最大値があるのは当然なのだって」
「そう、1変数の関数なら絵が書けるから、当たり前に感じるね。でも、最大値の原理は、4変数の関数や、100変数の関数に拡張出来るのだよ」
「ほんと?」
一瞬びっくり顔になったメガトンだが、未知の定理に表情が輝いている。
メガトンの嬉しそうな顔を見ながら、口頭試問にふさわしい厳しい顔を無理につくって高橋教授は質問を再開する。
「他には?」
「『単調に増加する数列』は、『ある値に収束する』か、『無限大に発散する』かのどちらかしかありえない。これの証明も『実数の連続性』を使っていたはずだわ。でも、『単調に減少する数列』の方が、面白いわ?」
高橋教授は、『単調減少の方が面白い』との理由が分からない。
「なぜだい?」
「一生懸命ダイエットしている人の毎日の体重の記録が数列とするでしょう。涙ぐましい努力をしていれば、きっと『単調に減少する数列』になるわ。だけど、体重は0より小さくはならないわ。だから、どこかで収束する筈ね。つまり、努力には限界がある。病気になる前にダイエットはやめるべきよね」
高橋教授は、『メガトンにはダイエットは必要がない』と笑いを堪える。
メガトンは自分のペースで喋り続ける。
「そういえば有理数の稠密性[注12]も、『実数の連続性』から導けるのよね」
高橋教授が相槌を打つ。いかつい顔がほころんでいる。
メガトンのお喋りは止まらない。
「ねええ、『何かが存在する』との証明に、『実数の連続性』が必ず顔を出すわ。
……もしかすると、わたしがこの世にいるのも、『実数の連続性』のおかげかしら?」
ここで、高橋教授は意地の悪い質問をする。
「ところで、関数が不連続だったら、最大値の定理は成り立つかな?」
「そう言うの、とても面白いわ。わたし、それ、考えたことあるの。……えーとねえ。ちょっと待ってね」
メガトンは、すぐに言葉を継いだ。
「0と1と2で、0の値を取る関数を考えるの。0と1の間は、0から単調に値が3に向かって直線状に大きくなっていくの。でも、1での値は、0よね。不連続関数だから、これは出来るわ。そして。1を通り過ぎると、関数の値は、3から逆に単調に小さくなって、2で0の値を取るの。これだと、最大値はないわ」
「黒板に、その関数のグラフを書いてごらん」
メガトンは、三角形のお山の頂点が0に落ち込んだようなグラフを書く。
「先生! もっと何か面白いのないかしら? もっと、いっぱい訊いて!」
メガトンは立場を逆にして、高橋教授に質問をおねだりする。
おねだりに機嫌よく応えて高橋教授は有名な関数を提示する。
「面白い関数を紹介してあげよう。有理数の点で0、無理数の点でプラス1となる関数だ。最大値の原理や中間値の原理は成立するのかな?」
「最大値は1だから、最大値はあるわ。でも、この関数は決して½にはならない。だから、中間値の定理は成立しない。そうね、先生!」
メガトンは想像だにしなかった関数だ。
頭の中で関数のグラフを必死に書こうとする。
でも書けない。
無理に書こうとすれば、値が0のところで横一直線、そして値が1のところで横一直線に見えるグラフだ。
メガトンは悲鳴に近い声を上げる。
「先生、これ、ひょっとして、どこの点でも不連続な関数なの?」
高橋教授はメガトンの反応が気に入ったようだ。
「あとでゆっくりと自分で考えるといい。林田君はこう言うのが好きかい?」
「大好き!」
そう答えたメガトンは、高橋教授の会心の笑顔を初めて見た。
高橋教授が最後の質問を発した。
「『イプシロン(ε)を使用した極限の定義[注13] 』をみんな嫌うけれど、林田君はどうかな?」
この質問はメガトンが1年近くずっと悩んできた内容への問いかけだ。喜び勇んで答える。
「最初、それ、何のことか全くわからなかったわ。でも、この頃、思うの。『イプシロン(ε)を使用した極限の定義』は、神様の世界と人間の世界との橋渡しをしている。そんな感じがするの」
予期せぬ回答に高橋教授の目がぎらりと光る。
「どうしてかな?」
「『限りなくだんだん近づく』の方が、『極限の定義』は、分かりやすいと思ったの」
「今は違うのかな?」
「『限りなくだんだん近づく』は、ちょっと見は分かりやすいわ。けれど『無限』をきちんと表現するのには限界があると思うの」
高橋教授は無言でメガトンの意見を慎重に聞いている。
「その点、『イプシロン(ε)を使用した極限の定義』は、『無限のダイナミックな世界』を、『有限のスタティック(静的)な世界』で表現しているわ。これならわたしにも使える。すごいわ。これ、すぐれものね。先生、そうは思わない?」
メガトンの理解度を試すように高橋教授は尋ねる。
「どうして、そんなふうに考えたのかな?」
「わたし、解析概論に書いてあった『イプシロン(ε)を使用した極限の定義』がなぜ必要なのか分からなかったの。ない方が断然よいと思ったの。だから、この定義無しで解析概論を書き換えようと思ったの」
「出来たのかな?」
「だめだったの。極限をもつ数列は有界(無限個からなる数列の値すべてが、ある値以下、ある値以上)の証明がどうしても出来なかったの。
でも、『イプシロン(ε)を使用した極限の定義』は、それを見事に解決していたわ! 素晴らしかったわ。あんなに感動したの生まれて初めてよ」
鬼瓦が心の底からにこにこしている。
「以上で口頭試問は終わりだ。林田君、ご苦労さん。ところで天国のお母さんと数学の話は出来たのかい?」
「わたし、『イプシロン(ε)を使用した極限の定義』に感動した時、涙がぼろぼろこぼれたの。その時、しずくが『解析概論』に落ちたの。しまった、ママさんの形見を汚したと、あわてたの。急いでティッシュで拭おうとしたわ。その時、初めて気がついたの」
夢見るようなメガトンに、高橋教授が質問した。
「何に気がついたのだい?」
「わたしのこぼした涙のそばに、古い涙の跡があったの。きっと、ママさんも感動して涙を流したのだと思ったわ。それで、ママさんの涙のあとの横に『ママからの贈り物』とメモしたの。とても嬉しかったわ」
初孫を見るような目で、高橋教授がメガトンのお喋りに耳を傾けている。
「でもママさんは現れなかった。まだわたしはママさんとお話し出来るレベルではないのね、きっと。
……その代わり、妖精がいっぱい現れて、『解析概論』の周りを舞っていたの。
でも、どうして、それまでは妖精が見えなかったのかしら? 不思議だわ、本当に不思議。
それからは『解析概論』を読むのが楽しくなったわ。次から次へと語りかけてくれるのよ。それまでは無味乾燥だったのにね。
今度はいつ妖精が現れるのか待ち遠しいわ」
メガトンは楽しい時が過ごせて、とても嬉しそうだ。口頭試問を受けていたと言う実感が、まったくないのだ。
高橋教授の研究室の外の廊下を、山田が寒そうに行ったり来たりしている。
口頭試問の結果が心配なのだ。
高橋教授のドアが開く気配だ。山田は素早く姿を消した。
メガトンに心配してうろうろしていたと気付かれたくないのだ。
いっぽう口頭試問を終えたメガトンは、ぷっつりと学校に来なくなった。
定期試験も再試験も終わり、鵜の木学園に残る大半の学生は、あとは新学年を迎えるばかりだ。
山田は何かに取り憑かれたように、毎日何回か図書館に顔を出した。
そして、メガトンがいつも坐っていた席に他の学生が座っているのを見るたびに叫びたくなる。
「そこはメガトンの席だ! 勝手に座るな」
春は近づいていた。
しかし、山田の心は晴れなかった。
[注9] 実数の連続性の意味。
数直線は実数で埋め尽くされていることを実数の連続性という。なお、関数の連続性における「連続性」とは異なる意味である。また、実数の連続性は、実数の完備性ともいう
[注10] 中間値の定理。
a以上かつb以下の数直線上の区間で定義された連続関数が、点aで正、別の点bで負ならば、この二つの点a,bの間のどこかで、関数の値は0になる。
[注11] 最大値の原理。
閉区間(両端を含む数直線上の区間)で定義された連続関数は、両端か、区間内のどこかに最大値がある。
[注12] 有理数の稠密性。
どんな実数a<bに対しても、a<x<bとなる有理数xが必ず存在する。
[注13] 数の列a(n)が、実数aに収束するとの極限の定義。
任意の正の数ε(イプシロン)が与えられたとき、少なくとも一つの自然数Nが存在し、この自然数Nより大きいすべての自然数nに対して、a(n)とaの差の絶対値がεより小さい、つまり、a(n)とaの差が、±εの範囲に収まる。
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