第12話 チューター面談
数学科唯一の女性教師である本多准教授は学生に評判が良い。分かりやすい講義のうえ試験問題の予測が容易だからだ。
それに小麦色の肌が綺麗なエキゾチックな美人だ。
まだ独身なのは、『数学が恋人だから』とのもっぱらの噂だ。
学生の間では、
「閻魔の高橋、仏の五島、観音の本多」
と、囁かれている。
その本多准教授が、さっきからパソコンの画面に黙々と向かっている。
本多准教授がチューター(学生生活上の指導や相談に応じる係り)を担当する二十名強の学生の前期の成績と、後期の出席状況を確認しているのだ。
これが終わったら、担当する学生を呼び出して個々に面談だ。さらに十月末までに、面談結果を学科の学生委員の先生に文書で報告する必要がある。
本多准教授の顔が曇る。
(このままだと卒業がおぼつかない学生が今年も多いわ。こんな学生に限って面談に来ないし。来ても何の反応もしないで、そっぽを向くし。
……今年も保護者を呼ぶ必要がある学生が相当いるみたいね)
そう思案顔の本多准教授は、講義や、講義の準備、錯綜する会議の合間を縫いながら、学生との面談日時をようよう設定し終わった。
そして一人一人に呼び出しのメールを打った。同時に学科の掲示板に呼び出しのメッセージを貼った。
最初の面談に選んだ学生はメガトンだ。
(どんな学生生活を送っているのだろうか? 何か困っていないかしら?)
本多准教授には、メガトンは特に気になる学生だ。専門科目を一つでも落としたら即、退学勧告が待っているのだ。それで余計に気に掛かる。
呼び出されたメガトンは、指定された時刻通りに本多准教授の研究室を訪れた。メチャクチャをやっているようで、メガトンは几帳面な性格だ。
五分早く来て、時間になるのを廊下でうろうろして待っていたのだ。正確な時間に面接を受けられて当然だ。
机をはさんで真向かいに座ったメガトンに、本多准教授がやさしく話しかける。
「林田さん、前期の試験、出来はどうお? 自分では出来たと思った?」
プリントアウトしたメガトンの成績に目を通しながら尋ねる。
「残念だけど出来たと思った試験は一つも無かったわ」
「みんな難しかったの?」
「わたし、公式を覚えるのが苦手なの。だから計算問題が出ると、もうパニック。三角公式を簡単に覚えられる人って、いるでしょう。高校生の時、そんな人、どんな頭をしているのか、わたしには理解出来なかったわ。わたしには、とうてい覚えられなかった」
本多准教授はメガトンの気持ちをほぐすような質問をする。
メガトンは、それに喜々として答える。
「高校時代は何が得意だったの?」
「体育と音楽。……わたし、力はないけれど身軽なの。それに体が柔らかいの。そのうえ、こう見えても足腰のバネはすごいのよ。戦国時代に生まれていたら、わたし、きっと腕利きの忍者になれたわ。そしたら格好良かったかもね」
そう答えるメガトンは、もう忍者になったつもりだ。
黒装束で大活躍する自分の姿を思い浮かべてにこにこしている。
黒ぶちの大きな眼鏡の向こうで、瞳がきらきら輝いている。
でも、本多准教授はメガトンが何でそんなにうれしそうなのか理解出来ない。
メガトンには言いにくかった。けれど、本多准教授は修学上の懸念を正確に伝え始めた。
「林田さんは、いつもにこにこしていてうれしそうね。でも、相当頑張らないと駄目ね。このままだと、かなり危険な状況よ」
「わたし、進級出来そうかしら? 出来たら、うれしいな。そうでないと退学勧告だし。でも退学になっても、また鵜の木学園を受験し直すつもりよ」
「それも大変ね。とにかく今は退学にならないように頑張ることが大事だわ」
メガトンは、いつまで頑張ればよいのか見通しが立たなかった。見通しが立てば少しは気が楽になるのにと思った。
気になっていることをメガトンは素直に質問する。
「これから数学、どんどんむずかしくなるの?」
「それは人によるわね。一年生のときの内容がしっかり理解出来ていれば、だんだんやさしくなるはずよ」
「ほんとう?」
メガトンのさらなる質問に、本多准教授は答えを躊躇する。答えにくい質問なのだ。
なぜなら大多数の学生は、『どんどん難しくなる』と感じているのを知っているからだ。
「他に何か悩んでいることは?」
「わたし頭が悪いから仕方がないのだけれど、高橋先生の授業がちんぷんかんなの。でも、分かりたいの。……高橋先生、一生懸命だけれど、わたし、ついて行けないの」
「例えば、どんなことが分からないの?」
「わたし、極限の定義は、『限りなく近づく』の方が分かりやすいと思うの。でも、高橋先生は、『これは定義になっていない』と言うの。どうしてかしら?」
「みんなが悩む箇所ね。私も悩んだわ」
メガトンの顔が、ぱっと輝いた。
「先生も悩んだの? 馬鹿なのは、わたしだけではないのね。……あっ! 失礼」
「別に失礼ではないわ。すぐに分かった気になる人は数学には向かないわ。ひょっとすると林田さんは数学向きよ」
そう煽てられて、素直にメガトンはにこにこしている。
「もう少し頑張ってみるわ。分からないからって天罰が下って死ぬわけでもないし」
「そう言えば、高橋先生はテキストに解析概論を使っているはずね。それだったらアルキメデスの原則を読んでみるといいわ。参考になるはずよ」
「アルキメデスの原則って、お風呂やプールに入ると体が軽くなること?」
「それはアルキメデスの原理。物理の法則ね」
「じゃあアルキメデスの原則って何なのかしら?」
本多准教授は呪文を唱えるようにメガトンに答える。
「ε(イプシロン)がどんなに小さい正の数で、aがどんなに大きい正の数でも、少なくとも一つの自然数nが存在して、n掛けるεはaより大きい。これが、アルキメデスの原則[注5]よ」
メガトンは、さっぱり意味が分からない。
「むずかしそうだわ」
「平たく言えば、『どんなに大きな数があったとしても、それより大きな自然数が必ずある』ってことね」
そう言われても、メガトンは納得出来ない。
「なぜ、そんなこと言えるの?」
「アルキメデスの原則でεを1と思えば、すぐ出る結論ね」
「本当?」
「εが1の場合、アルキメデスの原則は、『aがどんなに大きい正の数でも、少なくとも一つの自然数nが存在して、n掛ける1はaより大きい』となるわ。n掛ける1は、いくつ?」
算数の苦手なメガトンも、さすがに正解が即答出来る。
「nだわ」
メガトンの顔が輝く。
アルキメデスの原則が分かった気になったのだ。
「『アルキメデスの原則』は解析概論のどこに書いてあるの?」
「積分法の章に出ていたはずよ。でも、高橋先生は正真正銘の硬派ね。真剣に解析学を学生に分からせようとしているわ。学生に嫌われるはずね」
メガトンは早く解析概論を読み返したくて、本多准教授の話をうわの空で聞き始めた。
このとき突然メガトンはひらめいた。
ひらめいた結果を即座に本多准教授に確かめる。
「アルキメデスの原則って、自然数nは限りなく大きくなる。つまり、無限大に発散することを表しているの?」
「そうね。それに少し考えれば、自然数nを限りなく大きくすれば、1/nは限りなく小さくなる。つまり0に収束することも表していることも分かるわ。この場合、アルキメデスの原則は、解析概論の極限の定義をそのまま使用したと考えていいわね」
そう答えて本多准教授は苦笑した。
(学生との面談で数学についての世間話をしたのは、これが初めてだわ。面談の本来の趣旨からは逸脱しているわ。
それにしても林田さんって何かとらえどころのない不思議なものを持っている学生だわ)
メガトンは、もう一度単純な質問をした。
「先生、どうして『自然数は限りなく大きくなる』ではいけないの? それの方が、ずっと分かりやすいわ」
「そうかも知れないわ。でも、アルキメデスの原則の形にしておいた方が使い勝手がいいわ」
「それは、便利って言うこと?」
「そう。……もっとも、『実数の連続性』から、『アルキメデスの原則』は導けるわ。その意味では、『実数の連続性』の方が基本的な概念ね」
「わたし、『実数の連続性』は理解したつもりだったの。……でも、また分からなくなったわ」
「解析概論に、『アルキメデスの原則』は『実数の連続性』の一部との証明も付いていたはずよ」
メガトンは本多准教授に抗議した。
「わたし、二つは関係ないように思うのだけれど」
本多准教授は、メガトンの悩みがよく分かる。しかし、あえて逆に問い返す。
「どうして、そう思うの?」
「だって、『実数の連続性』って『数直線は実数で埋め尽くされている』ことよね。シンちゃんが言っていたわ」
「その通りだわ」
「それと『自然数は限りなく大きくなる』とが関係しているなんて、とても信じられないわ」
悲しそうに、そう呟いたメガトンは本多准教授の言っていることが理出来ない。
でも何か心に響くものがあった。
面談を終えると、メガトンは図書館の指定席に直行した。
そして、いつも鞄の中にしまってある解析概論を開いた。アルキメデスの原則と極限の定義を、ざら紙に丁寧に書き写した。
二つ並べて書いた概念を鋭い眼光で見詰め続けた。
眉間にしわを寄せて考え込んでいたメガトンだが、本多准教授のアドバイスが理解出来ない。
それに、『極限の定義が限りなく近づく』では駄目な理由も相変わらず理解出来ない。
メガトンは理解するためのヒントが欲しかった。
(本多先生、『アルキメデスの原則』は『実数の連続性』の一部だと言っていたわ。それに証明が解析概論に載っているとも言っていたわ。どこに載っているのかしら?)
探し始めてまもなく四行ほどの証明らしき解説に出っくわした。
(見つけた!)
メガトンは満面の笑みだ。
だが読み始めた瞬間、顔が引きつった。「アルキメデスの原則が成り立たないとするならば、すべての自然数nに関して、nの値はa∕ε以下」
の文章が理解出来ないのだ。
考え込んでいるメガトンの耳に図書館の事務の年配の男の人の声が届いた。
「閉館の時間だよ。そろそろ帰らなきゃ。いつも熱心だけれど今夜は特別熱心のようだね」
「あら、そんな時間なの? しまった! 学食(学生食堂)、もう閉まったわね。夕ご飯、食べ損なっちゃった」
メガトンは解析概論を鞄にしまう直前に素早く確認した。
そして、
(『nとεの積』がaより大きくなるような自然数nが必ず存在する)
がアルキメデスの原則であることを頭に刻み帰りの支度に掛かった。
鵜の木学園の正門を出たメガトンは、まだ考えている。どうしても気になるのだ。
(本多先生が言ったように、『どんなに大きな値があっても、それより大きな自然数nが、少なくとも一つ存在する』が、アルキメデスの原則よね。だとしたら、その否定は何なのかしら?)
突然、入学試験での高橋教授とのやりとりをメガトンは思い出した。
高橋先生の質問は、
「『鵜の木学園の女子学生は、みんな身長一五〇㎝以上だ』の否定文は?」
だった。
背の低いわたしに当てつけたような意地悪な質問だったわ。
わたしの答えは、たしか、
「鵜の木学園の女子学生の少なくとも一人は、身長一五〇㎝未満だ」
だった。
鵜の木学園に入学出来たのだから、これは正解だったに違いない。
夜風に当たったメガトンの頭が活力を取り戻す。
(ということは、εを1と思えば、『どんなに大きな値があっても、それより大きな自然数nが少なくとも一つ存在する』、つまり、『何か一つの値が与えられたとき、少なくとも一つの自然数は、それより大きな値である』の否定を考えればいいわけね。
……だとすれば、その否定は、『何か一つの大きな値が与えられたとき、すべての自然数は、その値以下である』だわ。
でも、本当かしら?)
どうやらメガトンは、
──『アルキメデスの原則』は『実数の連続性』の一部との証明を理解するための第一関門を突破したようだ。
しかしメガトンは明日になると、今日のことはすっかり忘れてしまう。
そして、また同じ苦しみを味合うのだ。
それに、相変わらず『極限の定義』がメガトンには摩訶不思議だった。
必要性が理解出来ないのだ。
夕ご飯を食べ損ねたメガトンは、東急多摩川線鵜の木駅に着くと、『アルキメデスの原則』で高揚していた気分が萎えてしまった。腹ペコなのに、やっと気付いたのだ。
(わたし、本当に退学しないですむのかしら? あのちんぷんかんぷんな『極限の定義』が分かるようになるのかしら?)
鵜の木駅のプラットフォームに、ライトをともした三両編成の電車が近づいて来た。すると、いつもの明るい笑顔を取り戻した。
(そのうち何とかなる。きっと分かるようになる。明日また考えてみよう。くよくしても始まらない。大学は、わたしを退学に出来る。でも、大学は、わたしの再受験を拒めない)
そう思い付いたメガトンは、鵜の木学園に勝ったつもりになって、にこにこ顔だ。
まんまるの大きな顔を隠すお高祖頭巾のような黒髪を揺らしながら電車に乗り込むメガトンの表情はいきいきと輝いている。
[注5] アルキメデスの原則。
ε(イプシロン)とaとが与えられた正数ならば,nε>a になるような自然数nが必ず存在する。
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