第14話 謝罪
尻込みする山田と浜口を引き連れ、メガトンが本多准教授の研究室を訪れた。
「先生。さっきは騒いだりして、ごめんなさい。……なに二人とも黙っているの? 早く謝りなさい」
大柄な男子学生二人が小柄なメガトンに叱られている。その姿を見て本多准教授は思わず笑みを漏らした。
「まあ、林田さんたら、まるで二人のお母さんみたいね。お似合いよ。立っていないで、みんな座ったら」
専門書が本棚にぎっしり詰まった先生の部屋が、三人にはもの珍しい。
本多准教授をこんな間近で見るのは、浜口は初めてだ。
(ほんとうに、きれいな先生だ。でも、悔しいけれど先生は僕のことを子供だって思っているのだろうな)
浜口の視線が定まらない。はにかんでいる。本多准教授に、いたずら心が沸いた。
「浜口君! おばさんのヒップなんか眺めていないで、きちんと勉強しなきゃ駄目よ」
浜口は、どう答えたらよいか分からない。真っ赤になって戸惑っている。
(どうしよう。『先生は、おばさんなんかじゃない』って答えたら、『きれいなラインのヒップですね』って言っているみたいで恥ずかしいし。かといって、肌のつやつやした、こんなきれいな先生に、『そう。先生は、おばさんです』とも言えないし……)
浜口の微妙な戸惑いを、メガトンが鋭敏に嗅ぎ取った。とっさに、話題を引き取る。
「わたしのヒップなんて、誰も注目してくれないわ。わたし、がりがりの痩せっぽちなのですものね。それに、背も低いし。それでいて、顔だけは、まん丸で大きいの。自分でも好きになれないの」
そう卑下するメガトンの成長する姿が、本多准教授には目に見える。
「林田さんは、奥手なだけよ。これから、背も伸びるし、ふっくらするはずよ。きっと、今よりいちだんとかわいい娘さんになるわ」
いつも正論を吐く山田が本多准教授に異議を唱える。今はもうメガトンを恐れていない。いつもの調子を取り戻している。
「先生。気休めなんか言わない方がいいですよ。僕は確信しています。メガトンは、いつまでもメガトンで、女らしくなるなんて無理です。絶対にありえません!」
山田は、美人の彩には思ったことが話せなかった。でも、メガトンには、気安く何でも話せるのだ。憎まれ口も平気で叩けるのだ。
本多准教授は山田の意見を受け流してメガトンに話し掛ける。
「林田さんは、『メガトン』って呼ばれるの嫌なのかしら?」
「メガネ豚の略ですもの、うれしくはないわ。これ、小学生の時に付いたあだ名なの。かわいいとも思うのだけれど、もう娘盛りの私には似合わないわ。けれど、みんながそう呼ぶの。ちょっぴり悲しいわ」
山田はいつも厳密だ。メガトンの言葉尻を捉える。
「年齢が十八だから娘盛りなんておかしいよ。容姿や雰囲気で娘盛りかどうかが決まるのだ。まあ、メガトンも、まだ将来に可能性は秘めているけれどね」
本多准教授は小麦色の肌の健康そうな細面の美人だ。黒髪と黒縁の眼鏡に隠れたメガトンの肌を見ながら、山田とは異なる予想を口にする。
「林田さんは、近い将来、素敵な女の子になるわ。今でも色は白いし、かわいいわ。今年の夏は暑かったのに、林田さんって全然日に焼けないのね。うらやましいわ」
話題がメガトンに移ったので、浜口も、やっと気分がほぐれてきた。得意の軽口をメガトンにぶつける。
「メガトンは夏休みの間、一歩も外に出ないで勉強ばかりしていたのさ。日に焼けないはずだよ」
学生にとって、
「勉強ばかりしている」
と言われるのは、最大級の屈辱だ。メガトンは口を尖らせ向きになって反発する。
「わたしだって日に焼けているわ」
期せずして山田と浜口が同時に叫んだ。
「うそだ!」
眼を怒らしてメガトンが腕時計のバンドを外した。すると白い肌に、さらに真っ白な肌が、くっきりと浮かび上がった。
細い手首に、白と、きわだった白とのコントラストが鮮やかだ。
確かにメガトンは充分に日に焼けている。しばらくの間、沈黙が研究室を支配した。
あり得ないことが起きているとの雰囲気が充満した。
やっと本多准教授が立ち直ってメガトンに声を掛けた。
「ところで、林田さん。お母さんの具合は、どうお?」
「三月になくなったの」
「そうだったの。お母さんと数学のおもしろさを話し合えるようになりたいと言っていたのに残念ね」
「そうなの。でも、『ママさんの母校の数学科に進学する』って報告したとき、とても喜んでくれたわ。『やっぱり、私の娘ね』って……」
涙ぐむメガトンを本多准教授が慰める。
「お母さん、きっとうれしかったのよ」
すぐにメガトンは元気を取り戻す.
「わたし、頭が悪いけれど諦めないことに決めたの」
「何を諦めないの?」
「いつか、きっと、数学が少しは分かるようになって、あの世のママさんと、『こことこことが、おもしろいのね』って、おしゃべりするの」
浜口には、試験以外のために勉強している学生がいることが信じられなかった。それで先生に訊いてみた。
「俺、高校生時代、どちらかと言えば数学が好きだったのです。でも今は全くわからなくなっています。先生はおもしろいのですか? 本当に数学が」
「きつい質問ね。数学のおもしろさを伝えたいのだけれど。……難しさばっかり教えているみたいね」
浜口が素直にうなずく。
浜口の正直な反応にため息を漏らした本多准教授の瞳がゆれる。
「入学したときは数学が好きだったのに、卒業するときは大嫌いになる人が大半ですものね。数学はおもしろいし、とても美しいものなの。それだけに残念だわ」
寂しそうな先生に浜口は素直に謝った。
「俺、これから一生懸命勉強してみるよ。さっきは、ごめんなさい。でも、俺、彩さんやヤマちゃんと違って頭が悪いから」
言葉には出さなかったが、浜口はメガトンにも詫びていた。
(大事な時間を邪魔してしまったね。御免ね)
もっとも浜口は研究室を出た途端、このときの素直な気持ちは、すっかり忘れてしまう。
ここで、厳密屋の山田らしい質問が出た。
「ところで、先生。数学が美しいって、どういうことですか? 数学は形もないし色もないじゃないですか」
メガトンは感心した。
(屁理屈屋のヤマちゃんにしては、いい質問だわ)
本多准教授は、しばらく考え込んでいた。
三人の学生は、息を潜めるようにして答えを待った。先生の思考を邪魔しては、いけないと感じている。
先生が口を開くまでの時間が長かったのか、瞬時だったのか三人には分からなかった。
「無駄がない、ぎりぎり最小限のところで理論を創造していくこと。あるいは理論が成立していることが数学の美しさかしら。……これって、答えになっていないみたいね」
山田がすぐ反論した。
「そう、全然、分からない!」
すると、先生は逆に質問した。
「鵜の木学園の屋上から、山田君は夕暮れの富士山を見たことがある?」
「あります。とっても、きれいだった。東京にいるとは到底思えなかった」
「富士山は目に見えるわね。それでも、どうして綺麗だと感じたかを、この風景を見たことがない人に説明するのは、とても難しいわ。数学は文字で表現されているわ。だけど、文字を眺めているだけでは、数学の美しさは分からない。五線譜を眺めているだけでは、音楽の美しさが分からないのと同じね。もちろん言葉でも音楽の美しさは表現しきれないわ」
なおも山田は食い下がる。
「音楽は聞けば分かります」
「そうね。でも、なぜ美しいのかしら。交響曲で言えば、ベートーベンとモーツアルトとでは、どちらをより美しいと感じるのかしら?」
「先生は、僕の質問に対して回答は出来ないと言っているわけですね」
「残念ながら、そうね。でも、私に限らず多くの数学屋は数学を美しいと感じているわ。そして、芸術を愛でるように数学を愛しているのだと思うの。メガトンのお母さんも、きっとそうだったのだわ」
これを聞いて、より現実的な質問をメガトンがぶつけた。
「ぎりぎり最小限って、どういうことなのかしら?」
具体的な質問だったので今度の答えは明確だ。
「大きく分けて二つあるわね。一つは、より少ない条件で理論を作ること。もう一つは、より弱い条件で理論を作ること。……分かるかしら?」
浜口は、まったく分からない。素直に聞き返した。
「ワンピースの水着よりビキニの方が美しさを強調出来ると言うのは俺でも分かります。でも少ない条件にして何がいいのか、俺にはさっぱり分からない。どこがいいのか、分かるように説明して欲しいのですけれど」
「例えば、四つの条件の内、一つを外して理論を作ろうとする場合を考えるわね。条件を一つ外すためには、残りの三つの条件だけを使用した証明が新たに必要になるわ。逆に、条件を多くすればするほど、同じ結論を得るのは簡単になるわ」
「簡単じゃいけないのかなあ? 俺、ますます分からない」
「浜口君が言うように、簡単な証明の方がいいわね。でも、同じ結論を得るのに、ある条件が不要だって分かるって、すごいことなのよ」
浜口は、この答えが理解出来ない。
「どうしてですか?」
「より本質が見えるようになるということですものね。それに、理論を使用するには、その理論が成立するための前提条件を満たしていることを確かめる必要があるわ。当然、少ない方が便利ね。だって、四つの条件を満足しているかじゃなくて、三つの条件を満足しているかを調べればいいのですものね」
「俺、何となく、だまされた気もするけれど、幾分かは納得するな。『十人で担いでいた御神輿だけれど、そのうち二人は役立たず』ってことですよね」
本多准教授の答えに、こう浜口が感想を述べる。
すると、山田が口を挟んだ。
「僕、シンちゃんは誤解していると思うよ。正確には、『役には立っていたけれど、いなくても大丈夫だった』ってことさ」
「山田君の言う通りね。なかなか鋭いわ」
山田は美人の先生に褒められたので向学心がますます芽生えてくる。
「でも、俺、より弱い条件がやっぱり分からない」
浜口は食い下がった。
本多准教授は、少し間をおいて口を開いた。いたずらっぽい笑顔を浮かべている。
「浜口君。『十八禁』って知っている?」
浜口が、少しどぎまぎして答えた。
「十八才にならないと、やれないことでしょ。でも、俺、そんなもの見たこともないよ」
「正解ね。飲酒は、『二十禁』ね。どちらが弱い条件かしら?」
「えーと……」
戸惑っている浜口に代わり山田が答える。
「シンちゃんは、こういうの苦手だな。十八才になったら、どんな動画も見られる。でも、お酒は二十才にならないと飲めない。つまり,十九才の人は、『二十禁』は駄目だけど、『十八禁』には引っかからない。結論は、『十八禁』が弱い条件だ」
「その通りね。弱い条件で理論を作るのは困難だけれど、より多くのことに適用可能となるわ」
ここでも山田が秀才ぶりを発揮した。
「微分可能な関数に適用出来る理論より連続な関数に適用出来る理論の方が、適用範囲が広くて、より強力だということですよね」
この山田の意見に、本多准教授が意味深長な言葉を吐く。
「山田君の言う通りね。高校では『微分可能な関数は、連続な関数である』と、教えるものね」
メガトンは感覚が鋭い。悲鳴をあげるように間を置かず疑問を呈する。
「大学でも、そう習ったわ。……ひょっとして不連続なのに微分可能な関数があるのかのしら? 先生、そう言っているみたいだったわ」
「あるわ」
「じゃあ、高校の教科書に書いてあることは、嘘なの?」
「いいえ。高校の教科書も、現代数学の教科書も間違っていないわ」
「でも、どうして? 二つは矛盾しているわ。どちらかが間違っているはずだわ」
「皆さんが習ったより、弱い条件で微分が出来る理論があるだけのこと」
「私たちが習ったのは間違いなの?」
「間違っては、いないわ。今あなたたちが勉強しているのは、強い収束の世界の理論なの。その世界では正しいことよ」
(いろんな世界があるのですって? でも、『真理は一つ』って習ったわ)
メガトンには先生の言葉が信じられなかった。
メガトンはさらに本多准教授に問い掛ける。
「矛盾しているのに両方とも正しいなんてありえないわ。どちらかが間違っているはずだわ」
「例えば、どういう距離を使うかによっても、結論は違ってくるわ。結論が違っても、おのおの正しい結論よ。でも、有限次元の世界に限れば、どんな距離を使用しても、極限に関しての結論は同じね」
メガトンの目が据わってきた。思わず叫んでしまう。
「有限次元の場合は同じですって! それじゃあ無限次元の世界があるの?」
浜口は、
(無限次元だなんて幽霊が巣食っていそうな世界だ。うす気味悪いや)
と、戦々恐々後ろを振り返る。首の後ろに冷たい幽霊の手が触れたように思えたのだ。それでも勇気を奮い起こし前に向き直って発言する。
「俺、四次元ですら理解出来ないのに、無限次元の世界があるなんて信じられない。一体どこにあるのですか。お月様の裏ですか」
浜口が疑問を口にしたちょうどその時、多摩川を下流から上流へとヘリコプターが通り過ぎていった。その音が研究室に響いた。
そして、本多准教授は講義で話すとは別の説明を始めた。
「ジェット機が飛んでいる状態を数学的に表すとするわね。今飛んでいるヘリコプターでもいいわ」
浜口が幽霊の世界から現実に戻った気分になる。先生に感想を述べる。
「それなら俺でも分かりそうだ」
本多准教授は、きちんと答えられそうな山田に尋ねる。
「まず、どこを飛んでいるかを表すとしたら、どうしたらよいかしら? 山田君」
「緯度、経度、髙度の三つを使えばいいと思います」
「そうね。山田君が言うように、空間は三次元だから、x、y、zの三つの座標で表せるわね。位置だけではなく、速度も示したいとすると、どう表したらよいかしら?」
「x方向、y方向、z方向の三つの速度を使用すればいいと思います。そうすれば、どんな方向のどんな速度かを表せます」
そう答えた山田が浜口に解説し始めた。
「シンちゃん、僕、分かったよ」
「何が?」
「先生はジェット機が飛んでいる状態を表すのに六個の要素が必要だって言っているのだ」
山田の解説が浜口には理解出来ない。山田に問い掛ける。
「それと次元と、どういう関係があるのだい?」
「六個の要素を使用して表現するから六次元だと、先生は言っているのさ。六個の内どれが欠けても、ジェット機が飛んでいる状態は表せないからね」
「でも、離陸するときは加速度が掛かっているから位置と速度だけでは表せないよ」
浜口は山田の意見に不備があることを指摘する。
「山田君も浜口君も分かってきたみたいね。加速度まで考えたら九次元ね」
メガトンも少し分かった気になった。それを口にする。
「つまり、わたし達、縦と横で二次元、縦と横と高さで三次元。それ以外は、すべてSFの世界って信じ込んでいたのね」
山田がメガトンの発言にうなずいてみせる。
メガトンは、すべてを理解したわけではない。未解決の課題を口にする。
「でも、わたし、無限次元はやっぱり分からないわ」
「ところであなた方、次の授業はないの?」
メガトンが腕時計を眺めると、あわてて立ち上がって答えた。
「あら、もう、こんな時間だわ。謝ったら、すぐに帰ろうと思っていたのよ。お忙しいのにご免なさい。今日は本当にありがとう。こら! おまえら、挨拶せいや」
浜口と山田は、機嫌の良さそうな先生におとなしく頭を下げた。
小柄な女の子に引きずり回されている男子学生二人の姿に吹き出しそうなのを堪えながら、本多准教授は話を続けた。
「次元を理解するには、線形代数の教科書を読み返すといいわ。ただし、先入観に囚われないことが大事ね」
さらに本多准教授は浜口に誘い掛けるように発言する。
「……おばさんの所で良ければ、また、いらっしゃい。無限次元は今度また来たときに話すわ」
本多准教授は茶目っ気に溢れているようだ。
好奇心の旺盛なメガトンは、先生の誘いに無邪気にうれしそうだ。
(まあ、おもしろうそう。行列や行列式の計算は面倒だけで面白くないわ。でも、線形代数も理論は面白そうだわ。解析学だけではなく線形代数ももっと勉強するわ!)
これをきっかけにメガトンは、再試験には役に立たない勉強に、さらにのめり込む。
本多准教授は、メガトン達に『無限次元』を実感させるにはどうしたらよいかと、頭を悩まし始めた。
でも、楽しい悩みだ。
三人の学生を研究室から送り出す本多准教授は、メガトン達がまた質問に来ると確信している。
浜口も張り切っている。色黒の顔がほころんでいる。
(きれいなおばさんに、また会いに来よう。違うなあ。……そう、きれいなお姉さんにだ。折角の誘いだもの)
山田には、そんな浜口の反応が手に取るように分かる。
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