第7話 秀才美少女

 高橋教授の講義が始まる時間だ。だが、時間になっても先生は姿を見せない。

 中村彩は、後年、鵜の木学園三大美人の一人と謳われることになる。入試でトップの成績だったとの噂も飛んでいる。

 彩がメガトンに話し掛けた。

「どうしたのかしら、高橋先生。いつもなら、とっくに高橋節がうなる時間よ」

 メガトンが、いつものようににこにこして答える。

「高橋先生、いかめしいけれど、結構そそっかしそうよ。おなかを出して寝たのじゃないかしら。それで夏風邪でも引いたのよ。……きっと、そうだわ」

「まさか。……あの鉄人が風邪なんて引くものですか」

 教室がざわついている。それを静めるかのように本多准教授が急ぎ足でやって来た。

 そして白板の前に立った。

「高橋先生より今日は休講との連絡がありました」

 本多准教授の言葉に教室がどっと沸き上がった。

「補講の日時は、後日、掲示するそうです」

 すると、教室の熱気が一気に冷めた。補講は学生が揃うことが出来る土曜日しか考えられないのだ。

 クラスで色の一番黒い浜口真一が発言した。

「高橋先生、どうしたのですか?」

「今、田園調布警察にいるみたいです……」

 本多准教授の答えに浜口真一が素早く反応した。

「ひょっとして高橋先生、痴漢で捕まったのですか? それとも盗撮? もしかすると援交がばれた」

 間髪入れず山田秀明が、きわめて論理的な考えを披露した。

「高橋先生が捕まるようなヘマをやるわけないだろう。シンちゃんとは違うのだ」

 すると浜口が反論した。

「いくら高橋先生だって、いつもうまくやるとは限らないさ」

 苦笑しながら悪たれ二人を相手にせず、本多准教授が状況を説明した。

「学科主任の河崎先生も一緒のようです。高橋先生がチューター(学生生活上の指導や相談に応じる係り)を務める学生に、何かあったのだと思います」

 すると重苦しい雰囲気が教室に垂れ込めた。

 でも田園調布警察にお世話になったことのある浜口とメガトンは、『大したことにはならないに違いない』と、気にも留めていない。

 本多准教授の姿が見えなくなると、浜口がメガトンに誘いを掛けた。

「メガトン。……少し早いけれど、お昼にしない?」

 浜口が一緒に食事をしたいのは、メガトンではない。彩だ。

 浜口には絶好のチャンス到来だ。

 そうとは知らずメガトンは素直に答える。

「そうね。時間が中途半端だものね。彩、一緒に行かない?」

 男子学生は彩には声を掛けにくいのだ。美人過ぎて、どうしても遠慮してしまう。その点、メガトンなら全く問題はない。

 肌寒いくらいに冷房の効いた校舎を出ると、七月の夏の暑さが迫ってきた。

 美人同伴のため、浜口と山田はいつもと違い無口で神妙だ。その堅さをメガトンがほぐした。

「暑いわ。わたし、暑いのも寒いのも嫌いなの。でも、暑い方が苦手ね。だって、わたし、背が低いからお日様の照り返しに弱いの」

 浜口がメガトンの軽口に応じた。

「でも、うちの大学、鵜の木駅よりは涼しいぜ。なあ、ヤマちゃん」

「そう。ここは駅より二、三度は低いな」

 輝くような肌の彩が形の良い小さな口を開いた。

「キャンパスは緑が多いわ。それに多摩川が空気を冷やしてくれるのよね」

 浜口と山田は暑さなんて吹き飛んだ。

 彩のような美人と歩くのさえ生まれて初めてだ。彩の美しい声を間近で聞いただけで舞い上がっている。

 緊張した二人がメガトンにはおかしかった。そして寂しかった。

(わたし、みっともないのに、子供の頃から慣れているはずよね。でも、この二人の態度は、なーに。彩に圧倒されているわ。

 ……でも、いいか。気軽に誰もが、わたしには話し掛けてくれるのだから……)

 しかし、メガトンに思わず愚痴が出た。浜口と山田に抗議した。

「わたし、女性を『美醜』で判断してはいけないと思うの」

 頭の回転の速い山田が厳かに混ぜっ返した。

「人間は自分が有利となる考えを持つ!」

 メガトンが大きな目を怒らし再抗議した。

「それ、どういう意味? ヤマちゃんは、わたしが、『ブス』だって言いたいの?」

「僕は、ただ一般論を述べただけさ。特定の女の子の『美醜』にコメントしたわけではないよ」

「わたしだって、ママさんみたいな美人に生まれたかったわ。でも、神様は意地悪だったの」

 メガトンの言葉に山田は黙り込んだ。言葉に真実味がこもっていると感じたのだ。

 一方、浜口は本当はしゃべりたかった。

「ヤマちゃん、うっかり本音を漏らしちゃったね。メガトンに『ごめんね』を言ったら」

 と。

 でも、どうにか自制した。

 とびきりの美人と自覚している彩は、『山田が正しい』と思った。とは言え、賛成意見を口に出すのは、さすがに控えた。

 山田はハンサムで切れ長の眼をしていた。それに、すらりとした長身の持ち主だ。それなのに、不細工と自認するメガトンの気持ちが分かった。

 けれど、メガトンを慰める適当な言葉が見付からない。

 会話が途切れたまま四人は食堂に入った。

 がらんとした食堂は、まだ昼食の準備で忙しい最中だ。他に学生の姿は見えない。四人が談笑するにはよい空間だ。

「ねええ、彩。あと一ヶ月足らずで定期試験ね」

 メガトンが途絶えた会話の口火を切った。素早く浜口が反応した。

「俺、高橋先生の授業、全然、分からない。ヤマちゃんは理解出来ているのかい?」

「高校生時代、僕は数学が得意だったのだ。授業は何の苦労も無しにスラスラ分かったし……」

 浜口が山田に先を促す。

「今はどうなのだい?」

「大学に入って、先生の話についていけないのはショックだな」

 メガトンは、いつものようににこにこしている。

 うらやましそうに山田の目を見つめると、いつもと違うのんびりした声を漏らした。

「わたし、高校生の時も授業は分からなかったわ。だから今さら分からなくても気にならないの。高校の授業がスラスラ分かったなんてヤマちゃん天才かもよ」

「馬鹿なこと言うなよ。……僕が天才なら、先生の話はすぐ分かるはずだよ」

 メガトンは山田を天才と見なしたいようだ。さらに続けた。

 高校生の時の体験から語る。

「スポーツだって、他人のプレーを見て、すぐにまね出来る天才はいるわ。でも、高度な技は何度も繰り返し練習しないと天才でも習得は難しいわ」

「僕、スポーツは苦手だけれど、メガトンの言うこと何となく理解出来るな」

「……わたしなんか未だに高校の数学もよく分からないの。微分、積分なんてチンプンカンプンよ」

 山田はメガトンの言葉に少し自信を取り戻した。

「僕、特に微分、積分は大好きだった。でも、今は後悔している。何で数学科なんかに来たのだって」

 浜口が山田の意見に賛成した。

「俺もさ。高橋先生の授業は理解不可能だ。ε(イプシロン)とか、上限(sup)とか、いったい何なのだ」

 メガトンは安心した。

(自分だけが分かっていないのではない。理解出来ないで悩んでいる仲間が一杯いるのだ……)

 浜口が遠慮がちに数学を話題にした。

「中村さんは上限(sup)が理解出来ますか?」 

「簡単だわ。上限って、数直線上の集合(集合は、0より大きく、1より小さい数の全体のような数の集まり)の右端の点のことよね」

 彩が自信を持って答える。 

「えっ! 右端!」

 同時に三人が驚いた。

「負の数(0より小さい数)全体の右端は、0でしょ。だから、この場合、上限は0だわ」

 彩が、すらすらっと解説した。

 この解説のおかげでメガトンは上限が少し分かった気になる。

 もっとよく分かろうとメガトンは彩に尋ねる。

「上界と上限は、どう違うの?」

 彩は明快に解説する。

「1や2は、どんな負の数より大きい値ね。だから、0も、1も、2も、負の数全体の上界。これは分かるわね」

「うん、分かるわ」

 メガトンがうなずくと彩が続ける。

「上界のうち一番小さな値が上限。これは定義ね。つまり、1や2は0より大きいから上限にはならない。それに、0より小さい数は上界にはならない。だから負の数全体の上限は0」

 彩の説明についていけないメガトンが、さらに尋ねる。

「なぜ負の数は上界にならないの?」

 彩は、あたり前と思っていることをどう説明して良いのかと少し考えた。そして、形の良い口を開いた。

「どんな負の数を考えても、それより大きな負の数が必ずあるわ。例えば、Aが負の数とするでしょう。そうしたら、その半分も負の数よね」

 ここで、山田が頭を鋭く回転させて彩を補足した。

「0は負の数全体の上界の一つ。だから、0より大きい数は、上界だけど、上限にはならない。負の数は上界にすらならない。中村さんは、こう言いたいのだと思うよ」

「その通りだわ。山田君」

 さらにメガトンは質問を重ねる。まだ理解出来ないのだ。

「ねええ、上限と最大値は違うの?」

 彩は自信を持って答える。

「数直線上の集合の右端の点が、その集合に含まれれば最大値。もちろん上限でもあるわ」

 山田が応じる。

「0以下の実数からなる集合の場合、0は最大値で、同時に上限。0未満の実数からなる集合の場合、0は最大値ではないけれど上限。そうだね中村さん」

「その通りだわ」

 二人の話についていけない浜口がぼやいた。

「最大値と上限を区別して何の意味があるのだろう? どっちでも、いいじゃないか。ただの言葉の遊びにすぎない。なあ、ヤマちゃん」

「シンちゃん、その通りかもしれない。でも、中村さんのおかげで、僕にも何となく上限の意味が分かってきたな」

 山田の意見を聞いて、浜口が彩に尊敬のまなざしを向けながら尋ねる。

「だけど、『上界を有する実数の集まりには必ず上限がある』というのが、どうして、『実数の連続性』を表しているのだろう。俺には理解不可能だなあ。中村さんは分かりますか?」

 彩がすかさず答える。

「それは覚えた方が早いわ。覚えていれば試験には困らないわ」

 浜口が彩にしつこく尋ねる。

「実数全体は数直線を覆い尽くしている。それが実数の連続性でしょう。当たり前のことをなぜややこしく定義するのだろう?」

 答えにくい質問に彩は沈黙した。

 代わりにメガトンの大きな瞳がさらに広がりキラキラ輝き出した。

 おもちゃを見つけた赤ちゃんのような笑顔で浜口に答える。

「彩のおかげで少し分かったわ。『実数の連続性』って、シンちゃんの言う通り、『数直線を実数が埋め尽くしている』ってことよね」

 反応の無い三人にメガトンは問い掛ける。

「でも、数直線に抜けがあったら、どうなるのかしら?」

 三人は無邪気なメガトンの笑顔がまぶしい。メガトンはとてもうれしそうだ。

 浜口がそんなメガトンに質問を発した。

「抜けって何だ」

「例えばこの世に0が存在しないとするでしょ。すると、負の数全体は、彩が言ったように1や2を上界に持つわね。でも、上限は存在しないわ。だって、この世に0が存在しないのですもの」

 三人は、メガトンが忽然と今、『実数の連続性』の意味を悟ったのだと思った。しかし、歓喜に溢れたメガトンの言っていることが理解出来ない。

 メガトンは三人があっけに取られているのに気付かない。

「ねええ、彩。どうやって上限は右端の点のことだなんて思いついたの? 彩は天才だわ」

 畏敬の念を持ってメガトンは彩に尋ねる。

 彩はあたりまえそうに答える。

「試験で、『上限を求めよ』って問題、どうやって出ると思う? 負の数全体とか、何かの条件を満たす実数を、まず、与えてくるはずだわ」

 浜口が相づちを打つ。

「それはそうだ」

「そのとき上限を求めるのに上界なんかを考えていたら正解に行き着けないわ。行き着けたとしても時間が掛かるわ。右端の点と覚えておけば、すぐ解答出来るわ。ちがう?」

 彩の答えは単純明解だ。

「それに、わたし、極限の定義 [注3]も理解出来ないの。どうして任意の正の数ε(イプシロン)なんか使用しなければ、いけないのかしら? 『限りなく近づく』の方が断然分かりやすいわ」

 メガトンは、天才『彩』なら疑問を解消してくれるのに違いないと、勢い込んで率直に尋ねる。

「そんなのは覚えればいいのよ。それで何も困らないわ。そんなことに悩むなんて時間の浪費だわ」

 今度もそう答えた彩には、メガトンが何を悩んでいるのかまるで分からない。

 浜口と山田は高揚していたメガトンの気が一気にしぼむのに目を見張った。

 そして、外見に似合わずメガトンがロマンチストであることにびっくりした。

(彩はわたしとは全く別の世界に住んでいる)

 そう実感したメガトンの失望は大きかった。

 山田はメガトンの意外性に驚いた。

(ひょっとするとメガトンは、これから、心も体も大きく伸びるのかも知れない。

 まるで恐れを知らない子供のようだ。

 確かに高橋先生は、僕らに何かを懸命に伝えようとしている。もっとも僕には、今のところまったく理解出来ない。

 けれど、メガトンはそれを必死に追いかけている。僕と違ってメガトンには、ひたむきさがある。僕も頑張らなきゃ)

 山田は彩の答えに悄然としたメガトンがかわいそうだと思った。色白で健康な赤ちゃんのような肌を持ったメガトンを保護したい気分だ。

 気まずい沈黙が四人を支配した。同じ大学に通い同じ科目を学習している四人だ。

 でも、それぞれ微妙に思いが違うのを感じたのだ。

 彩は、『自分の頭の良さの証明のために良い成績を残したい』のだ。学年トップを目指して勉学に励む秀才だ。試験に出そうな箇所を鋭敏に嗅ぎ分ける独特の嗅覚の持ち主だ。

 山田は、『学者になりたい』のだ。『数学が好き』なのではない。『数学者』になりたいのだ。

 浜口は、『よい就職先を見つけたい』のだ。『数学なんか世の中に出たら使うはずがない』と信じて疑わない学生だ。でも、就職するために、『大学卒』の肩書きがほしいのだ。

 メガトンは、『未知の世界をかけずり回り、面白いものに触れたい』のだ。面白いものの候補として、『ママさんの大好きだった数学』に期待しているのだ。

 食堂がざわつき始めた。講義の時間が終わったのだ。

 さいわい四人は食堂が混む前に料理ののったトレーをテーブルに置いていた。

 彩はトマトジュースをストローですすりながらミックスサンドをゆっくり上品に食べる。

 トレーに大盛りの天丼とお新香の盛り合わせを載せた男子学生が空席を探している。その視線が彩を捉える。すると、思わずお茶をこぼしそうになる。彩を見た瞬間、美しさにびっくりしたのだ。

 山田は器用にナイフとフォークを使用してサーロインステーキと取り組む。食べる動作に無駄がない。

 浜口は大盛りのカツカレーに鶏の唐揚げ一皿が昼食だ。

 彩より早く食べ終わった浜口に山田が問い掛ける。

「シンちゃん、今日はデザートを食べないのかい?」

 山田は浜口のデザートの定番が『ラーメン』なのを知っている。

「俺、さっきからやはりラーメンも注文すべきだったと後悔しているのだ」

 浜口の返事を聞いてメガトンがにこりとする。喜怒哀楽が正直に顔に出るのだ。

(彩に遠慮して、今日のシンちゃんはラーメンを諦めたのだ。それをヤマちゃんは、からかっているのだ。でも、シンちゃんは、からかわれているのに気付いていないみたいだ)

 そう判断してメガトンは笑みを漏らした。

 味噌汁付きの豚肉の生姜焼き定食は安上がりだ。SSサイズのライスを頬張るメガトンは、いかにもおいしそうに食べる。

 メガトンだけまだ食べ終わっていない。

 メガトンはゆっくりゆっくり食べる。

 浜口はテーブルの向こうにすわる彩と目が合った。それに上気した浜口は、はす向かいのメガトンに話しかける。声が少し上ずっている。

 何か話さないと息苦しいのだ。

「メガトン、どうして今日はお子様ランチにしなかったのだい?」

 メガトンの黒ぶちの大きな眼鏡の底がぎらりと光る。その光に山田が反応する。

「メガトンは洋食より和食がお好みみたいだ。そう言えば、今日は、お子様和定食はメニューにないみたいだ」

 メガトンは箸を置いてテーブルの向こうの山田に反論する。

「私は立派な大人よ。もうお子様定食の歳じゃないわ」

「僕はメガトンがお子様定食を食べたがっているなんて言っていない」

 浜口が合いの手を入れる。

「そうだ! ヤマちゃんは、『今日は、お子様和定食はメニューにない』って言っただけだ」

「それに……」

 山田の更なる挑発にメガトンが引っかかる。

「それに、何なの?」

 山田が澄まして答える。口元が笑っている。

「戸籍上の年齢と肉体及び精神年齢は必ずしも一致しない」

 メガトンもさすがに今度は山田の挑発にのらない。

「きっと、それも一般論だって言いたいのね」

「その通り! 今日はメガトンと意見が一致して僕はとても嬉しいよ」

 彩は終始にこやかに三人の会話に耳を傾けている。

 彩は確信している。

(私は美人の上に、とびきりの秀才よ。私をからかえる男性なんて現れるはずないわ。

 私とは逆に、メガトンはみんなに気安く可愛がられる存在ね。

 羨んだらいいのかしら? それとも憐れんだらいいのかしら?

 どちらにしても私の引き立て役としては最高ね)

 こうして鵜の木学園理工学部数学科に仲良し四人組が誕生した。


[注3] 数の列a(n)が、実数aに収束するとの極限の定義。

 任意の正の数ε(イプシロン)が与えられたとき、少なくとも一つの自然数Nが存在し、この自然数Nより大きいすべての自然数nに対して、a(n)とaの差の絶対値がεより小さい、つまり、a(n)とaの差が、±εの範囲に収まる。

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