第10話 モンスターママ

 鵜木学園の夏休みが明けた十月始め、高橋教授の研究室を山田秀明の母親がけわしい顔で訪れた。

 二人は机をはさみ差し向かいでにらみ合っている。

「息子は、『高橋先生の授業は、全部、出席した』と、言っています。それで、どうして不合格なのですか? こんな成績を付けられたら就職活動でも不利になります。絶対に許せません」

 そう言い放つ母親の目が据わっている。

「成績に出席は関係ありません」

 高橋教授は正直だ。むっとした表情を隠さない。

「試験だけで成績を付けるのはおかしいです。本人の努力も評価すべきです。それに全員不合格だなんてあんまりです」

 そう食い下がる母親に高橋教授は反撃する。

「僕は努力の度合いを評価するつもりはありません。それに努力の度合いなんて評価出来ません。なまじっか単位を出すと学生は勉強しません。不合格なら学生はさらに努力するでしょう。とにかく全員の出来が悪すぎました」

 これを聞いて母親の目が吊り上がる。

「何ですって。うちの秀明は、小学校から高校まで数学の成績は、ずっと『5』だったのですよ。出来はいいはずです」

 ヒステリックに叫ぶ母親に高橋教授はうんざりした顔である。

「うちの学科に進学してきた学生は、高校生時代、数学が得意だった者ばかりです」

 高橋教授は、そう回答した。

 しかし、今年は『例外がいた』と、メガトンを思い出した。

「だったらみんなに最上位の成績を付けてもよいのではないですか。そうしたら、皆さん喜びます。就職試験でも有利になります」

 母親としては息子の『不合格』の成績が我慢出来ないのだ。何とか『AA』、せめて『A』の成績に修正させたいのだ。

「学生を喜ばせるために、よい成績を付けるなんて訳にはいきません。じっさい全員まるで理解出来ていない」

 高橋教授が、そうやんわり答える。

 だが、この高橋教授の発言に母親の怒りはさらに増幅する。

「理解不足の学生ばかりなのは教え方が悪いせいです。みんなに分かるように教えるべきです」

 母親は一歩も譲らない。高橋教授も譲らない。

 よせばよいのに高橋教授は、青筋の立った母親に皮肉を返す。

「魔法の杖を一振りして、『よく分かる。よく分かる』と呪文を唱えると、『みんなが分かる』ってなこと残念ながらあり得ないのです」

「もう少し丁寧に個人教授をしてくれれば、うちの秀明はもっともっと出来るようになります。ちょっとしたヒントさえ与えてくださればもっと伸びます」

(自分の息子だけは何とかしてくれ。とくによく面倒を見てくれ)

 との、母親の本音が出た。

 しかし、高橋教授はこれを無視する。

「数学は独力でやるものです」

「それじゃあ教師なんかいらないじゃないですか」

 高橋教授はゆっくり反論する。

「どんな教科書を、どんな風に、どんなスピードで読んだらいいかは、天才でもかぎ取るのは困難です。うちの学科の教師は、これをきちんとやっています」

「それだけのために教師はいるのですか。みんな授業料泥棒です!」

『泥棒』と怒鳴られても、高橋教授は平然とやり返す。

「数学もスポーツやゲームと同じです。ルールや必勝法の講義を受けただけでは勝てるようにはなれません。自分の意志で何度も失敗しないと駄目なのです。努力を続けていれば勝てるようになるかも知れません。でも、駄目かも知れません」

「駄目だったら、どうすれば良いのですか? 能力に合った教育をすべきです」

「……確かに教師は、学生の能力を見極める必要があります。しかし、もっと大事なことは学生自身が能力を自覚することです。教師の重要な役割は自覚する手助けです」

 高橋教授は信じている。

(若いうちほど進路は転向しやすい)

 だから、数学に向いていない学生には、それを早く自覚させるべきだとの考えなのだ。

 山田の母親は高橋教授の意図を敏感にかぎ取る。

「出来の悪い学生は、さっさと退学しろとでもおっしゃりたいのですか?」

 母親のこの抗議を高橋教授はいなす。

「能力がないのに数学者を夢見ているのなら、早く止めた方が得策だと思いますがねえ」

 これは少し言い過ぎたかと反省し高橋教授は頭を掻く。

「……もっとも僕は、その機会を逃してしまった一人かも知れませんが」

 さらに、かみ合わない議論がえんえんと続いた。

 とうとう高橋教授がしびれを切らした。

「そろそろ次の講義に出る時間です。お引き取り願えませんか」

 母親は時間切れで抗議を打ち切るつもりなどさらさらない。暇を持て余している毎日なのだ。『抗議』が暇つぶしの一環だと母親は気付いていない。

 それに、高橋教授の仕事を邪魔している意識が全くない。

 母親は正当な権利を行使しているつもりで、高橋教授に尋ねる。

「講義は何時に終わるのですか」

「十六時です」

「それではその時刻に、もう一度伺います。ところで、主任の研究室はどちらですか? 先生が講義の間、主任ともお話をしたいと思います」

 高橋教授を一時的に解放した後、山田の母親が数学科の主任の前で息巻いている。

「先ほど高橋先生とお話ししました。どう考えても、あの先生、教師として不適格です。罷免すべきです」

 主任は母親が何を怒っているのか分からない。

「どうしてですか?」

 主任の質問に山田の母親は憤った口調で答える。

「あの先生、学生の将来について何も考えていません。考えていれば全員不合格のような非常識な成績を付けるはずがありません」

 主任が山田の母親に確認する。

「高橋先生、本当に全員を不合格にしたのですか?」

「息子だけではなく、高橋先生もそうおっしゃていました。間違いありません」

「でも、全員出来が悪ければ、そうなってもおかしくはありません」

 これを聞き母親は眦を決して抗議を行った。怒りが沸騰しているのに抗議の口調は不気味なほど馬鹿丁寧で断定的だ。

「うちの息子は極めて優秀です。その息子が不合格だなんてあり得ません。成績を付けるのが面倒なので、全員落としたのではないでしょうか。……成績の付け方が極めて不明朗です。調査のうえ是正すべきです」

 主任の役目は学科のまとめだ。他の先生の成績の付け方に口出しする権限なんかまるでない。

 主任はそれとなく大学のルールを怒り心頭の母親に説明する。これで納得してもらうつもりだ。

「学生から、『成績に疑義がある』と申し立てがあった場合、疑義を受け付けます。きちんとルール化されています」

 母親は疑義申し立てを薦められたと勝手な解釈をしたようだ。表情がいくらか和らぐ。

「では、先生のご意見ですので息子に早急に疑義を申し立てさせます」

 母親の逆襲に主任はあわてた。

「しかし、ご子息の件は疑義申し立ての理由があいまいです。お母様のおっしゃっているような前例はありません」

 再び母親の表情が険悪になる。いちだんときつい顔だ。

「どんなのがあるのですか?」

「『出来たはずなのに不合格だった。採点ミスでは』との疑義が大半です。でも、出来たのではなく、解答を書いただけのケースがほとんどです。私達はすべての定期試験に対して模範解答を掲示しています。けれど、『出来たはずだ』のケースは後を絶ちません」

 母親は主任の発言がまったく的外れだと切り捨てる。

「出来の悪い学生の例は息子には役に立ちません。もっとほかには?」

 主任は最近耳にした『浜口の例』を持ち出す。

「『配点がおかしい。変更をしろ』と、要求してくる学生もいます」

「自分に有利になるような配点変更を求めてくるのですか」

「その通りです」

「それは確かにおかしいですね。でも、息子のケースは正当な理由です。疑義を申し立てさせます。疑義申し立ての用紙はございますか?」

「用紙はあります。でも、疑義の申し立て期間はとっくに過ぎています」

 これを聞いて母親は再び激怒した。

「そんな馬鹿な! 人の一生が掛かっているのですよ。期間を理由に拒否するなど、お役所仕事みたいで納得出来ません。成績の変更を保護者として断固要求します。何度も申し上げていますが、うちの息子が不合格となるような試験はまっとうとは思えません。試験そのものがおかしいのです」

「今からの変更は学則上も計算機処理上も不可能です」

 ここで、母親は矛先を変えた。

「それに高橋先生は、学生の評判もすこぶる悪いそうです。罷免すべきです」

「どんな評判ですか」

「高橋先生の試験は、まったく傾向が読めないそうです」

「傾向が読めなくても何の問題もないと思いますが……」

「でもそれでは何を勉強したら良いか学生は戸惑うばかりです」

 主任は高橋教授を見直した。

(高橋先生は厳しいだけじゃない。ことのほか教育に熱心のようだ。

 ……試験に出そうなところだけを勉強するような学生は困りものなのだ。だから傾向の読めない試験問題を作るのは教師として当然だ。

 でも、それを実行するのは手間が掛かって大変だ。高橋先生は頑張っている。この保護者こそ、どこか狂っている)

 こんな考えがよぎった主任だが母親にはやんわり意見を述べた。

「高橋先生は公平な評価を心がけているのでしょう」

「なぜ傾向の読めない試験が公平な評価なのです?」

「過去問を知っているかどうかで有利不利が出るのは公平とは思えません」

「先生がたは定期試験の過去問を公表していないのですか」

「していません」

「していないのは大問題です。していないとしたら、学生はいったい何を勉強したら良いのでしょう。まったくメチャクチャな大学です」

 そう母親に言われて主任は向きになる。

「テキストを独力で読みこなす力を付けることが大事です。過去問だけ解いて試験対策が終わりでは実社会で役立つ人材には育ちません」

「高橋先生も頑固で分からず屋でしたけれど先生も同じですね。……ところで、先生はどんな実社会を経験していらっしゃるのですか?」

 主任は痛いところを突かれたようだ。

 主任の弱みに気付いた母親が責め立てる。

「学生からいきなり教員になられたのですか。それとも企業経験がおありなのですか?」

「残念ながら数学科の教員に企業経験者はいません」

「それで、『実社会で役立つ人材』がどんなものなのかお分かりなのですか。あまりに無責任です!」

 母親は激してきた。詰問調である。

「……いったい学科の教育方針は何なのですか?」

「教育方針は学科のホームページに公開しております」

「即答願います。……出来ないのですか。いい加減ですね」

 主任は沈黙した。パソコンの前に移動するとマウスを操作した。

 母親は勝ち誇ったように大声を上げた。

「こんなことも答えられないのですか?」

 主任は返事をしない。主任の研究室に静寂が訪れた。

 やがてプリンタが印字の軽快な音を立て始めた。

 主任は、『やれやれ』との表情をしながら印刷された用紙を差し出した。

「山田さん。これが当学科の教育方針です」

 母親はプリントを引ったくった。そして一読すると、教育方針について、講義のあるべき姿、成績の付け方について延々と持論を展開し続けた。

(成績の見直しは無理そうだ)

 と分かった途端、母親の怒りが爆発したのだ。

 主任は母親の抗議が『高橋教授個人』から『数学科全体』に広がったと思った。

 そして、主任は組織防衛の必要性を感じた。

 しかし、母親は数学科全先生を敵に回そうとしているとの意識はない。ただただ怒りを増幅させているのだ。

 一方、怒鳴り込まれた形の高橋教授は講義が終わり研究室に戻ると考え込んだ。

(俺は俺なりのやり方で精いっぱい学生を指導してきた。

 発憤して勉学に励むような試験問題も工夫して作成してきた。

 でも、これで本当に良いのだろうか。

 やさしいことだけを丁寧に教えれば、すぐに答を知りたがる学生でも分かった気になる。

 それに満足してくれる。

 けれど、数学が使えるようになるわけではない。

 でも、使えなくて本当に学生は困るのだろうか?

 メガトンは、毎日、図書館に籠もっているそうだ。

 ひたむきに勉強しているのだろう。

 講義中に見せるあの真剣な眼差しはあたりの空気を震わせている。

 俺は、『メガトンが自力で壁を突破するのを見守っている』と言えるのだろうか。もしかしたら教えることを放棄して自分の研究に閉じこもっているだけではないのだろうか)

 考え込んでいる高橋教授の研究室を主任と山田の母親が訪れた。

 主任が話を切り出した。

「先ほどまで山田さんと話し合っていました。どうも話がかみ合わないのですが……」

 主任は当惑している。

 主任をやり込めた形の母親は肩を怒らしている。意気揚々としている。主任に代わって要求事項をはっきりさせに掛かった。

「私からお話しします。二つのことを要求します」

 主任は内容を知っているのか苦りきった顔をし、声高な母親の話を無言で聞いている。

「一つ目の要求は、『全員不合格』といった不謹慎かつ不適切な成績を付けたことに対する謝罪と是正処置を文書で回答していただくことです。納得出来る回答が得られない場合はハラスメントがあったとして委員会に訴えさせて頂きます

 反論しようとする高橋教授を主任が遮った。

「お母様のご要求は、よく分かりました。しかし、高橋先生は学則に従ってきちんと成績を付けています。それに、謝罪文を書いた前例はないと記憶しています」

「前例が有る無しは関係ありません。きちんとした対応をお願いします」

 そう主任に反論し山田の母親は一息入れた。

 高橋教授をにらみ付けると要求をさらに続けた。

「二つ目の要求は、『実社会に役立つ人材の育成』に、学科としてどう取り組んでいるのかを明確にして頂くことです。先ほどの主任の先生のお話では、とうてい納得出来ません」

 そう言うと母親は主任に目で回答を促した。

 主任は『やれやれ困ったものだ』と思いながら答えた。

「二つめの要求を私達だけで回答するのは問題があります」

 瞬時に母親は怒りと侮蔑の声を放った。

「回答出来ないのですか。いい加減な学科ですね」

「学科の意見を確認するのに少しお時間をください。よろしいでしょうか」

 二年交替の輪番制で教授の誰かがしぶしぶ主任を引き受けるのだ。主任が学科のことをすべて掌握している訳ではない。

 主任は、『五島教授』に何とかしてもらおうと判断したのだ。

 困ったときの『五島頼み』だ。

 もちろんそんなことは山田の母親には分からない。気合いをはぐらかされた気分だ。

 しかし、後日の話し合いを渋々了承し、目をつり上げながら高橋教授の研究室を後にした。

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