第13話 怒りのメガトン

 まだ20代前半に見える新進気鋭の本多准教授が、よく通る澄んだ声で講義を行っている。

 准教授になった途端に急増した研究以外の仕事に戸惑った本多准教授は、今、学生の学力を引っ張り上げるのに苦労している。

 最前列の真ん中に、メガトンと秀才美少女『彩』が並んで腰掛けている。

 でも、二人は対照的だ。

 紅を刷いたような本多准教授の口元を眺めながら、彩は試験に出そうな箇所を無意識のうちに的確に嗅ぎ取っている。秀才らしい講義の受け方だ。

 一方、黒ぶちの度の強いメガネで最前列に座るメガトンは、興味津々、先生が面白そうなことを話すのを待っている。

 メガトンには、『常識では理解出来ない意外なこと』が面白いのだ。

 本多准教授も男子学生も、メガトンを『出来の悪い点取り虫』と勘違いしている。

 ド近眼のメガトンは、最前列でないと先生の書いた文字が見えないのだ。

 それで仕方なく最前列に座っている。でも、そのことを誰も理解していない。

 メガトンは前もって、きちんと教科書に目を通している。けれど、教科書も講義の内容も、もう一つ理解出来ない。悩んでいる。

 でも、メガトンは諦めない。

(わたしは頭が悪い。分からないのは当たり前。けれど、そのうち何とかなる)

 そう念じながら、講義に全神経を集中させている。

 最後尾の席に陣取る浜口は、メガトンと同じように講義が理解出来ない。それに、すっかり数学に興味を失っている。

 だから、一時間半の講義に耐えるのが苦痛だ。分からない話を長い時間聞かなければいけないのは本当につらい。

 机の下を見つめる浜口は、時々視線を前方に移す。携帯電話でゲームを楽しんでいるのを先生には内緒にしておきたいのだ。

 それに、先生が教卓を離れホワイトボードに向くタイミングを見逃したくない。

 ウェストの締まった女子高生のような先生の後ろ姿が、浜口は気に入っている。ラフなジーパンが、よく似合っている。小柄なのに足が長いせいか、すらりと見える。

ゲームにも飽き浜口はあくびをかみ殺す。

 突然、本多准教授が解答用紙を配り始めた。

「今日は、皆さんに問題を解いてもらうわ。教科書を見てもいいし、ノートを見てもいいの。頑張ってね」

 ノートも取っていないし、教科書に何が書いてあるかも確認していない浜口は、

(やばい)

 と、あわてふためいた。

 それで、咄嗟に質問した。

「友達と相談して解いても、いいのですか?」

「いいわ。それに私に質問してもいいわよ」

 問題の意味すら分からない浜口は、さすがに先生には質問しにくい。頼りになるのは、隣でいつもきちんとノートを取っている山田だ。

「おい、ヤマちゃん。答えを教えろ」

 しかし、山田はそっけない。

「自分で解けよ。きちんと勉強しておかないと試験の時に困るぜ」

 講義を聞いていなかったのを、浜口は本多准教授に知られたくない。へたに先生に質問すると、やぶ蛇だ。

 それで浜口は、小声だが恫喝するように山田に迫った。本多准教授には聞こえないように細心の注意を払っている。

「先生は学生同士で教え合ってもいいって言っているぜ」

 山田は論理的だ。

「相談しながら解くのと丸写しにするのとは、まったく意味が違うよ」

 すると浜口が答案用紙を怒ったように山田に手渡す。

「それじゃあ、俺の答案をチェックしてくれ。どこがおかしいか教えてくれ」

 浜口の答案を見て山田があきれる。

「何だ。白紙じゃないか」

「白紙じゃないさ。ちゃんと問題を答案用紙に書き移しているじゃないか。それに、学生番号と氏名も、ちゃんと書いたぜ。どこがおかしいか一緒に考えよう」

「僕だって今、解いている最中だ。シンちゃんの冗談に付き合っている暇はないよ。まず自分で解く努力をしなきゃ」

「そんなこと俺だって分かっているさ。でも、今は答えが欲しいのだ。お前は俺と違って成績がいいのだろう。もったいぶらずに教えろよ!」

「教科書を見ていいのだから自分で解いてみろよ! ちゃんと勉強しないと試験の時に困るって注意したばかりだぜ」

 浜口は山田の忠告に耳を貸さない。もっともらしい意見を山田にぶつける。

「勉強なんて試験の直前にやるのがコツさ」

「どうして?」

「今から勉強したって試験までには忘れちまうだろう。無駄なことはやらないのが賢いのさ」

「でも、今日のレポートはどうする?」

「今日は試験じゃないだろう。成績には関係ないはずだ。提出することに意義がある。中身は関係無いさ」

「そうかな?」

「そうに決まっているじゃないか。それに、答えを教わってから勉強する方が効率がずっといいじゃないか。そんなことも分からないなんて、お前おかしいぞ。いいから早く教えろよ」

 山田の語気が荒々しくなる。

「そんなの屁理屈だ。今日のシンちゃんには付き合っていられないよ! 僕の時間を邪魔しないでくれ。シンちゃんは時間泥棒だ」

「俺は泥棒じゃない」

「いい加減にしろよ。邪魔しないでくれ」

「教えろ!」

「馬鹿!」

 馬鹿と言われたが、自分よりずっと成績のよい山田に浜口は反論出来ない。

 悔しさを噛みしめて横を向いた。すると、先生が熱心に学生の答案をのぞき込んで指導していた。

 前屈みの後ろ姿が浜口の目に飛び込んだ。

 小玉スイカを二つ並べたような、つんと上を向いた丸いお尻がジーパンにくっきりと浮かび上がっている。くびれたウェストに滑らかな曲面が続き迫力十分だ。

 悪気は無かった。だが、苛立っていた浜口は思わず大声で叫んだ。

「ナイスヒップ!」

 すると、ざわついていた教室が一瞬で凍り付いた。

 本多准教授は身をこわばらせて立ち尽くす。ういういしいポニーテールの髪が恥ずかしげだ。

 教室中の冷たい視線を浴びて浜口はたじろぐ。

 いたたまれず、浜口は山田を使って自分への視線をずらそうとする。

「秀才面しやがって、もったいぶっていないで早く解けよ」

 山田も怒っている。辛辣な言葉を思わず吐く。

「何だって? 自分で解け! この色きちがい」

 まずいことをしたと舞い上がっていた浜口は、これを聞いてさらに我を忘れた。

 思わず山田の頭をコツンと叩く。

 これをきっかけに、普段は仲のよい二人が張り手を飛ばしわめき始めた。

 こうなると、女性である本多准教授には、男子学生二人を静かにさせる手立てがない。

 彩も呆然と二人を見守っている。

 本多准教授が途方に暮れている。

 突然、腹にドスッとくるような怒鳴り声が教室中に響いた。

「なんばしよっとね!」

 鍾馗様のようになったメガトンが立ち上がり、二人にグッと一歩近づく。

 耳の上から束になって両の頬から顎に掛かる髪が黒々としている。それが、まるであごひげのようだ。大きな黒ぶちのメガネが、眼を隈取っている。まさに怒った鍾馗様のようだ。色白の顔が朱に染まっている。

 メガトンの膨れあがった気が吹きつけ、浜口も山田もたじたじだ。

「シンちゃんが、いきなり……」

 山田が震えながら言い訳を始める。

 しかし、すぐにメガトンは山田をさえぎる。

「授業中だ。二人とも静かにしろ」

 メガトンの大きな眼が、らんらんと燃えている。

 これに浜口が無言で反発した。

 その瞬間メガトンが爆発した。

 浜口の気を感じ取ったのだ。

「生意気なペチャパイだと。余計なお世話だ。突っ立っていないで、座れ! 黙れ!」

 駆け寄るメガトンの気が、二人の頭と肩を押しつぶす。

 二人は思わず腰砕けとなる。更に鋭い眼光が二人を射貫く。

 しーんと静まり返った教室を、メガトンが無意識に完全に支配した。君臨した。

 教室は物音ひとつしない。

「静かにするようだわ。先生、授業を続けましょう。もう大丈夫。おとなしくなったわ」

 そう言って最前列の席に戻るメガトンに、さっきまでの荒々しい覇気はない。

 丸い大きな顔が小柄でやせた体に相変わらずアンバランスだ。

 浜口も山田もため息を付いた。

(彩は美人過ぎて、ときたま息苦しくなる。メガトンは子供過ぎるのが難点だった。けれど、いつも気楽に話せた。でも、これからはどうだろう? あいつ怒ると怖い。怖すぎる)

 すると、メガトンがいきなり振り返った。

 二人はあわてて下を向いた。鉄拳から逃れるように、メガトンのきつい視線をはずす。

 浜口の膝がガクガクと言っている。

(またメガトンに心を読まれた。それに、まだ怒っている。どうしよう)

 冷静さを取り戻した山田は、何もなかったように問題を解き始める。

 その横で濃いひげの浜口はまだ震えている。

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