第17話 難題
図書館に入ったところでメガトンが立ちすくんでいる。
メガトンは、いつものようにいつもの席に着こうとしたのだ。
着こうとした瞬間、深紅のカーディガンを羽織った彩が熱心に専門書と取り組んでいるのが目に入った。
メガトンには、まったく予期せぬ出来事だ。
机の上には、本が山積みされている。洋書も混じっている。それらを彩は次々に目を通している。
メガトンは、彩に気付かれないように立ち止まり、ため息をついた。
(彩のあのスピードは、何? まるで漫画を読むようなスピードでページをめくっているわ!
わたしは、同じページを一週間も二週間も掛けて読むと言うのに……)
メガトンは彩の思考の邪魔をしないように気遣いながら静かにいつもの席に着く。
そして、いつものように、つぶやいた。
(わたしも彩のような頭のよい美人に生まれたかったな。でも、ママさんの方が、もっとずっと美人!)
彩は、高橋教授が課した二題の証明問題と類似の問題あるいは定理を一生懸命探しているのだ。
似た問題を見つけると、黄色の付箋紙をつけて先に進む。
彩の目がぎらぎら輝いている。
(必ず同じ問題が見付かるはずだわ。でも、解答の付いてない本は探しても無駄ね。そうだわ、演習問題集もチェックする必要があるわ)
彩は、やっと同じ問題を載せた専門書を探し当てた。
しかし、解答を読んでも意味が分からない。もっとも問題の意味も分からない。
さらに丁寧な解答を求めて別の本を探し始める。
結局、彩はこの日、英語の専門書二冊を含む五冊を図書館から借り出した。同時に五冊全部を生協に注文した。
彩の両親はお金持ちだ。専門書ぐらい何冊勝手に買っても誰も何も言わない。
翌日から早速、彩は五個の解答を読み比べ始めた。
まるで暗号を解読するような作業だ。
それでも何とか解答が理解出来た。
しかし、内容が少しずつ違う五個の解答が、なかなか一つにまとまらない。
美しい顔をゆがめながら彩は必死でレポートをまとめた。
そして、重要な情報を先輩から聞き込んだ。
(再試験の場合、高橋先生はレポートと同じ問題あるいは類似問題を出す傾向がある)
彩は書き終わった解答を丸暗記した。何度も解答を書く反復練習をした。
同一問題が試験に出たら、さらさらっと解答出来るはずだ。
一方メガトンは、彩を図書館で見かけた日、一題は解けていた。もっとも、そのために丸一日を潰していた。
しかし、もう一題がどうしても解けないで苦しんでいた。
この日から二週間、メガトンはひたすら考える。彩は、とっくに正解に達している。
浜口は問題を見た瞬間、『解くのは無理』と見切りを付けた。
諦めも要領もいいのが浜口の特徴だ。
いよいよレポートの期日まであと三日。
浜口は誰かが正解に達している頃合いだと思った。
「みんな、高橋先生のレポート出来たかい?
なかなかの難問だ。期日も迫っているし、みんなでグループディスカッションをしたらどうだろう? きっと、いい知恵が浮かぶよ。どうだい、これから」
彩の頭は回転が鋭い。瞬時に、そう発言する浜口の意図を察した。
(シンちゃんたら、私やヤマちゃんから解答を聞き出す魂胆だわ)
しかし、山田もメガトンも裏を読まない性格だ。
メガトンが、すぐに無邪気に反応した。
「シンちゃんにしては、いいアイデアだわ! 早速始めましょうよ。彩もヤマちゃんもいいでしょう」
「僕、まだ解けていないけれど、それで良ければ参加するよ」
彩は山田の発言を聞いて大満足だ。
(ヤマちゃんが出来ていないのだから、やっぱり難問なのだわ。今のところ、正解に達しているのは、きっと私だけだわ。私、苦労して正解を見付けたのだわ。何の努力もしないシンちゃんに教える義務はないわ。絶対に教えない!)
彩はさも残念そうに浜口の誘いを断った。
「私もまだ解けていないの。それに、今日は家に用事があるの。残念だけれど、私は参加出来ないわ。また今度、誘ってね」
「それじゃあ、明日はどうだい」
浜口は、しぶとく食い下がる。
彩は、やんわり拒絶する。
「明日は土曜日よ。学校はお休み。私もお休み。でも、お休み中に、もし解けたら、解答をメールで送るわ。間違いがないか、チェックしてくれると助かるわ。お願いするわ」
絶対に正解を得たと信じている彩は、人の助けなんて必要としていない。余裕しゃくしゃくだ。でも、しおらしく振る舞う。
浜口は、『山田と彩の結果が一致すれば、必ず正解だ』と信じていた。それだけに、彩の協力が得られないのは残念だった。
しかし、贅沢は言っていられない。こうなれば、山田だけが頼りだ。
「それじゃあ、ヤマちゃん、これから図書館に行って一緒に頑張ろうよ」
メガトンが、ひがんだような抗議の声をあげる。
「わたしは、みそっかすなのね。シンちゃんは、彩とヤマちゃんさえいればいいのね? わたしは、邪魔なのね、きっと」
メガトンの恨めしそうな目を見ると、さすがに浜口も、
「うん、そうだよ」
とは言えない。
彩は、『図星を突かれてシンちゃんが困っている』と、おかしかった。
やっと笑いを堪え、その場の雰囲気を和らげるように別れの挨拶をした。
「私、急いでいるから、これで失礼するわ。みんなで頑張ってね。解けたら私にも教えてね。参考にするわ」
浜口は、遠ざかっていく彩の後ろ姿に呆然としている。正面や横から見る印象とまったく違うのだ。
ほっそりした肢体が初々しい。
「どうしたの、シンちゃん。そんなに見とれて」
あわてて浜口はメガトンに反論する。
「俺、見とれてなんていないよ」
「わたしを子供だと思って馬鹿にしているでしょ。わたしだって、それぐらい分かるのよ。でも、彩はとびきりの美人ですものね。見とれるのも無理はないわ」
メガトンは両ほおの黒髪をしきりに内側に寄せながら浜口を睨んだ。
それを見て山田は思わず笑みを漏らした。
(子リスがクルミをかじる姿は、こんな感じかな)
山田の笑みをメガトンは見逃さない。
「ヤマちゃん! 何がおかしいの? わたしがみっともないのは、生まれつきなの。笑うなんてひどいわ」
山田は直ちに反撃する。
「メガトンは、僕のことを礼儀知らずの恥さらしだと思っているのだ。あんまりだ」
「そんなこと思っていないわ! どうして、そんな言いがかりをつけるの」
「僕は、『みっともないな人に向かって、おまえはみっともない』なんて言う無神経な人間ではないつもりだ」
一瞬の沈黙があった。
「ヤマちゃん、言い逃れが上手ね。みっともないなのは、本人が認めていることだわ。でも、他の人から言われると、やっぱり気になるの。怒ったりして、ごめんないね」
レポートが気になっている浜口が、二人を急かした。
「図書館に急ごうよ。期日が迫っているぜ」
冷静さを取り戻したメガトンが反対する。
「わたし、図書館はまずいと思うの。だって、みんな静かにしているわ。お話し合いなんてする雰囲気ではないわ。どこか他に、いい所がないかしら?」
「小さいくせして、メガトンの声は馬鹿でかいものなあ。声の大きさじゃあ、俺だって負けるもの。それじゃあ、学食(学生食堂)は、どうだい?」
浜口の提案に山田が賛成する。
「シンちゃん。名案だ。そうしよう!」
これを聞いた浜口は正解が入手出来そうだと、ほっとする。
人気のない学食でメガトンがしきりにぼやいている。
それを山田が熱心に聞いている。
浜口は早く正解が欲しいと、ただひたすらに正解を待っている。
メガトンのおしゃべりは、まったく耳に入らない。
メガトンは、そばの二人を無視して、しゃべりまくる。
「もしこんなことが成り立つなら、こんな結果が出るのよね。でも、『成り立つかどうか』がはっきりしないの」
それを聞いて、山田は『ほのかな明かりがちらちらし始めた』と感じる。
しかも、そのほのかな明かりのいくつかは、つながりそうにさえ見える。
山田の真剣な表情に、浜口は何か得体の知れないものを感じる。
(二人の間に何かが起きている。何かが、はじけそうだ。何だ、これは?)
メガトンのとりとめのないおしゃべりは、やっと終わりに近づいた。
「結局、わたし、何にも分かっていないの。残念ね。でも、そのうち、何とかなるわ、きっと。……今日は、ありがとう、ヤマちゃん、シンちゃん。悩んでいることを聞いてもらって、何となくすっきりしたわ。元気が出てきたの。また考えてみるわ」
可能性のある事象を掘り出し、それを一つずつ丹念につぶしていくメガトンの姿勢に山田は驚いている。そして、自分は今まで何をしてきたのだと情けなくなる。
メガトンのおしゃべりが、山田を元気づけた。
「僕も、もう少し考えてみよう。何となく解けそうな気になってきた」
「いいわね、ヤマちゃん。わたしは、全然駄目! わたし、頭が悪いの。でも、数学はおもしろいの」
この日から二日後の日曜日、山田から浜口に電子メールが届いた。
(メガトンとのディスカッションのおかげで、問題が解けた。解答を送る。僕の解答をコピーしたと疑われないように、何か手を加えて、レポートを提出してくれ)
浜口は、喜び勇んでレポートを書き出そうとした。しかし、山田が送付してくれた内容が、まったく理解出来なかった。
それに、どこを変えたら内容が同じで見た目が違うように出来るのかが皆目分からないのだ。
浜口は、フォントと文字サイズを変え、また改行箇所を変え、レポートを作成した。浜口なりの精一杯の努力だ。
そして、にんまりした。
(これで、何とか単位が取れそうだ。レポートのおかげで、試験の成績が少々悪くても何とかなるぞ!)
さらに一週間後、メガトンが嬉しそうに、彩、山田、浜口に語り掛けた。
「ねえねえ、やっと分かったの」
彩が尋ねる。
「何が分かったの?」
「高橋先生のレポートの問題、やっと解けたの!」
彩はあきれ返る。
「いつ解けたの?」
「ついさっき」
「提出期限から、もう一週間も経っているわ」
「でも、解けたの」
メガトンは本当に嬉しそうだ。
メガトンの笑顔を見て、彩はため息をついている。言葉には出さないがメガトンに呆れているのだ。
(レポートの期限に間に合わなかったのでしょう。今さら、何をしているの? お馬鹿さん! 馬鹿、馬鹿!
そんなの何の役にも立たないじゃない。そんな暇があったら、つぎの試験に備えるべきだわ。メガトンは要領が悪すぎるわ!)
山田はすまなそうに、メガトンを眺めている。
(僕、メガトンからヒントをもらって解答したのだ。だのに、メガトンが解答出来ていないなんて想像していなかったのだ。
だから、メールは、彩とシンちゃんだけに送ったのだ。
ごめんね、メガトン)
しかし、メガトンは今にもステップを踏んで踊り出しそうだ。問題が解けた歓喜にあふれている。
課題への取り組み方が、彩とメガトンとでは対照的だ。目的地を目指すアプローチがまったく違うのだ。
彩は他人の持っていない詳細な情報を見付けるのがうまい。それをもとに目的地にまっしぐらに向かう。道筋をきちんと理解し記憶する。余計な道筋はたどらない。
一方メガトンは、思いつきであてもなく歩き回る。一応目的地にたどり着こうとはする。
しかし、袋小路に入り込む。そして、別の道を歩いてみる。また、袋小路に入り込む。
それに、折角、目的地のそばに行ったとしても気が付かない。たとえ目的地にたどり着いても、出発地をすっかり忘れている。
だから、出発地から目的地までの道筋が見えない。
これでは、解答が書けるはずがない。
でも、街の全体像が頭や体に刻まれる。
実際のところ、歩き回るのがメガトンは楽しいのだ。知らない道を見付けると、すぐにそこを歩きたくなるのだ。
好奇心が試験に間に合うように勉強する意欲を蹴散らしてしまう。
それに、メガトンは記憶力が悪い。おかしな道を何度も何度も通って、やっと、そうと気付くのだ。
その点、彩は無駄なことはしない。限られた時間の中で、上手にけりを付ける。
メガトンの満面の笑みを眺める山田は、二人のそんな違いに、うすうす気付いている。
「メガトン!」
「なーに、ヤマちゃん」
「期限に間に合わせるのも大事だよ。時間の使い方を工夫しなきゃ」
山田の意見に彩が同調する。
「ヤマちゃんの言う通りだわ。あんまり早く勉強しても、忘れてしまうものよ。記憶のピークが、試験当日になるように勉強すること。これが大事よ」
「その通りだわ。わたしも、そう思うの。でも、間に合わないものは間に合わない。忘れるものは忘れる。仕方がないわ。わたし、彩やヤマちゃんみたいに頭がよくないもの」
メガトンは自分のペースを崩さない。案外、頑固なのだ。
メガトンの学習法は、大学の講義のペースとは合わない。合わせる気もない。
山田は、ため息をついた。
(どうしたらメガトンは普通の学生になるのだろう? このままでは、確実に退学だ!)
浜口がひがんでいる。
「彩さんもヤマちゃんも、メガトンの心配ばっかりだ。俺だって、メガトンほどじゃないけれど、やばいのだぜ」
山田は笑いながら答える。
「シンちゃんは大丈夫。心配いらないよ」
浜口は、山田の意見に機嫌がよい。
「俺って、結構、信用あるのだなあ。びっくりしたよ。確かに、俺、ちゃんと勉強しさえすれば、試験なんてちょちょいのちょいさ。メガトンとは大違いだ」
メガトンがむくれている。
彩が笑いこけている。
山田が彩の気持ちを代弁する。
「そう! シンちゃんは、メガトンとは大違いだ。シンちゃんの要領の良さは天下一品だ。シンちゃんは、卒業、間違いなし! 信用しているよ」
そう言う山田に、浜口は悪びれずに答える。
「最小の労力で、最大の成果を出すこと。これが大事なのだ。俺、これには絶対の自信がある!」
彩は浜口に異論を唱える。
「シンちゃん、おかしいわ」
「どこが?」
「本当は、『他人の力を最大限に利用して、最低ラインを確保する』でしょ」
浜口は美人の意見には弱い。
殊勝に彩の意見を認める。
「一部の人に、そのような意見があるらしい。謹んで反省します。でも、今後もよろしくお願いします」
メガトンが、浜口に、まだむくれている。
「わたし、シンちゃんの面倒なんか見ないわよ」
「大丈夫、俺には、彩さんやヤマちゃんが付いている。メガトンにお世話になることは、一生ないさ」
彩も山田も、この時は浜口が正しいと思った。
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