第15話 無限の世界と無限次元
メガトンの大きな瞳が、黒ぶちの眼鏡の奥で、いつもより柔らかい光を放っている。何かを悩んでいそうなメガトンに彩が尋ねた。
「どうしたの、メガトン。眉間にしわを寄せたりして……。おなかが痛いの? それとも、失恋したの?」
「わたし、まだ失恋が経験出来るところまで行ったことがないの……。悔しいわ。その点いいわね、彩は。何度も経験しているのでしょう?」
「私もないわ。私、振ったことはあっても、振られたことは一度もないの。本当よ」
彩は自信に満ちている。メガトンから見ても彩は輝いている。
「わたし、無限の世界と無限次元との世界の違いが分からないの。……もしかすると同じことなのかしら? 彩は、こんなことはすいすい分かるの?」
「無限次元なんて習っていないわ。そんなこと、誰から聞いたの? 本当に、あるの?」
「本多先生が、『ある』って言っていたわ」
「それなら、きっとあるのね。でも、分からなくても何も困らないわ。悩むだけ損だと思うわ」
(試験には習ったことしか出題されない)
と、彩は確信しているのだ。
だから、彩は習っていないことに興味を示さない。
女性と女の子のそんな会話をどら声が遮った。
「メガトン! 楽しそうだけれど、何を話しているのだい?」
浜口はいつも、まずはメガトンに声を掛ける。最初に彩に声を掛けるのは、まだ敷居が高いのだ。
浜口と一緒の山田は、いつものように会話に加わる絶好のタイミングを図っている。
メガトンは周りの思惑に無頓着だ。すぐに速射砲のようにしゃべり始めた。
「わたし、無限次元のイメージが湧かないの。始め、無限の世界は必ず無限次元と思ったの。でも、これ、きっと間違いよね。だって、平面は限りなく広がっているから無限の世界よね。でも、縦と横の二次元だわ。そうよね、ヤマちゃん、シンちゃん」
山田や浜口の返事を待たずメガトンのおしゃべりは続く。
「それに、無限の世界って、いつも次元が定義出来るのかしら? 例えば、さあ。0以上1以下の数全体の長さは1だけれど、無限集合よね」
メガトンの断定的な話しぶりに、浜口が疑問をはさむ。
「長さが1の世界が無限の世界なんてありえない。メガトン、おかしいよ」
「わたし、間違っていないわ。だって、0以上1以下の数の中には、1、½、⅓、¼、……、1/n、……が入っているわ。みんな0以上1以下の数よ。だから、0以上1以下の数の全体は無限の世界だわ」
浜口は論破されて反論出来ない。仕方なしに悔しそうにメガトンの意見を認める。
「それは、そうだけれど。……俺のちょっとした勘違いだ」
メガトンは浜口に話しても意味が通じないことを感じ取る。
それで山田に視線を送る。
「でも、0以上1以下の数の全体には、次元は定義出来ないと思うの。そうよねヤマちゃん」
「そうだと思うよ、僕。……メガトンの言う通りだ」
山田の賛成意見を聞いてメガトンの大きな目がうれしそうだ。大きなまん丸の顔が、さらに膨れたようだ。
メガトンは再び浜口に向き直る。
「シンちゃんは、どう思う? やはり定義出来ないと思う?」
浜口はメガトンの話が理解出来ない。しかし、それを正直に吐露するのは恥ずかしかった。
それで無難な回答をした。
「俺、ヤマちゃんの意見に賛成だ」
「シンちゃんも賛成してくれるのね。よかった」
「俺だって、そのぐらい分かるさ。確かに、長さは1だけれど、0より大きく1より小さい数の全体は無限集合だ。それに次元は定義出来ないみたいだ」
「だけど、わたし、どうして次元が定義出来ないのか理由がよく分からないの。……シンちゃんは分かるの?」
「俺に聞くなよ。……おい、ヤマちゃんの出番だ。俺の代わりに先に答えてくれ」
浜口は自分が数学に向いていないのを自覚しているのだ。
メガトンの質問を今度は躊躇なく山田に振った。
もっとも、『ヤマちゃんも答えられないはずだ』と、高をくくっている。
彩は山田の反応をうかがった。
メガトンの素朴な質問に、彩もとっさには回答が出来ないのだ。
彩は、成績でライバルの山田がどのように回答するのか興味津々だ。
山田が考え込んでいる。
誰も山田に話しかけない。静かに回答を待っている。
山田は考えがまとまったようだ。
メガトンの眼鏡越しの大きな瞳に視線を合わせ、ゆっくりと話し始める。
「僕ら、ベクトル空間[注6] には必ず次元が定義出来るって習ったよね」
メガトンがうなずく。山田は自信を持って語る。
「ベクトルとベクトルを足し算した結果はベクトル。ベクトルを実数倍した結果もベクトル。ベクトル空間の要素であるベクトルは、この二つを必ず満たしている。そう習っただろう?」
メガトンの黒い瞳が不規則にくるくる回る。下唇が突き上がる。
メガトンのいつもとは異なる表情に山田が気づいた。
「何か思い付いたのかい? メガトン」
いつものにこにこ顔でメガトンは山田に答える。
「やっぱり、そうなのね」
浜口がメガトンに尋ねる。
「何が『やっぱり、そうなの』だい?」
メガトンはうれしそうだ。
「ヤマちゃんのおかげで、何となくすっきりしたわ」
メガトンにそう言われても、浜口はすっきりしない。
「何がすっきりしたのだい?」
「0以上1以下の数全体はベクトル空間にならないから次元が定義出来ないのだわ」
浜口はメガトンに付いていけない。
「なぜベクトル空間にならないのだ?」
メガトンでも単純な計算は出来るのだ。すぐに答える。
「0以上1以下の数全体は、ベクトル空間にならないわ。だって、0.6も0.8も、0以上1以下の数だわ。でも足し算すると、1より大きくなる。だからベクトル空間にはならない」
山田が相槌を打つ。
「その通りだ」
でも浜口はメガトンの言うことがまだ理解出来ない。だが山田の意見を聞いて、メガトンは正しいのだろうと思う。それでメガトンへの質問を打ち切る。
メガトンは楽しそうに質問を再開する。
「でも無限次元は分からないわ。何なのかしら?」
「うーん! 僕には想像が付かない」
メガトンは山田や彩が天才だと信じている。
「彩は、分かる? 残念だけれど、わたしにはお手上げだわ」
彩は、「分からない」とは言わない。秀才と自認しているプライドが許さないのだ。
無難な意見を述べる。
「有限次元ではないベクトル空間。それが無限次元。ただ、それだけよ。私は、そう思うわ。違うかしら?」
メガトンは無邪気だ。疑問をさらに膨張させる。
「実数全体は無限集合で一次元。つまり、無限集合でも無限次元とは限らない。それじゃあ無限次元は必ず無限集合なのかしら? ねええ、彩、どう思う?」
彩はメガトンの質問を持て余して無視する。
メガトンは、それには無頓着にしゃべり続ける。
「わたし、ますます、こんがらかってきたわ。でもロマンチックだわ」
メガトンはうっとりした表情を浮かべる。
まるで夢見る乙女のような雰囲気だ。
しかし、彩はメガトンがどうでもよいことに頭を悩ましていると思う。それで率直に意見を述べる。
「私、無限次元のベクトル空間は無限集合と思うわ。でも、そんなこと試験には出ないわ。……それに、どこがロマンチックなの?」
彩は珍しく怒ったような口調だ。
山田は二人を取りなすように口を挟む。
「僕、無限次元はよく分からない。でも、無限次元も有限次元も、みんな無限集合のはずだ。ただし、零次元は別だけれどね」
いかにも自信ありげな山田に浜田はすぐ同調する。
「俺も、そう思う。ヤマちゃんの言っている通りだ。零次元以外は、みんな無限集合だ」
浜口が当てずっぽうで話していると、彩は、すぐに見抜く。皮肉を込めて問いただす。
「無限集合と有限集合とは、どこで区別するの?」
「それは、だなあ。……数えきれないくらい一杯あるのが無限集合」
知ったかぶりの浜口にお冠の彩は、さらに追及する。
「自然数(正の整数)全体は、『1、2、3、……』って数えられるわ。でも、無限集合だわ」
浜口はとっさの思いつきで、さっきの意見を訂正する。いかにも自信ありげに、大きな声を出す。
「数え終わることが出来れば有限集合。そうでなければ無限集合。これは数学の常識だ」
山田が浜口をかばうように習ったばかりの二つの集合の特徴を述べる。
「無限集合は、その一部分と一対一対応が付く。けれど、有限集合は、その一部分とは一対一対応は付かない。本多先生に、そう習ったはずだ。……なあ、彩」
思わず浜口は正直に声をあげる。
「そんな馬鹿な!」
浜口は山田の言うことが理解出来ない。珍しく考え込む。
(みかん5個からなる集合の一部分は、例えばみかんが4個だ。5個のみかんと4個のみかんの間に1対1対応が付かないのは、俺でも分かる。あまりにも当然だ。
……だから、無限集合の場合も、その一部分と1対1対応が付かないと考えるのが自然だ。どうして一部分と1対1対応が付いたりするのだ? おかしい!)
本多准教授の講義を浜口は理解出来ていない。聞いた覚えがないのだ。
しかし、彩は講義の内容をしっかり覚えている。躊躇無く浜口の間違いを指摘する。
「例えば、『自然数(正の整数)全体』と『正の偶数全体』は1対1対応がつくわ。習ったはずよ」
試験に出そうなことは、しっかり覚えているのが彩の特徴だ。
浜口は素朴に反論する。
「嘘だ! 『正の偶数全体』は、『自然数(正の整数)全体』の半分しかない」
彩が、すぐに自信まんまん解説する。
「自然数に、その2倍を対応させれば、1対1対応がつくわ」
浜口は怪訝そうな表情だ。彩はさらに解説する。
「自然数1に、偶数2が対応。自然数2に、偶数4が対応。自然数3に、偶数6が対応。これがずっと続くのだわ。無限集合だから、この関係が延々と続くのよね」
浜口は、まだ理解出来ない様子だ。
メガトンが『無限集合から無限次元』に話題を戻す。
「わたし、無限次元が分からないの」
彩は、質問を繰り返すメガトンのしつこさにあきれる。
浜口はメガトンのこだわりを自分に有利なように使おうとする。
浜口の要領の良さは抜群だ。
「俺たちだけで話しても、無限次元は分からないよ。本多先生に訊きに行くのが一番だ。そうしようよ」
彩は浜口の意図をすぐに見抜く。浜口にいたずらっぽい笑顔を漏らしながら軽口を叩く。
「本多先生のところに行けるのが、うれしいのでしょう。先生、美人で魅力的ですものね。スタイルも抜群だわ。地味な格好なのに清楚な大人の色香がプンプン」
正直な浜口は耳まで真っ赤だ。それでも何とかごまかそうとする。
「俺は純粋に無限次元が勉強したいのだ。残念だけれど、本多先生は俺たちのことを『ガキ』だとしか思っていないさ」
メガトンの目から輝きが消え悲しそうだ。それに、唇が怒っている。それを山田は即座に察知する。
メガトンは女性の美醜やスタイルの話題が大嫌いなのだ。
山田はメガトンを慰めるつもりだった。
「メガトンだって、後ろ姿、決まっているよ」
しかし、却ってメガトンの怒りに油を注いでしまう。
「わたしだって、前から見てもがっかりしないようになりたいわ。でも、しょうがないでしょ。わたしのブスは生まれつきですもの。わたし、どうすればいいと言うの!」
メガトンは両頬に掛かった黒髪を無意識に内側へ引っ張っている。まずいと思い込んでいる顔の輪郭を少しでも隠そうとする、いつもの癖だ。
山田も浜口も凍り付いている。メガトンの眉が、さらにつり上がるのが怖いのだ。つり上がったら最後、小さな口から咆哮がほとばしるのだ。
山田は本多准教授の言葉を思い出した。
「メガトン、怒るなよ」
「わたし、怒ってなんかいません!」
「本多先生、言っていたじゃないか」
「何て?」
「メガトンは奥手なのだ。だから、背が伸びて、ふっくらすれば、かわいくなるって」
「バッカ! どうせわたしは、今は二目と見られないブスです」
「そんなことはないさ。今だって、かわいいよ。これから一段と、かわいくなるってことだよ。なあ、彩、そう思うだろう」
山田は彩に助けを求めた。同時に、メガトンの眉がいくらかおとなしくなったことに安堵した。
彩は何をメガトンに話したらよいか考えがまとまらなかった。
彩が考えている間に、メガトンが山田に反応した。
「わたし、『かわいい』なんて言われたの、今度が生まれて始めてなの。もちろん、ヤマちゃんが気を使ってくれた結果なのは分かっているわ。高校生の時は、ひどかったの。『ぺチャパイ』なんて、何度も言われたわ。わたしだって、いくらかは膨れているのに失礼よね」
だれも同意もしないし反論もしない。
「女の子として魅力のないわたしは、数学と仲良くするしか仕方がないのかもね。でも、数学は、なかなかわたしと仲良くしてくれないの。つれないのよねえ。……さっきは怒ったりして御免なさい」
けなげに明るく振る舞うメガトンに三人は無言だ。
そんな気まずい雰囲気を鼓舞するように、メガトンが元気な声を出す。
「さあ、みんなで本多先生のところへ行きましょう。きっと何か面白い話が聞けるわ」
本多准教授研究室のドアに掛かる行き先表示板が、『在室中』を示していた。
メガトンは、ためらいなくドアをノックした。ほかの三人は、メガトンの後ろで様子を窺っている。
中から透き通ったはっきりした声が返ってきた。
「どうぞ。開いているわ」
講義で鍛えた声は、よく通るのだ。
「あら、メガトン。今日も、うれしそうね。何か、ご用事?」
メガトンは、にこにこしていた顔をさらにほころばせて答える。
「この間の無限次元が気になってしょうがないの。ある人、曰わく、『無限次元とは、有限ではない次元』……これ、きっと正しいのよね」
本多准教授は、あっさり答える。
「ええ、正しいわ」
「でも、それじゃあ、だまされたみたい。結局、何も分からないわ」
メガトンの膨れた顔は憎めない。大きな目が一段と見開き輝きを増すのだ。
本多准教授は、そんなメガトンをあやすような口調だ。
「そうね、具体的な例があった方が分かりやすいでしょうね」
メガトンの顔が、ぱっと明るくなる。お母さんがお菓子を取り出すのに気づいた幼児のようだ。
「お願い! わたしにも分かるような簡単な例にして」
わくわくするメガトンの顔が輝いている。
「あなた達、『関数もベクトルの一種』だと思っているかしら?」
本多准教授の問いに四人とも返事をしない。
彩、山田、浜口は、『平面や空間の座標のように、ベクトルは複数の数の組み合わせ』だと思い込んでいるのだ。
メガトンはそんな意識もなく、ただ分からないのだ。
浜口が衝撃からやっと立ち直って答えた。
「関数? ひょっとして、『一次関数は直線、二次関数は放物線』って習った関数のことですか」
彩が異議を唱える。今まで学んできたこととイメージが合わないのだ。
「その関数がベクトルだなんて、あり得ないわ」
浜口が彩に頷く。
だが考え込んでいた山田は、彩に同意しない。何やら悟った様子だ。
「さっき僕たち話し合ったじゃないか。ベクトルとベクトルを足し算した結果はベクトル。ベクトルを実数倍した結果もベクトル。ベクトル空間の要素であるベクトルは、この二つを必ず満たしているって……。だから関数はベクトルだ。本多先生は、きっとそう言っているのだ」
メガトンは分かった気になった。でも、山田に念を押す。
「関数と関数を足しても関数、関数の実数倍も関数。だから、関数全体はベクトル空間。……ヤマちゃん、そう言うことかしら?」
本多准教授は、嬉しそうに聞いている。
山田は自分の意見に賛成者が現れたのを素直に喜ぶ。
「そう、その通りだ」
彩は納得しない。
「でも関数がベクトルだとしたら、零ベクトルは、なーに?」
山田が答えに窮している。山田に賛成したメガトンは、しょんぼりしている。
本多准教授は意外な話の展開に手応えを感じる。
「中村さん、良いところを突いているわ。『零ベクトルが定義出来ないと、ベクトル空間にはならない』……その通りよ。でも、山田君も正解ね」
メガトンが大きな目を白黒させている。どちらも正しいと褒められたので、
(そんな馬鹿な!)
と、びっくりしたのだ。
メガトンは喜怒哀楽が素直にすぐ表情に出る。
本多准教授は正解を教える代わりに、逆に四人に質問する。
いつもの本多准教授のペースだ。
「山田君の言うように関数もベクトルの一つね。でもそれなら、中村さんが指摘したように零ベクトルが定義されなければ、いけないわ。……関数をベクトルとみなしたときの零ベクトルって何かしら? さあ、皆で考えてみましょう」
答えをすぐには教えない本多准教授のペースに四人ははまり込んでいく。
しかし、四人の反応はそれぞれ異なっている。
浜口は考えるふりをして正解が語られるを待っている。
(零ベクトルが何だって、どうでもいいじゃないか。早く答えを教えてくれればいいのに。……本多先生、気を持たせ過ぎだ)
彩は教科書の本文や練習問題を思い出して答えを探している。
山田の頭の中をいろいろな関数の形が駆け巡る。そこから答えを探し出そうとしている。
メガトンは何も分からず、零ベクトルの定義を思い出そうとしている。
(零ベクトってそもそも、いったい何なのだろう?)
四人の中で最初に口を開いたのはメガトンだ。
分からないことや覚えていないことがあっても、『自分は馬鹿だ』と思っているので悪びれずに質問出来るのだ。
「先生! 零ベクトルの定義は何だったかしら?」
メガトンの質問に浜口と彩が批難の目を向ける。
二人は、メガトンがあまりにも初歩的で幼稚な質問をしたのが恥ずかしいのだ。
山田はメガトンの質問に新鮮さを感じる。
(複雑なことを考えるより、シンプルに基本的なことを考える方が大事だ)
と悟らさられたのだ。
山田が先生の代わりに答える。
「どんなベクトルと足しても、その値に変化がないのが零ベクトルの定義のはずだ」
しかし、浜口は反論する。
「長さが0のベクトルが零ベクトルだ。ヤマちゃんの言うことは、よく分からないや」
山田が浜口の質問に答える。
「1プラス0は1。2プラス0は2。3プラス0は3。これ、分かるよね。シンちゃん」
「そんなの、小学生だって知っているさ。馬鹿にするな!」
大声になった浜口に山田はさらに解説する.
「馬鹿になんかしていないよ。……数字の0の特徴は、どんな数値と足しても、その値に変化がないことだ。この特徴を活かして、さっきのような零ベクトルの定義が生まれたと思うのだ」
浜口は憮然としている。山田の言うことが理解出来ないのだ。
しかし、山田の説明はメガトンには説得力があった。
メガトンのクリクリした瞳が、黒ぶちのメガの奥で輝いている。『零ベクトルは何か』をメガトンらしく表現する。
「分かったわ。べったり零の関数が零ベクトル。きっと、そうだわ」
彩はメガトンの表現が理解出来ない。メガトンに尋ねる。
「べったり零の関数って何なの?」
山田が黒いマーカーで、ホワイトボードに、横にx軸、縦にy軸を描く。
「メガトンの言いたいことは、こうじゃないかな」
山田は黒いx軸を赤いマーカーで上書きする。
横に延びた赤い直線のおかげで、彩はメガトンの言いたいことが分かる。
「メガトンの言いたいのは、『値がいつも0の定数値関数が零ベクトル』なのね」
彩の問いにメガトンがこっくりとうなずく。その仕草がどう見ても幼い。
浜口はまだ納得出来ない。
「実数の0と、べったり零の関数の、どこが違うのだ? 同じじゃないか!」
浜口の素朴な質問に彩が答える。彩の頭脳が鋭く回転している。
「今は関数を考えているのだから、すべての変数xに対して0でないといけないわ。つまり、任意の変数xに対して関数の値が0となるのが零ベクトルよ」
誇らしげな彩の説明に、浜口はまだ怪訝そうな顔をしている。
山田がさらに解説する。
「平面の幾何学ベクトルだって、実数の0と零ベクトルは違うだろ。零ベクトルは、x座標もy座標も0の場合だ。同じように考えればいいのさ」
浜口は高校で習ったことが否定されたようで気持ちが悪い。
メガトンは、『零ベクトル』の議論に興味があったわけではない。話を『無限次元』に引き戻す。
「ねええ、先生! 零ベクトルと無限次元は、どんな関係なの?」
微笑みながら、本多准教授が鮮やかな口紅の載った口を開く。
「そうね。メガトンの質問は無限次元だったわね。……xの多項式は、xの関数と考えられるわね」
記憶力に自信のないメガトンが、本多准教授に確認する。
「多項式って、xのn乗プラス、テンテンテンのこと?」
「そう、そのテンテンテン。……ところで、多項式と多項式を足し算しても多項式。多項式の実数倍も多項式。これ、分かるかしら?」
浜口が訳知り顔に口を挟む。得意げな表情だ。
「つまり、多項式全体はベクトル空間だ」
「そう、その通りよ。ところで、xの多項式全体は、xの関数全体の一部ね」
浜口が、また口を挟む。
「多項式全体は、関数全体の部分ベクトル空間だ」
彩は、当たり前のことをさも偉そうに口にする浜口をうっとうしく思う。
でも、そんなことは美しい表情のどこにも表れない。
興味津々きらきら輝くメガトンの瞳に促されるように、本多准教授は質問を4人にぶつける。
「多項式全体がベクトル空間だとしたら、その零ベクトルは何かしら?」
彩が即座に答える。
「多項式を関数の一つと考えるならば、メガトンが言っていたように、零ベクトルは値がいつも0の関数だわ」
「その通りね。同じように、多項式の1は、値がいつも1の関数のことなのね。記号を簡単にするため、関数の0も1も、実数の0とか1と区別しないで書くのだけれど、この区別は大事なの」
ここで本多准教授は、どう議論を進めるべきか迷いを見せた。
この迷いをメガトンが切り裂いた。
「先生のおかげで分かったわ」
浜口が怪訝そうな表情で上気したメガトンに尋ねる。
「何が分かったのだい?」
メガトンは、
(自分が理解出来たことは、他人も容易に理解出来る)
と、思い込んでいる。
即座に浜口に答えた。だが、要領を得ない回答だ。
「多項式が零ベクトルになるのは、係数がみんな0の時だけですもの。だから、無限次元。本多先生のおかげで、やっと分かったわ。本当に面白い!」
さも面白そうに、にこにこしているメガトンに、ほかの三人は、
(何か勘違いをしているのでは)
と、唖然とする。
それだけに本多准教授の次のコメントに仰天する。
「メガトン、よく理解したわね。それだけ理解出来れば立派よ。でも、もう少し分かりやすく説明出来ると、さらにいいわ」
しかしメガトンは、どうしたらさらに分かりやすくなるのか、まったく見当が付かない。思いついたままを口にする。
「多項式全体からなるベクトル空間が有限次元だったら、次元が何か一つ定まるはずでしょう。たとえば、それをn次元とするでしょう」
メガトンが一呼吸置いた。どう話したらよいか少し考えたのだ。
ド近眼の眼鏡ごしに見える大きな瞳がうれしそうだ。
「多項式を一個一個分解して考えるの」
浜口がメガトンの説明に素っ頓狂な声を上げる。
「多項式を分解するだって!」
「そう、1と、xと、xの自乗と、テンテンテン、xのn乗と」
山田がメガトンを理解し始めていた。それをメガトンに確かめる。
「n次元のベクトル空間だとして、全部でn+1個のベクトルを考えているのだね」
「その通りだわ。そして、例えばxのn乗は、1の何かの実数倍と、xの何かの実数倍と、テンテンテン、xのnマイナス1乗の何かの実数倍との足し算では表せない。だから、無限次元!」
浜口はメガトンの話がまるで分からない。うめくようにメガトンに尋ねる。
「なぜ表されないのだ?」
メガトンは浜口の質問にきょとんとしている。
山田がメガトンに代わって答える。
「表されるとしたら、こんな式になるはずだね」
ホワイトボードに黒いマーカーで、表されるとした場合の式をさらさらっと書く。
その式をじっと見詰めている。
そして呟いた。
「そうか、表されるとしたら、n次方程式に無限の解があることになる。こんなことはあり得ない!」
浜口は理解出来ていないことを知られても、もう恥ずかしくない。山田に率直に教えを乞う。
「なぜ、あり得ないのだ?」
山田はホワイトボードに書かれた式を指しながら答えた.
「n次方程式は、n次の多項式が零ベクトルに等しい場合と考えられるだろう」
「それは、さっきの先生の説明で何となく俺にも分かる」
「そう、さっき議論したように、関数が零ベクトルの定義は、どんな実数に対しても0となるような関数だ。でも、n次方程式は多くてもn個の根しかない。つまり、すべての実数に対して、0にはなり得ない。高々、n個だ。だから、あり得ない!」
彩も何かの試験に出そうな会話に質問する恥ずかしさを忘れた。
「でも、どうしてそれで無限次元と言えるの?」
山田は、メガトンよりずっと明快に答える。
「多項式からなるベクトル空間が、仮に有限次元として、n次元だとするだろう。そうしたら、すべての多項式は、n個の項の和で表されるはずだ。けれど、メガトンが言うように、それは不可能だ。だから有限次元ではない。つまり無限次元だ」
メガトンは、自分の漠然とした考えを分かりやすく翻訳してくれる山田に、『この人は天才だ』と、びっくりする。
そして本多准教授は、より数学的な表現で解説をした。
みんなの話をまったく理解出来ない浜口は、このとき決心した。
(俺は到底数学には向いていない。出来の悪いメガトンの言っていることさえ分からないなんて俺は最低だ。でも、とにかく卒業しなきゃ。そして、数学とは無関係なところに就職しよう)
彩は闘志をかき立てる。
(試験では絶対に勝つ。圧倒的な差で勝つ。メガトンは当然のこと、山田君にだって負けない)
本多准教授は、このとき学生が何を考えているのか理解出来なかった。だが、数学愛好家の卵に出会えた喜びに浸っていた。
(メガトン、意外と数学に向いているようね。しっかり勉強すれば退学せずに進級出来るかもよ)
全身でメガトンは喜びを表した。
「わたし、勉強で先生に褒められたの、これが初めてなの。もう二度とないかも知れないわ。だから、今日の思い出、退学になったとしても大事にするわ。私の一生の思い出になるわ」
一呼吸置いてメガトンの表情が陰る。
「でも数学、わたしに向いているかしら? 計算は苦手よ。それに、図形を考えると頭が痛くなるの。とくに空間図形はパニック」
本多准教授はメガトンの反応が気に入ったようだ。
『数学に入れ込んで、本当に幸せになれるのかどうか』との一抹の不安を感じながらもアドバイスした。
「無限次元の世界は、もともと絵は描けないわ。それに、難しい計算もほとんどないわよ。数学もいろいろあるの。自分に合った好きな数学を早く見つけるといいわ」
本多准教授の声が聞こえないのか、メガトンはアドバイスには答えない。
代わりに夢見るような表情でメガトンは呟いた。
「無限って本当にわくわくするわ。何か捉えようがないけれど、どこかロマンチックなのよねえ」
浜口も彩もメガトンを理解出来ない。同時に反論する。
「何がロマンチックなの?」
メガトンは浜口と彩に答えたようにも見える。ただ呟いたようにも見える。
「一生は有限の時間の長さなのに、私は無限の時間の中で生きている! 本当に面白い!」
メガトンに周りの声が届かなくなった。自分だけの世界に浸っている。
山田は、何かふわふわした物がメガトンの周りを飛び交っているように思えた。
(この得体の知れない感じは何なのだ! こいつらがメガトンを興奮させ、メガトンと僕たちの間に見えない障壁を作っている。でも、メガトンにも見えていないようだ)
本多准教授は、
(悲惨な成績のメガトンが退学しなくてもすむような、何か良い手立ては無いものか)
と考え込んでいる。
[注6] ベクトル空間。
線形空間ともいう。
ベクトル空間となるには2つの法則を満たす必要がある。1つ目は、集合に属する任意の2つの要素の和が同じ集合に属すること。2つ目は、集合に属する任意の要素とスカラーの掛け算が同じ集合に属することである。なお、実数あるいは複素数が代表的なスカラーである。
代表的なベクトル空間は、関数全体の集合、連続関数全体の集合、n個の数字の組み合わせ全体の集合である。
ベクトル空間にならない例は、不連続関数全体の集合である。
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