第18話 学科対抗駅伝大会前日

 一月の三連休初日は、鵜の木学園恒例の学科対抗駅伝大会が行われる。

 ちょうどインフルエンザが、はやり始める時期だ。

 昨日熱を出した上級生二人に代わり、彩はこの駅伝大会のアンカーに抜擢された。もっとも、どの学科もアンカーは女子学生の役目だ。

 それで、補欠の補欠だった彩に、突然出番が回ってきた。

 名前を貸しただけのつもりの彩には予想外の事態だ。

 その彩から浜口に連絡があった。

「三十九度の熱が出たの。今日の練習は無理。明日の本番も、とても走られそうにないわ。昨日は出られると言ったのに、本当にごめんなさいね」

 つい今し方のことだ。

 これから練習のある浜口は、あわてて山田を携帯電話で呼び出した。

「俺、浜口。ヤマちゃんに、ちょっと頼みがある。聞いてくれるかい?」

「なんだい?」

「明日の駅伝大会でメンバーが急に足りなくなったのだ」

「俺、走るのは嫌だよ。スポーツは、みんな苦手だ。そんなことシンちゃん知っているだろう」

「知っているさ」

 浜口の返事を聞いて、山田が訝しげに尋ねる。

「じゃあ、なんだい?」

「男子メンバーは足りている。だから、『ヤマちゃんに、走れ』って言っているわけじゃない。アンカー候補だった女子のメンバー三人がみんな風邪でダウンして困っているのだ」

 山田は感情を露骨には出さない性格だ。でも、思った。

(そんなこと、僕の知ったことか)

 こんな状況でも山田は丁寧に答えることが出来る。

「もう四時を過ぎているぜ。今から探そうなんて、とても無理だよ」

「ヤマちゃんも知っているように、いつもならメガトンが、まだ図書館でお勉強している時間だ。見付け出して、何とか頼んでくれないか」

「代わりのメンバーは、他にいないのかい?」

「補欠の補欠の彩までダウンで、どうにもならない。本当に困っているのだ。もっとも、彩は練習に出てきたことがないから、どのくらい走れるか怪しかったけれどね」

「何キロ走るか知らないけれど、『突然走れ』なんて無理だよ。メガトンが承知するとは、とても思えないな」

 彩をキャプテンに推薦したのは浜口だ。その彩が出られなくなった責任を浜口は感じている。必死に山田に頼み込む。

「丸子橋の川崎側のあたりから土手を走るコースだ。ガス橋を渡って鵜の木学園まで約五キロ。歩いてでもいいからって、頼み込んで欲しいのだ……」

 しかし、山田は素っ気なく答える。

「自分で頼んだらいいだろ」

「俺、これから練習なのだ。頼んでくれたら、お昼をごちそうするよ」

「メガトンが断っても、ごちそうしてくれるかい」

 浜口は、気楽そうな山田の返事に、むかっときた。しかし、一緒に練習してきた仲間のために堪える。

「分かった。約束する。頼んでくれ。恩に着る。……それに、メガトンを説得してくれたら、コーヒーもおごるよ」

 浜口には精一杯のお願いの仕方だ。

 でも、山田はお金持ちだ。他人に奢ってもらっても何も嬉しくない。しかし、浜口の必死さが伝わってきた。

 それに、浜口の頼みを断るうまい理由が見付からない。駄目でもともとの態度で浜口に返事をした。

「よし、分かった。これからメガトン探しだ。いざ、図書館」

 電話を切ると、山田はすぐに図書館に向かった。

 一方浜口は、大会前日の軽めの調整のため、多摩川を右手にチームメートとガス橋に向かって走り始めた。

 桜並木がつきるところで、数学科の練習集団はUターンだ。

 その頃、山田は図書館のいつもの席にメガトンを見付けていた。

 メガトンは視線をじっと机に落し考え込んでいる。背筋を伸ばし椅子に坐るメガトンは上半身が華奢なせいか、まるで中学生のようだ。

 静寂な図書館の雰囲気をこわさないように、山田はそっとメガトンの背後に近づいた。

 メガトンの肩越しに机に目をやると、

『有理数全体からなる集合の境界は、実数全体』

 と書いたノートが目に入った。

 今日の午前中の講義で、高橋教授がふと漏らした言葉だ。

 もしメガトンのノートを見なかったら、休み明けにはすっかり忘れていたはずの言葉だ。

 プロジェクタからスクリーンに投写された内容しか山田はノートしないのだ。

 考え込むメガトンの後ろ姿が山田には怖いようだった。先生のふと漏らした言葉に、こんなに真剣に考え込む姿が山田には新鮮な驚きだった。

 山田はメガトンに話し掛けるのをためらった。思考を邪魔してはいけないと思ったのだ。

 じりじりと時が過ぎていった。

「分からないことがあったら、すぐに先生に質問しなさい。自分で考え込むのは労力の無駄です」

 と教わってきた山田には、メガトンが異星人のように見えた。そのせいか気安く話し掛けることが出来なかった。

 話すきっかけをやっと思い付いた山田は、腰をかがめ背後からメガトンの耳元で囁いた。

「悩める乙女だね、メガトンは……。境界の定義を思い出した。『平面内の集合Aの境界上の点とは、その点を中心とした、どんなに小さい半径の円も、その内部に、集合Aに属する点と、属さない点との両方を含む』だね。

三次元空間の境界上の点の定義は、円の代わりに球を考えればいいのだね」

「いきなり、どうしたの? びっくりしたわ。ねええ、数直線上の境界はどんな定義だったかしら?」

「一次元空間の境界、つまり数直線上の境界の定義は『集合Aの境界上の点とは、その点を中心とした、どんなに小さな幅の区間も、その中に、集合Aに属する点と、属さない点との両方を含む』だ」

 メガトンは素朴だ。何事も単純なことから始める。

「どうしてそれが境界の定義なの?」

 山田は早見えだ。教わったことは何の疑問も持たずに受け入れる。

 それでもメガトンの質問に何とか答える。

「境界上の点は、すぐそばに、内部の点も、外部の点も必ずなきゃいけないとういうことだ。違うかい?」

 メガトンは山田の言葉が理解出来ないのか、一瞬顔を曇らす。だが、すぐに立ち直る。

「何か分かりやすい例は無いかしら」

「例えば、集合Aは0より大きく1より小さい数の全体としよう。この場合、境界はどんな点かな?」

 メガトンは直感で答える。

「0と1だわ」

 山田は、極めて論理的に説明する。

「そうだね。1を含むどんなに幅のせまい区間も、1より小さい数と1以上の数である1を含むね。つまり、集合Aに属する点である0より大きく1より小さい数と、属さない点である1の両方を含むね。だから、1は境界だ」

「そうね。でも、どうして境界をそんなふうに定義するなんて思い付いたのかしら?」

 山田はメガトンと違って、そんなことを疑問にしたりしない。素直に定義を受け入れるだけだ。

 沈黙した山田にメガトンは話題を変える。

「ところで、わたしに、何か用事?」

「明日の学科対抗駅伝大会で、女性メンバーが足りないそうだ。補欠の補欠の彩まで、熱を出したのだって。それで、シンちゃんから、『走ってもらえるように、メガトンを説得してくれ』と頼まれたのだ」

 メガトンは、山田にいつも子供扱いにされている。

 それで、

「女性メンバーが足りないので」

 と言われて、気分を良くした。でも一言、突っ張った。

「わたしのような子供でも、メンバーと認められるの?」

 頭の回転の速い山田が、

「大丈夫。僕が責任を持ってメガトンが女性と認知させる」

 と、即座に答えた。

「でも、どうやって? わたし、裸には、ならないわよ。わたし、こう見えてもナイスバディなの。わたしの裸、男の人が見たらみんな卒倒するわ」

 いつもなら、ここで混ぜっ返す山田だ。

「そんなことさせないよ。だって、みんな、メガトンのナイスバディに、吐きけを催しても困るもの。それに、それじゃあ、女の子と認知されても、女性とは認知されない恐れがある」

 だが、今日は出場をお願いする立場だ。そう言いたいのをぐっと抑える。

 それでも、いつものようにメガトンをからかう気分は抜けきれない。

「自称ナイスバディより学生証の方がいい。学生証があれば充分」

「あら、それでいいの?」

「メガトンに風邪は引かせられないよ」

「ヤマちゃん、今日は、いくらか優しいのね。もっとも、みんなが卒倒するバディになるには、わたし、あと五年は掛かりそうだわ」

 それを聞いて笑いながら山田がメガトンに頼み込む。

「せめて、三年にして欲しいな」

「なぜ?」

「卒業してからじゃ、メガトンのナイスバディが見られないじゃないか」

「馬鹿!」

 山田は、機嫌のよさそうなメガトンの静かな怒鳴り声には応じず一呼吸置いて尋ねた。

「交渉成立。……で、いいのかな」

「いいわ」

「大会は十時スタートだけれど、メガトンは六番目でアンカーだ。早くても出番は十一時半だそうだ」

「分かったわ」

 あっさり了解したメガトンに、山田は拍子抜けした。

「何キロ走るの?」

 と質問されたら、レース内容を覚えていない山田には、答えようがなかった。

 それで、そう質問されたら困ってしまうと心配していたのだ。

 駅伝大会に興味がなかった山田だが、

(メガトンが走る時ぐらいは応援しないとまずいな)

 と、翌日の予定を急遽変更した。

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