第19話 学科対抗駅伝大会

 快晴である。でも、多摩川の上流から強い冷たい風が吹き抜けている。風上に顔を向けていると息苦しくなるほどだ。

 鵜の木学園をスタートした三十人ほどの選手は追い風を受けている。

 張り切る選手全員が快調にガス橋まで飛ばす。

 各学科、精鋭が一番手だ。まだ一団だ。

 しかし、ガス橋を渡り土手を上流に向かうと、集団がばらつきだした。

 向かい風が、きついのだ。

 寒風の中、次々と男子学生が、スタート地点と中間地点を往復しタスキをつないだ。

 その間に、太陽が南を通り越し西へと移動している。

 すでに、五番手の男子学生が、向かい風に逆らいながら、最終走者にタスキを運んでいる。

 昨年準優勝だった数学科のメンバーは、今年は優勝を狙っている。

 だが、今年は芳しくなかった。

 先頭を走る仏文科最終ランナーの女子学生が出発したのに、まだ数学科は待機状態だ。

 メガトンの耳に、浜口といらだったキャプテンとの小さな話し声が風上から届いた。

 二人は、メガトンには聞こえないと思っているのだ。

「おい、浜口! あのチビ、大丈夫なのか? どう見たって、まだ子供だ。色は白いしスポーツは向いていなさそうだ。よちよち歩きじゃ困るぞ」

「でも、キャップテン。急だったから、しょうがないですよ。他に、女の子を思いつかなかったし……」

「途中で棄権でもしたら、おおごとだ。せめて六位に入らないとなあ。駅伝大会始まって以来、常に入賞を続けてきたのは数学科と仏文科だけなの知っているだろう!」

 責任は浜口にはない。

 でも浜口は、すまなそうにキャップテンに言い訳をする。

「そうは言っても、急な頼みなのに参加してくれただけでも、めっけものです」

「それは、そうなのだけれど。……しかし、うちのチーム遅いな。今年は優勝を狙っていたのに残念だ」

 二人の会話を遠く耳にしながらメガトンは落ち込んでいる。

(わたしって、ここでも期待されていないのね。また味噌っかすなのだわ)

 いじけていたメガトンの頭が急に入れ替わった。

 昨日からずっと気になっているのだ。

(どうして、『有理数全体からなる集合の境界は、実数全体』なんて、奇妙なことが成立するのかしら?)

 どう考えてもメガトンには不思議だった。

 また思い悩み始めている。

(わたしの聞き間違いかしら? 有理数は数直線全体に散らばっているわ。その有理数全体に境界があること自体、不思議だし……)

 そんなことを考えながらゆっくりストレッチを繰り返すメガトンに、浜口が歩み寄った。

「メガトン、出番だ。遅くてもいいから、完走を目指してくれ」

 ウィンドウブレーカーと、トレーニングパンツを脱ぎ捨てた白い短パン姿のメガトンに、キャプテンが瞠目する。

 予想外の如何にも早そうな、しなやかな太ももが出現したのだ。

 白いソックスの足首が細く初々しい。

 メガトンの下半身は、トップクラスのアスリートのように見事に発達している。

 タスキを受けて下流のガス橋へと飛び出したメガトンに風に乗ったキャプテンの声が伝わってきた。

「何分遅れだ?」

「十位の英文科に、一分遅れ」

「違う! トップとの差だ?」

「三分半!」

 キャップテンは、

(五千メートル走る間に、トップと千メートルほどの差を詰めるのは無理だ)

 と思った。

 しかし、強い風なので、もしかしてアクシデントがあるかも知れない。そう思い、優勝に望みをつないだ。

 キャプテンと浜口は、走り終わった五番目のランナーと一緒に車に乗り込んだ。そして、メガトンとは反対方向の上流の丸子橋を渡り対岸のゴールへと向かった。

 その間、頭の中で小さな丸を平面に描いたメガトンは、軽快に走りながら考え続けている。

(丸の中は有理数、丸の外は無理数とするわ。

 すると、境界は円周上の点全体だわ。

 でも、円周の内側には有理数が一杯、円周の外側には無理数が一杯ね。

 ……どうして円周が実数全体と一致するのかしら?

 どう、考えても、おかしい!

 それに、円周上の点は無理数なの? それとも有理数なの? ああ、やっぱりわからない)

 毎朝、坂道の多い下宿先の馬込の街を走るメガトンは走りながら考えるのには慣れている。

 しかも今日は、車の通らない土手を川沿いに走っているのだ。いつもより集中している。

 突然、本多准教授の顔が浮かんだ。

「集合論をきちんと使うには、ベン図形[注7] にこだわっていては駄目! ベン図形は集合が分かったつもりになるだけ」

 昨日から堂々巡りしていたメガトンは、本多准教授の話を思い出し平面に絵を描くのを思い切って諦めた。

 その代わり素直に数直線上で考えることにした。

 そして的を絞り始めた。

(境界が実数全体と言うことは、0もπも、有理数全体からなる集合の境界上の点だわ。でも、どうしてかしら? どうしてなの? 訳がわからないわ)

 ゴールから対岸の土手を注視していたキャプテンが思わず叫んだ。

「あのチビ、速い。また抜いた」 

 でも、速過ぎると思った。

(あれではガス橋を渡ってから失速する。向かい風が待っているぞ。そんなに無理するな。もう少し抑えろ! いくらなんでも速過ぎる)

 キャプテンは、そうアドバイスを送りたかった。でも、風に飛ばされるように走るメガトンは二キロ以上向こうの対岸だ。

 メガトンは将来のことを考えるのが苦手だ。今を精一杯生きる性格だ。ペース配分は二の次だ。

 今度は浜口が歓声を上げた。

「メガトンがガス橋を渡り始めた。すごい」

「先頭は?」

「もうすぐ渡り終えそうです」

 差はまだ大きいが、四百メートル弱に縮まっている。

 ガス橋を軽快に走り抜けながらメガトンは考え続ける。

(πは3より大きく、4より小さいわ。

 それに、πは3.1より大きく、3.2より小さいわ。

 これがずっと続くはずね。

 ということは、πを含むどんなに幅の狭い区間も、必ず有理数を含むということだわ。

 これを厳密に証明するには、どうしたらよいのかしら?

 そうだ! 高橋先生に習った『有理数の稠密性[注8] 』が使えそうだわ。

 たしか、どんなに幅の狭い区間も、有理数を少なくとも一つ含んでいるという定理だわ。

 これを使えば、πを含むどんなに幅の狭い区間も必ず有理数を含むことが証明出来るわ。

 それにπ自身は無理数だわ。

 結局、πを含むどんなに幅の狭い区間も、有理数も無理数も含むと結論出来るわ。

 つまり、πは有理数全体からなる集合の境界上の点だわ。不思議だけれど、そうなのだわ。

 これは、πに限らず、どんな無理数でも成立するはずね。

 結局、無理数はすべて、有理数全体からなる集合の境界上の点ね。

 でも有理数の0は、どうなのかしら?)

 昨日から考え続けた懸案事項に突破口が見えた。

 メガトンは元気百倍だ。ガス橋を渡って向かい風にぶち当たっても、却って加速した。

 瞳が、らんらんと輝き始めた。大きな黒ぶちの眼鏡が風防眼鏡のようだ。

(0を含む幅の狭い区間として、マイナスαからプラスαまでの区間を考えてみようかしら。

 0自体は有理数だから、0を含む幅の狭い区間に必ず無理数があることをを言えばよいのだわ。

 そうすれば、0は有理数全体からなる集合の境界上の点ね。

 さっき考えたπを含む幅の狭い区間が使えないかしら?

『有理数の稠密性』から、πマイナスαと、πプラスαの間には、有理数βがあるはずね。

 この三つの値おのおのからπを引くと、どうなるかしら?)

 ここでメガトンは、しばし考え込んだ。考え込むにつれ、ますます興奮していく。さらにピッチが上がる。

(マイナスαと、プラスαの間には、βマイナスπが存在すると結論出来るわ。

 βが有理数で、πが無理数ね。これから、βマイナスπが無理数と証明出来れば、0を含むどんなに幅の狭い区間も無理数を含むと結論出来るわ。

 つまり、0を含むどんなに幅の狭い区間もたぶん無理数であるβマイナスπと、有理数0を含むことになるのね。

 結局0は、有理数全体からなる集合の境界上の点だわ)

 メガトンは難問が解明出来そうだと、わくわくしてきた。

 早く図書館に行って、今考えたことをきちんとまとめなきゃと、足の運びが一段と早くなった。

 自分は頭が悪いと思い込んでいるメガトンは、証明の付いたこと、分かったこと、思いついたことを丹念にパソコンに入力する習慣が身に付いていた。

 そうしないと、すぐにすべてを忘れてしまうのだ。

 鞄にはいつも、ノートパソコンと『解析概論』が入っている。

 有理数と無理数がメガトンの頭を慌ただしく駆け巡った。

 と、そのとき、山田と浜口の大声が強風に乗ってメガトンの耳に響いた。

「メガトン! ダッシュ」

 大きな黒ぶちの眼鏡が、ぴくりと動いた。メガトンが短距離走のように疾走し始めた。

 しなやかで敏捷だ。獲物を狙う子猫のようだ。砂埃を切る。風を切る。

 トップ争いをしていた先頭の二人をメガトンが追う。差を詰める。

 強風に押し戻されそうになりながら先頭を走る二人は、メガトンの追走にバックしているようにさえ見える。

「頑張れ、メガトン。頑張れ、メガトン!」

 いつもは学科行事に無関心な山田が、ぴょんぴょん跳ねて叫んでいる。

 もう夢中で応援している。

 ぴょんぴょん跳ねて息を切らしながら叫び続けている。

 一陣の突風がメガトンのお高祖頭巾を吹き飛ばした。

 メガトンの黒ぶちのメガネが大きく膨らんで山田に突進してきそうだ。

「そこだ! メガトン。頑張れ、メガトン」

 あと二十メートル。三人が並んだと思われた。

 が、一瞬だった。

 メガトンは止まらない。止められない。内股走りでピッチをさらに上げる。

 疾走するメガトンが笑顔を漏らした。

『有理数と無理数との差は無理数』との証明が付いたと思ったのだ。

 メガトンのゴールと同時に、

「やった! やった!」

 と、数学科の面々から大歓声が沸き上がった。悲願の初優勝の瞬間だ。

 だがメガトンは興奮する数学科の面々を置き去りにして多摩川を背に土手を勢いよく下った。深刻な顔で図書館に駆け込んだ。

 ついさっき閃いたアイデアをじっくり確かめたいのだ。

 しかし誰もが、メガトンはトイレに突進したのだと思った。

 山田と浜口はメガトンが現れるのを待ち続けた。

 ぴょんぴょん飛び跳ね続けた山田は、土手にへたり込んでいる。

 予想外の展開にキャプテンは呆然としている。

 そして、つぶやいた。

「あのチビ、なんなのだ?」

 浜口はキャプテンにトンチンカンな答えをした。

「メガトンだ!」

 一方、山田の脳裏には、お高祖頭巾のはげたメガトンの表情が焼き付いた。しかし、山田は、焼き付いた表情がメガトンの顔だと思い出せなくなる。

 お高祖頭巾をかぶらないメガトンなんて、山田には考えられないのだ。


[注7] ベン図形。

 円や長方形の内部を集合に属する点、外部を集合に属さない点のように、集合を視覚的に表わした図。

[注8] 有理数の稠密性。

 どんな実数a<bに対しても、a<x<bとなる有理数xが必ず存在する。

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