第20話 後期定期試験

 後期定期試験の最終日、広い教室に学生がやってきては着席する。最終日は高橋教授の『解析学特論』の再試験だ。

 試験を前に彩の目がつり上がっている。

 教室の最前列では山田が試験を静かに待っている。いかにも自信ありげな背中だ。それを目に彩の闘志が燃えたぎる。

(昨日までの試験は完璧に出来たわ。でも、ヤマちゃんも出来たに違いない。やさし過ぎたものね。メガトンやシンちゃんだって出来たかも知れない。大きく差が付くとしたら、この試験ね。でも、私は負けない。絶対に勝つ。準備万端整っている)

 彩は苦労して過去十三年分の試験問題を集めた。しかも、あらかじめすべてに解答を作成した。同一傾向の問題なら記憶した解答がすぐ引き出せるはずだ。

 緊張した中、問題が配布される。

 試験問題は計二十五題だ。

 冒頭に、

『以下の結果が正しいか否かを述べよ。正しくない場合、その根拠あるいは成立しない例を述べよ』

 との記述があった。

 彩の予期しない形式の問題だ。しかし、彩は即座に判断した。

(正解が見通せない場合は正しいと解答すべきね。そうすれば根拠を述べる必要がないですものね)

 高橋教授は、零点の学生が出ないように、『○×』問題を案出したのだ。

 実際、高橋教授の意図を勝手に解釈して浜口は能天気だ。

(しめた。全部『○』と解答すれば、『半分は正解』だ。しかも、レポートは全部提出している。ヤマちゃんのを写したのだから満点に違いない。これが試験結果に加算される。それに、ちゃんとヤマちゃんのレポートとはフォントを変えた。だから、『写した』とばれる心配も無い)

 しかし、満点を狙う彩には、なかなかの難問だ。どれもが正しいようで、どれもが間違いのように見えるのだ。

 彩は、まっしぐらに正解に達成するのに慣れていた。ただし目的地に達するのに、いつも道案内人がいた。何度か目的地に先導してもらっているうちに道筋を正確に覚えるのだ。

 袋小路に迷いこんだり、迷子になったりする経験が、彩にはほとんどない。正解への一本道を爽やかに歩いた経験のみが記憶に残っている。

 高橋教授の『○×』問題は、迷いつつ学んだ学生には、正解に達した経験がなくても再三再四悩んだはずの事柄だった。

 彩は完全に面食らっている。じりじりと時間が通り過ぎていく。彩はパニック状態だ。満点を取れる自信が揺らいでいる。それどころか、不合格の恐れにおののいている。

 沈着に解答を進めているように見える山田の背中を見て、彩は机を蹴り上げたくなる。折角の努力が水の泡なのだ。何のために、過去問の答えを苦労して暗記したのかと腹立だしい。

 ちょうどその時、後方で椅子を引く音がした。

 ついで、足音が近づいた。

 彩の注意が、そちらに移った。

 机の間をメガトンが通り過ぎていく。独特のお団子頭の後ろ姿で、すぐにメガトンと判断出来た。

 彩は唖然とした。が、すぐ気を取り直した。

(もう解答し終わったのかしら? まさか、ね。……諦めたのだわ、きっと。かわいそうに)

 答案用紙を教卓に置いたメガトンが鞄を取りに席に戻ってくる。

 いつものように黒髪で頬やあごを隠した顔が、怒ったように引きつっている。

 今にも泣き出しそうだ。

 実際メガトンは怒っていた。

(こんな問題を出すなんて、高橋先生、ひどいわ。あんまりだわ!)

 メガトンを見上げていた彩は、すぐに視線を机に落とす。顔を合わすのが、なぜかつらいのだ。

 やがて後ろのドアからメガトンが教室を立ち去って行く静かな音がした。

 彩はメガトンと二度と会えないような気がした。

 解答を再開した彩に、穏やかな心が戻っている。メガトンに惜別の念が湧いている。

(さよなら、メガトン。やっぱり無理だったのね。数Ⅲを高校で勉強していないのに数学科に来るなんて、そもそも無謀なのよ。

 でも、どうしよう? 折角の引き立て役が突然いなくなるなんて!

 引き立て役がいないと、素晴らしい美人も目立たないわ。大急ぎで代わりを探さなきゃ)

 数日後、後期の試験結果が出そろった。山田と彩は、すべて合格だった。

 彩は、『最大のライバルは山田』と、再認識した。

 しかし、メガトンと浜口は仲良く、「微分積分学Ⅱ」と「線形代数Ⅱ」とが不合格だった。

 ただし、両科目とも来年度の前期に再履修があると発表された。

 山田は、何とか今年度中に再試験を行うように、先生に願い出た。しかし、『入学試験が控えているので、日程的に無理だ』と、知らされた。

 山田はメガトンのいない鵜の木学園が考えられないのだ。

(今年度中に再試験がないとメガトンは退学だ。来年度再履修を受けて、それから試験なんて悠長なことは言っておられないのだ。

 それにしても、メガトンは、どうして公式が覚えられないのだ?)

 高橋教授の『解析学特論』の単位を浜口は落としてしまった。全部『○』作戦は、残念ながら実らなかった。

 浜口は成績に異議申し立てをしようか悩んでいる。高橋教授を恨んでさえいる。

(『○』が正解の問題が多ければ、俺だって合格だったのに。……高橋先生は意地悪だ! 性悪だ!

 でも高橋先生は、レポートでの俺の努力『フォントや改行箇所を変えた』ことに気付いたのかもしれない。

 そうだとしたら来年は、もっと何か工夫がいりそうだ。

 抗議は控えた方がよいのかも知れない。下手に騒ぐとやぶ蛇だ!

 問題はヤマちゃんだ。ヤマちゃんは来年も『解析学特論』のレポートを俺のために書いてくれるだろうか?)

メガトンは唯一人、高橋教授に更なる面接試験に呼び出された。成績は保留だった。

 メガトンを呼び出す張り紙を見上げながら彩は思った。

(どうせ退学のメガトンが高橋先生の面接試験を受けても意味がないわ。諦めが肝心ね)

 だが山田は諦めなかった。何とかメガトンの退学を食い止めようと考え込むのだった。

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