第25話 お別れ会
本多准教授は優しげな外観に似合わず酒豪だ。
しかし、焼きとり屋に集まった5人のうち4人は未成年だ。
(今日は、ソフトドリンクで我慢)
本多准教授は、そう覚悟をしている。でも、本当にうれしそうだ。
磨きあげられた褐色のテーブルを挟んで、椅子が3席ずつ2列に並んでいる。テーブルの木目が美しい。
彩の輝く顔が山田と浜口の間に見える。
浜口が照れたように嬉しそうだ。
メガトンのお別れ会を招集した山田は幹事役だ。幹事役らしく料理の注文がしやすい通路側に陣取っている。山田はメガトン顔負けの笑顔だ。
本多准教授と主役のメガトンは店の奥側の席に並んでいる。
本多准教授は中学生になる娘を連れた若いはつらつとした母親のように見える。むしろお姉さんに見える。
山田が立ち上がって開会の挨拶を始める。
「まずは残念なお知らせです」
メガトンがぴくりと反応する。満月のような顔の中の大きな瞳が少ししぼんだようだ。巻き上げた髪が耳の上で二つのお団子のようになって黒々としている。
山田がメガトンに尋ねる。
「退学勧告は届いたかい?」
「まだ届いていないの。どうしたのかしら? おかしいわ」
彩と浜口がメガトンの答えに怪訝な顔をする。
山田はすまし顔で開会の挨拶を続ける。
「みんなに集まってもらってメガトンのお別れ会をやろうと思っていました」
ここまで我慢をしていたのだが、山田は思わず会心の笑みを漏らす。
「けれど、駄目になりました。そのためもあって、今日の費用はメガトンからも徴収します。みんなで割り勘です」
たばねた左右の黒髪があごの下で交差しているメガトンの顔が上がる。不審そうに山田を見る。
小さな唇がすこし突き上がったようだ。
浜田が山田の口上に乗った。
「お別れ会じゃないとしたら、今日はいったい何の集まりなのだい?」
事情を知っている本多准教授は笑いをかみ殺している。
彩はこの間、別のことを考えている。
(どう見ても本多先生の方が、私より魅惑的だわ。私だってこんなに美人なのに、この違いは何かしら?
……先生は口紅をしている。薄いけれどお化粧もしている。だのに、私は、すっぴん。
きっと、これが差のおおもとだわ。
だとすると、これは公平な競争ではないわ。
この春休み、私もお化粧を勉強しなきゃ。そうしたら先生に絶対に負けない!
私は若いのだ。おばさんなんかに負けられないわ! 絶対に勝ってみせる)
闘争心が芽生えた彩の切れ長の目が、きらりと光る。しかし、穏やかな美しい表情は崩さない。メガトンと違って感情をコントロールするのが上手なのだ。
メガトンはあどけない顔で山田の答えを待っている。もっとも、眼、鼻、口以外は、黒髪に覆われていてよく見えない。みっともない顔を隠そうと眉さえ隠している。
やっと山田はメガトンにも理解出来るように話す。
「結局、退学勧告は出ないのだって。……メガトン、来年も駅伝大会で走れるのだよ。うれしいだろ」
そう言われてもメガトンはきょとんとしている。半信半疑なのだ。
思わずメガトンは山田に念を押す。
「ヤマちゃん、それ、本当なの? いつもの冗談じゃないの?」
「嘘なんか付くものか。本当だとも。……ねえ、先生」
本多准教授は山田の答えを裏打ちする。
「山田君の言っていることは本当よ」
「でも、わたし、専門科目を二科目も落としているわ」
本多准教授は丁寧に解説する。
彩は本多准教授の歯が真っ白できれいだと思う。対抗心がさらに燃え上がる。
「専門科目の意味の取り方が先生によって違ったのね。メガトンの落としたのは理工学部の基礎共通専門科目。数学科独自の専門科目ではないわ。……だから、退学勧告の対象にはならない。そう判断されたの。私も勘違いしていた一人だわ」
突然メガトンの顔がくしゃくしゃになる。母の一周忌を終え東京に戻ったメガトンは、退学届けを出す覚悟をしていたのだ。
「馬鹿だなあ、メガトン。泣くやつがあるかい。喜ばなきゃ」
「だって、ヤマちゃん。予想外なのですもの。わたし、うれしいの」
褐色の肌のいかにも健康そうな浜口が軽口を叩いた。
「本当によかった。メガトンがいなくなったら、俺が一番困るものな」
不審そうに彩が浜口に尋ねる。
「いったい何が困るの?」
「だってメガトンがいなくなったら、俺の数学科でのビリは決まりだもの」
彩は山田とトップ争いをしているつもりだ。それだけに、ブービー賞の対象には決してならない絶対の自信がある。
浜口をからかう口調になる。
「よかったわね、シンちゃん。鵜の木学園がやさしい大学で」
「鵜の木学園のいったいどこが俺にやさしいのだ?」
「だってシンちゃん、メガトンよりいっぱい単位を落としているじゃない。それでも、すんなり進級ですものね」
「てやんでえ。……俺は大器晩成型なだけさ。鵜の木学園も、それをきちんと理解しているのだ」
この強がりを聞いて彩は浜口の気にしていることを持ち出す。
「でも、卒業出来ないと困るのじゃない」
山田は彩の発言に頷く。そして、より厳密な言葉を選ぶ。
「彩さんの言う通りだ。学科ビリは卒業出来る人の中での話だ。途中退場は成績順位付け対象外だ」
彩は浜口に遠慮がない。
「私、シンちゃんは数学に向いていないと思うの。なぜシンちゃんが数学科を選んだのか、私には理解出来ないわ」
浜口は学科の道化者に徹しようと決めたのだ。頭をかきながら剽げて答える。
「俺、本当は漫画家になりたかったのだ。でも、親父もお袋も、『理科系に進学してエンジニアになれ』って、うるさかったのだ。だけど俺は怠け者だから、実験や実習に縛られるのはとても嫌だった」
「分かったわ。それでシンちゃんは、実験やレポートに縛られないで楽そうな数学科を選んだのね。シンちゃんらしいわ。でも、高校生時代、数学は得意だったの?」
浜口だって理科系に進学したのだ。それなりに数学は出来たのだ。
しかし、それを正直に言うのは照れ臭い。軽い自虐的な回答になる。
「物理よりは、ましだったさ。でも今は、心から後悔している。大学で習う数学は、まるで哲学みたいだ。まるっきり分からない。正直言って彩さんやヤマちゃんがうらやましい」
彩と浜口のやりとりに山田が割り込む。
「先生、生ビールでいいですか?」
浜口が本多准教授より先に回答する。
「俺も生ビール」
だが、山田は浜口を無視する。
(大学近くの店で先生と一緒に堂々とジョッキを傾けるのは、さすがにまずい)
山田のまっとうな判断だ。
「僕らは未成年だから、ソフトドリンクにします」
先生が同席しているせいだろう、浜口はおとなしく生ビールを諦める。
焼き鳥のおまかせコース五人前の注文に、前垂れを掛けたお兄さんが炭火に串をかざす。
串に刺した肉に塩を振る手つきが鮮やかだ。
団扇で炭火を仰ぐごとに、黒い半袖の丸首シャツから出たたくましい前腕の筋肉がダイナミックに動く。どうやら左利きのようだ。
串に刺した肉から白い煙が立ち上る。その煙がほんのり空色に染まって見える。
料理人の後ろの棚には、お客さんにラベルが見えるようにして、日本酒や焼酎の一升瓶が所狭しと段になって並んでいる。
それをものほしそうに眺めながら生ビールを諦めた浜口が彩に尋ねる。
「そう言う彩さんは、どうして数学科を選んだのですか?」
「高校生時代、数学が私は一番得意だったの。だから数学科を選んだの。それに数学が出来ると、なんとなく格好いいと思ったの。まあ、頭の良さの証明ね。もちろん他の科目も得意だったわ」
浜口は彩の横顔をまぶしそうに見て思わずため息をつく。
「ちぇ。俺と違って、彩さんは何をやっても絵になるからな。才色兼備ってやつだ。俺とは、まるで違う」
浜口はメガトンの鋭い眼光にたじろぐ。メガトンに『美醜』の話題は禁物なのだ。
慌てて言い訳をする。でも、口が滑る。
浜口は憎めないがそそっかしい性格だ。
「メガトンの黒髪のお高祖頭巾もユニークで可愛いよ! ……俺の養女にしたいくらいだ」
メガトンは子供扱いされるのが、いつものように癇に障る。抗議の声をあげる。
「なんでわたしがシンちゃんの子供にならなきゃいけないの? せめて、『妹にしたい』ぐらいにしてほしいわ」
浜口の脳裏に、
(こんなみっともないガキを妹に出来るか!)
との思いがよぎる。
すると間髪いれずメガトンのドスのきいた声が走る。
メガトンには音のない声を感じ取る能力があるのだ。
「わたしは背が低いしお痩せだけれど、もう一人前のおとなのなの! 『こんなみっともないガキ』なんて失礼だわ。……電車だってもう子供料金じゃ乗れないのよ」
浜口はメガトンから迫る気に耐えながら反論する。
「試してみたのかい?」
「何をいったい試すの?」
「最近こども料金で乗ろうとしたことがあるのかい?」
「ないに決まっているじゃない! わたしだって、もうすぐ二十だわ」
二人の会話に、いつも厳密な山田が割り込む。
「それじゃあ乗れないことの証明になっていない。『乗れない』って、メガトンが思い込んでいるだけかも知れない。この違いは大きい。ものごとは、きちんと判断しなきゃいけない」
「失礼よ! ヤマちゃん。わたしは、どう見たって立派なレディだわ。違うこと?」
メガトンの詰問を山田は受け流す。
さらに山田は、どちらにも与しない立場を明確にする。
「そう、シンちゃんは言い過ぎだ! さすがにメガトンは小学生には見えない。中学生は大人料金なのを知っているかい?」
浜口は山田の仲裁を快く承諾する。
「俺、『小学生』は撤回するよ。ヤマちゃんの言うとおりだ」
しかし、メガトンは収まらない。
黒ぶちの大きな眼鏡の奥で、らんらんと目を光らせ山田を睨む。
「ヤマちゃん! それ、どう言う意味? 『わたしが中学生にしか見えない』とでも言いたいの?」
「僕、そんなこと言っていないよ。単に事実を言っただけだ」
メガトンは、ふくれっ面だ。
「何の事実?」
山田はメガトンに二択問題を提起する.
「中学生は子供料金かい、それとも大人の料金かい? メガトンは、どっちが正しいか知っているかい?」
当然メガトンは正解を知っている。山田に馬鹿にされまいと一際りきんで答える。
「そんなこと、わたしだって知っているわ。大人の料金だわ」
「その通り。僕は正しいこと、すなわち、『中学生は大人料金である』との事実を述べただけだ」
メガトンはまた山田にうまく丸め込まれたようだ。
「それは、そうだけど。……でも本当はヤマちゃん、わたしが中学生みたいな子供だって言いたいのでしょう」
「僕は一般論を言っただけだよ。メガトンのことは何も言っていない。彩さん、そうだよね」
彩に助けを求めた山田に、メガトンは怒って見せる。
「ふん、また、ヤマちゃん一流のおとぼけね」
「僕、メガトンは気立ての良い女の子だって信じている。怒りん坊なはずないよな」
いつも繰り返される三人のやりとりに、彩がにこにこしている。
幸か不幸か彩はからかわれた経験がまったくないのだ。
浜口が結論を出す。
「確かにメガトンは大人料金の女の子に見える。だって、小学生はパンツまる出しだものな。その点、メガトンはおしとやかだ」
それをきいて、メガトンを除いた三人が、思わず吹き出す。
メガトンは口を尖らすが反論を思いとどまる。
二人が相手では到底勝ち目がないと思ったのだ。
浜口の軽口はともかく、山田の屁理屈には、とても勝てないと諦めている。
メガトンが膨れている間に、焼き鳥の良い匂いがテーブルに近づく。
本多准教授が大皿に載った串に眼をやる。
「最初は、ねぎま(鳥ねぎ)ね。おいしそう。それじゃ、皆さんの進級を祝って、まずは乾杯!」
明るい本多准教授の声が響く。
メガトンの目が、ねぎまに向く。
(早く食べたい!)
メガトンの小さな体が躍動する。大きな瞳が一段と輝きだす。ほっぺたが落ちそうなくらいニコニコしている。
しかし、頬を覆った黒髪のおかげで落ちそうなほっぺたには誰も気づかない。きゃしゃな肩が踊っている。
メガトンは美味しいものが大好きだ。
もちろん数学も大好きだ。もっとも、まだ、数学は良く分からないのだ。
でもメガトンは、だから数学がおもしろいのだ。
次に来た串は『せせり』だ。
彩は器用に箸を使う。串に刺された肉を一つずつ丁寧に取っては皿に移す。それを箸でつまんで、ゆっくりと小さな形のよい口に運ぶ。いかにも上品だ。
メガトンは串のまま肉にかぶりつく。表面を炙った肉の内側はジュシーだ。かぶりついたメガトンの口の中で、せせりの肉汁の旨みが、じわっと広がる。噛み締めるたびに、メガトンから満面の笑みがこぼれる。
大きな黒い瞳が目から落ちそうな笑顔だ。幸せそうだ。
それを見て、浜口が手のひらを上に向け、メガトンに右手を伸ばす。もっともらしい澄ました顔だ。
メガトンは相変わらず串にむしゃぶりついている。あどけない表情だ。
せせりを食べ終わったメガトンは、フーッと息を吐く。やっと浜口の伸びた手に気が付く。
しかし、夢中で食べていたおかげで、お高祖ずきんが役に立たなくなっているのには気付かない。頬がめずらしく向き出しだ。
「なーに、この手? 手を伸ばしたって、わたしの分、シンちゃんにあげたりしないわよ。今日は割り勘!」
「俺、親切で手を伸ばしているのだ。メガトンの分を寄こせなんて言っていないよ」
「何が親切なの?」
「目が落ちたら素早く拾ってあげようと、準備しているのだ。……俺、親切だろ。ほっぺたは落ちても転がらない。でも、メガトンの目がテーブルに落ちて、ころころって転がって床に落ちたりしたら拾うのが大変だ」
浜口はメガトンの目を見て笑っている。いたずら小僧の顔だ。
メガトンは、いたずら小僧に反論する。
「そんな馬鹿なこと起こりっこないわ」
浜口は引き下がらない。
「馬鹿なことが起きる。必ず起きる! それがメガトンだ」
山田が浜口の間違いを鋭く指摘する。
「シンちゃん! いくらメガトンの目が馬鹿でかいって言ったって、テーブルに落ちたりはしないさ。それは間違いだ」
山田はメガトンの味方をするようだ。だが、その後が怖いのをメガトンは知っている。案の定だった。
「目が下に落ちないように、大きなメガネを掛けているのだ。そんなこともシンちゃんは分からないのかい!」
三人がやりあっている。
少女ひとりを男二人で、いじめているようにも見える。
テンポの早い会話を本多准教授と彩はだまって聞いている。
『鳥のたたき』が来た。メガトンは急に黙りこむ。頭の中は空っぽだ。周りの音が耳に入らない。目がらんらんと輝いている。よだれが落ちそうな笑顔だ。
山田は、おいしそうに『鳥のたたき』をほおばるメガトンをじっと見ている。目を細くして見ている。
(メガトンだって、いっぱい食べたら大きくなるさ。もっとたくさん食べなきゃ。たくさん食べて早く大きくなーれ!)
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