第16話 山茶花

 まだ十二月には半月ほどある。

 鵜の木学園の裏手の道は、多摩川の土手沿いに南北に延びている。

 そして、土手下の桜と校舎側の桜とがアーチを築いている。春になれば、満開の桜が上空を覆う。でも今はこげ茶色の枝の間に青空が丸見えだ。

 その道を進むメガトンの頭は飽和状態だ。訳の分からないものが渦巻いている。

 迷路に踏み込んだまま出口がいっこうに見えない。と言うよりは、出口があるかどうかも分からない。

 もっともメガトンは通った記憶のない道に出っくわすと、怪しげな道だと思ってもつい迷い込んでしまう性格だ。

 メガトンは、ため息をつく。

(わたしは、どうしてこんなに数学が大好きになったのだろう?

 だのになぜ数学はわたしを嫌うのだろう?

 数学は、わたしを頑として寄せ付けない。数学は、ちっともわたしの気持ちを分かってくれない。意地悪だわ。でも、しゃくだけど、どことなく魅力的なのよね)

 桜の太い幹が向き出しだ。幹の根元には色あせた落ち葉が散乱している。

 見上げると、細くなった枝の先に、えんじ色の葉やオレンジ色の葉が寒々としている。

 メガトンは珍しく感傷的になっている。

(勢いのない緑の葉は色づくこともなく、このまま散るのだろうか。わたしも、もしかしたらそうなのかもね。

 ……でも、まあ、いいか。

 どうせわたしは誰にも期待されていないのだ。成績不振のくせに数学好きな役立たずと思われたままだって、どうってことないわ。

 数学は難しくてよく分からない。だけど、面白いのよね。

 だとしたら突っ走るのみ。

 ゴールにたどり着くかどうかを気にしていたら何も進まない!)

 このところ、メガトンは夢見が悪い。決まって同じ夢だ。

(入学試験まであと数日だ。だのに願書を出したかどうかさえ記憶がはっきりしない。はっきりしているのは試験科目の数Ⅲや物理の教科書をまだ買っていないことだ。

 今から教科書を手に入れたとしても、試験にはとても間に合わない。一ページもまだ読んでいないのだもの。

 それに、わたしには理解出来ないだろう。何しろ高校では数Ⅲや物理の授業を聞いたことがない。

 こんなことなら、どんな参考書が分かりやすいかぐらい友達に聞いておけばよかった。

 わたしは今まで何をしてきたのだ。

 そうだ、高橋先生と本多先生の講義の勉強ばかりしていたのだ。好きなことしかやらなかったのだ。

 でも、おかしい。

 高橋先生も本多先生も鵜の木学園の先生のはずだ。すると、わたしは大学生だ。

 思い出した。わたしはAO入試のおかげで何とか合格したのだ。

 それなのに、なぜ、また入学試験を受けなければならないの?

 成績不良で退学処分になったのだ。きっと、そうだ。覚えていないけれど、きっとそうなのだ。

 どうしよう。入学試験はもうすぐだ。

 願書提出の締め切り日は、いつだったかしら?

 いったいどこに行ったら願書は手に入るの?

 早くしないと、もう間に合わない!)

 ここで、メガトンは助けを求める自分の声で眼が覚める。

「ママさん! ママさん! ママさんは、どこに行ったの?」

 眼が覚めると首から胸にびっしょり汗をかいている。いつも、まだ夜中だ。

 昨夜も見た悪い夢を思い出しながら、メガトンは涙ぐんでいる。一旦退学したら鵜木学園には永遠に帰って来られない気がするのだ。

(慣れ親しんだ図書館にも入れない。女子トイレの愉快な落書きも二度と見られない。そうしたら、どうしよう!)

 そんな思いのためかメガトンの歩むテンポがいつもより遅い。

 そのおかげで鮮やかな紅色がメガトンの眼に入る。紅色のサザンカの花が光沢のある緑に幾つも浮いている。サザンカの生け垣がキャンパスと土手の境界に、ずっと続いている。

 サザンカのおかげでメガトンの気分が明るく変わる。土手に登ると振り返ってサザンカを見下ろす。

(きれいな椿だわ。まるで彩みたい……。

 わたしも彩やママみたいに頭のいい美人に生まれたかったな。

 でも、しょうがないわ。わたしは、わたしなのよね。

 こんなわたしだって、どこかに取り柄があるかも知れない。今は何か分からない。

 でも、いつか見付かるはずだわ。見場は悪いけれど、わたしも彩と同じ人間なのですもの)

 メガトンは元気を取り戻している。その証拠に黒髪で出来たお高祖ずきんを撫でている。

 まずい顔の輪郭を少しでも隠そうとの、いつもの癖だ。

 ひどく落ち込んでいるときは輪郭にさえ気が回らない。

 メガトンがサザンカに喧嘩を売っている。

「あんた、馬鹿じゃない! 長崎では椿は春に咲くのよ。今は晩秋。東京の椿は季節の区別も付かない間抜けさんね!」

 メガトンは、

(自分より間抜けがいる)

 と安心したようだ。

 いつものような底抜けに明るい笑顔を取り戻している。

 メガトンに毒づかれたサザンカの機嫌も悪くなさそうだ。緑の中で赤く輝いている。

 メガトンが土手下のサザンカと機嫌良くにらみ合っているちょうどそのとき、どら声が背後から届いた。

「メガトン、何をしているのだい? 今日は図書館お休みかい」

 メガトンが振り返ると、青空の手前に右から左に流れる多摩川が見えた。

 視線を多摩川から河川敷のグラウンド、そして砂利混じりの土手下の茶褐色の遊歩道に移した。

「シンちゃんこそ、運動靴なんか履いて何をしているの? お散歩?」

 浜口の後ろで彩も山田もメガトンを見上げている。

 四人とも予想外のところで顔を合わせたのが嬉しいのだ。四人に笑みがこぼれる。

 そして、彩のトレーニングウェア姿にメガトンは目を見張る。

 ワインレッドのストライプが、肩から二の腕を覆っている。ワインレッドは、白地のトレーニングウェアの彩に映えている。ウェストのくびれをきれいに強調している。ウェストから足首に線状に伸びたワインレッドは彩の美脚を彷彿させる。

 彩は自分をより美しく見せる術を知っているのだ。

 浜口は彩の虜だ。さもうれしそうに、土手下からメガトンを見上げながら答える。彩と一緒にこれから練習が出来ると想像しただけで舞い上がっているのだ。

「冬休み明けに学科対抗の駅伝大会があるのだ。アンカーは女子学生に限るのだ。彩さんがそのアンカーの候補だぜ。……俺と彩さんは、コースの下見の帰りだ」

 メガトンは不思議そうに浜口に尋ねる。

「彩だけトレーニングウェアなの?」

「彩さんは気合いが入っているのだ。俺もトレーニングウェアを着て来ればよかった。そうしたら、彩さんとペアれたのに……」

 浜口は、いかにも残念そうだ。

 メガトンは山田のスポーツ音痴を知っている。意外そうに尋ねる。

「ヤマちゃんも走るの?」

「俺、シンちゃんと夕ご飯の約束があるのだ。今、会ったばかりだ」

 西日を背にした彩がメガトンにはまぶしい。

(彩は美人なだけではないわ。

 このボン、キュ、ボン! 男の人には、たまらないのでしょうね。

 ……それに比べ、わたしは背が低いうえに、ノン、キュ、ボン。

 そう言えば、子供の頃、『下半身デブ』って、よくからかわれたわ。

 でも、わたしは下半身デブではないわ。

 お腹から上が細すぎるから、そう見えるだけだわ。

 それに、『ボン、キュ、ボン』と『ノン、キュ、ボン』は、たったの一字違い。きっと、わたしは、素敵な彩とどこか似ているのだわ。

 そう考えると、わたしも、たいしたものだわ。

 わたしだって成長する可能性を秘めているはずよね。もう少ししたら彩みたいになれるかも)

 にこにこし始めたメガトンの気持ちが浜口には分からない。

 もっとからかってやろうと追い打ちを掛ける。

「メガトン。おうちに早く帰らなくても、いいのかい?」

「どうして?」

「最近、多摩川の土手で幼女誘拐事件があったらしいよ」

「嘘だわ! ねえ、ヤマちゃん」

 山田は物事を厳密に考える性格だ。その性格が言葉の端々に出る。

「あることの証明は一つを例示すればいい。でも、ないことを証明するのは困難だ。存在をただ単に知らないだけかも知れない。それでは、存在しないことの証明にはならない。……それに、メガトンは断じて幼女ではない。幼女誘拐に巻き込まれる恐れはない」

 山田の見解にメガトンが納得顔で、にこにこっとする。

 浜口は山田の意見に素直に従う。山田が『幼女』を強調した意図を嗅ぎ取ったのだ。

「少女誘拐の勘違いかも。それだとするとメガトンも危ない」

 メガトンも浜口に負けてはいない。

「シンちゃん、それも犯罪だって自覚しているの? 早めに自首した方がいいわよ」

 山田がいつものように二人の話が険悪にならないように気を遣う。

「ところでメガトン、どんなことを考えて散歩していたのだい? キャンパスを見ていたようだけれど」

「わたし、本当は今、高校の物理や化学、それに英語、もちろん数学も勉強しなきゃいけないのではないかと思うの。だって退学が決まってから受験勉強をしても、とても間に合わないですものね。でも、なかなか、やる気にならないの」

 浜口は無神経なほど陽気だ。

「そんなこと、単位が取れないって決まってから考えればいいさ。それに退学勧告なんて無視すればお仕舞いさ。ドンマイ、ドンマイ」

 メガトンは、『入学試験』が気になる理由を明らかにする。

「でも、わたしが退学勧告に従わなかったら、先生達はこれから受験する高校生に二度と救済策を採用しないわ。それでは、これから受験する人に迷惑を掛けるわ。わたし、そんなの嫌だわ」

「俺だったら、そんな心配は完璧に無視! メガトンは気を遣い過ぎだよ。会ったこともない人の心配なんていらないよ!」

 サザンカに折角元気づけられたのに、メガトンはまた落ち込んでいる。入学試験が気になって寝不足なのが祟っているのかも知れない。

 彩が、いつものように白いトレーニングシューズを履いたメガトンを見上げながら男子学生二人を促す。

「シンちゃん、ヤマちゃん、土手の上に行きましょう。こんなところで大声を出していても仕方ないわ」

 彩は優雅に土手の階段を登る。美人の評判を傷付けないように回りに気を使っているのだ。

「メガトン、退学なんか心配しないで大丈夫だわ。わたしとヤマちゃんとで、勉強の応援をするわ。分からないことがあったら、いつでも訊いてちょうだい」

 これを聞いて浜口がむくれる。

「俺だって応援するさ。忘れないでくれ! 俺は美醜にかかわらず誰にでも優しいのだ」

 癇に障ることを言われたメガトンが口をとがらす。

 浜口は怒ったメガトンの表情が見たいのだ。もっとも怒り過ぎたメガトンは怖いのだが……。

 十分美しいと自覚している彩は、やんわり浜口をやり込める。

「シンちゃんは自分の心配をした方がいいわ。メガトンは私達二人に任せておいてちょうだい。ヤマちゃん、いいでしょう。シンちゃんはメガトンの役にはとても立たないわ」

 メガトンの性格や特徴を見抜いている点では、山田は彩や浜口よりはるかに上だ。実際にメガトンの再試験の面倒をみたのは彩ではない。山田なのだ。

「メガトンが苦手なのは公式の暗記だ。でも、メガトンは自力で頑張るさ! シンちゃんとは違うのだ」

 浜口は何を言われようとも彩と山田には腹を立てない。

 この二人に頼らないと卒業が困難なのをよく知っているのだ。

 波立つメガトンの心が埒も無いおしゃべりに静まっていく。

 土手をサイクリングする自転車が、談笑する四人の横を次々と通り過ぎていく。

 その自転車にランプが点灯し始めている。

 腹を突き出しぎくしゃくジョギングするおじさんが、彩に視線を送りながらスピードを落し走り去っていく。止まりたいのをやっと我慢したようだ。

 彩もメガトンも、おじさんの微妙な視線に気が付いている。

 美人は目立つのだ。

 多摩川の向こうで夕日がオレンジ色に輝きながらゆっくり落ちていく。

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