第6話 苦悶の日々

 メガトンが大学に入って、すでに二ヶ月近くが過ぎた。

 とっくに講義は『解析概論』の第二章に入っている。

 それなのにメガトンは教科書の最初の数ページで跳ね返され続けている。

 メガトンは母に疑問を抱き始めた。

(目の前を漢字と平仮名が素っ気なく通り過ぎていく。でも何も語りかけてはくれない。知らん顔をして、ただ通り過ぎていく……。

 ママさんは、どうしてこんなものがおもしろかったのかしら?)

 今日もメガトンは図書館にこもっている。

 いつものように机の上には『解析概論』が開かれている。

 五月下旬の多摩川からの風がメガトンの背中や首を撫でていく。

 今日は汗ばむ天気だ。そのせいか気持ちよく感じる風だ。

 河川敷のグラウンドで汗を流す運動選手の歓声が風に乗って伝わってくる。ラグビーの練習に励む男子高校生の元気な声だ。

 元気な声に励まされるようにしてメガトンは気合いを入れ直す。

(いつもと同じことをやっていては先に進まないわ。何か別のことをしなきゃあ。頭で理解するのはわたしには到底無理なようね)

 高校に入学したての頃のバドミントンクラブの練習をメガトンは思い出した。

(そう言えば、毎日素振りの繰り返しだった。軽々とラケットを振る先輩の素振りからは空気を引き裂く金属音が飛んだ。

 わたしの素振りは空気抵抗に完璧に負けていた。何の音も出なかった。

 でも諦めずに素振りを繰り返した。おかげで冬休みにはラケットがシャトルにきちんとヒットし始めた。

 ……工夫をしながら基本を丹念に繰り返すことが大事。

 数学もきっとそうだわ。

 そう信じて進むしかない!)

 鉛筆を取り出したメガトンは、『解析概論』に書かれた定義を丁寧に書き写す。

 メモを取りながら本を読むのはメガトンにとって初めての経験だ。

 書き写してみたけれど、やはり意味は分からない。

 何度繰り返しても結果は同じだ。

 でも、ため息をつきながらもメガトンは諦めない。

 今度は本を見ないで定義を書き始める。しかし、きちんと書けない。覚えていないのだから無理もない。

 仕方がないので本を横目に書き直す。やがて正確にすらすらと書けるようになった。

 すると、意味は分からないながら定義に親しみが湧いた。

 この作業を別の定義にあるいは定理に広げていった。分からないことに変わりはなかった。しかし、少しずつ何かが動く手応えを感じ始めた。

 定理の証明も丁寧に書き写した。次に、本を見ないで証明が再現出来るまで何度も何度も写しては書くことを繰り返した。

 内容は全く理解出来ないけれど、『解析概論』に慣れ親しみ始めた。

 図書館にメガトンの指定席が出来た。

 毎日同じような作業が同じ席で同じような表情で繰り返された。

 メガトンの両眼がらんらんと輝いている。回りの音がまるで聞こえていない。集中しているのだ。

 やがて証明の細かなところが何とか解読出来るようになった。

 だが、証明の一行一行は分かるのだけれど、全体で何を言っているのかは相変わらず理解出来なかった。

 そして、第一章の最後に遂に到達した。

 しかし、高木先生が日本の若者に伝えたかったことが何かは皆目見当も付かなかった。

 そのうえ、『解析概論』を執筆した当時、高木先生が『整数論』の大家として世界的に認められた大数学者だったこともメガトンは知らなかった。

 大数学者の折角の労作が、メガトンには、ただの無味乾燥な紙切れだった。

 メガトンの『なぜなぜ病』は重症になっていった。

 メガトンは今日も悩んでいる。

(実数の連続性 [注1] なんて何のために必要なの?

 それに極限(数列の収束) [注2]の定義は、『限りなく近づく』が素直だわ。

 この『正の数ε(イプシロン)』を使用した極限の定義はどうして必要なの?

 なぜ、こんな変な定義が必要なの? なぜなの? こんな定義、変態だわ。人心を惑わす世迷いごと。わたしには、そうとしか思えない!)

 メガトンの頭の中で、定義、公理、定理、証明がぐるぐる駆け回る。

 しかし、実体が全く見えてこないのだ。全体の流れが理解出来ないのだ。

 メガトンはベルトコンベアに乗せられて真っ暗闇の中を動かされている気分だ。

(風景が見えない。どこからどこへ向かっているのか分からない。でも、確かに動いている。それだけは感じるわ。

 ……わたしはどこにいるの? どこに行くの? 不気味だ!)

 でも、数学科の同級生からは悩んでいる表情がうかがえない。

 みんな質問もせず平然と講義を受けている。

 メガトンは、『自分だけが馬鹿だ』と悲しかった。

(みんなは、こんなのすいすい分かるのよね。どうしてわたしだけだめなの?

 わたし、ママさんのような頭のよい子に生まれたかったな。でもママさんは、きっと特別なのよね)

 メガトンは数学者になりたいわけではない。良い成績を取りたいわけでもない。ただひたすらにメガトンは願っていた。

(ママさんが大好きだった数学は、おもしろいのに違いない。美しいに違いない。ただ、それが、今のわたしにはさっぱり分からないだけ……。

 待っていてくれるわよね、ママさん。わたしもいつか少しは分かるようになるわ。そうしたら、ママさんとまたお話が出来るわよね。そうよね、ママさん)

 メガトンは入学直前の三月に息を引き取った母と会話を再開したいのだ。

 その最良の方法は、『数学のおもしろさを二人で分かち合う』ことだと信じている。

 メガトンが毎日図書館に運ぶ『解析概論』は母の形見だ。

 しかし、数学はメガトンにやさしくはなかった。

『実数の連続性』も、『極限の概念』も、誰もがぶつかる最初の関門だ。この関門を突破出来ずに数学から離れていく学生が大半なのだ。

 メガトンはそうとは知らず、がむしゃらに正面から関門にぶつかり跳ね返され続けた。

 メガトンに自覚はない。だが、暗闇に光が差し始めていた。もっとも濃霧が立ちこめあたりが見えないのに変わりはない。

 そんなメガトンだが、高校生時代バドミントンクラブの一員として汗を流した体は知っていた。

(わたしは毎日ラケットを握り素振りを何百回となく繰り返した。フットワークの練習も足腰が立たなくなるまで繰り返した。

 一年が経ち二年が経ったとき、わたしは変身していた。それまで不可能と思われたことが、まがりなりに出来るようになった)

 それを思い出したメガトンは諦めない。結果が出なくても、まっすぐ前を見続ける。

(他人がやることを眺めているだけでは駄目。真似して体を動かしているうちに何とかなるはずだわ。

 数学もバドミントンと同じだといいのだけれど。

 ……くよくよ心配してもしょうが無いわ。まずは繰り返し真似するのみ!)

 一方、ひったくりの疑いの晴れた浜口は、機を見るに敏だった。小難しいことに首を突っ込まずに卒業するうまい方法はないかと、あたりをキョロキョロ見回していた。

 頼りになる同級生を鵜の目鷹の目で探している。

 メガトンとは正反対に、浜口は要領のよさでは天才肌だ。でも、潜在能力はあるにしても当面の数学の学習には全く向いていなかった。

 数学や鵜の木学園を呪う浜口だが呪いきれなかった。

(数学は理解不能だ。それに大学の先生は教育者としては無能だ。少しは分かる話をするべきだ。

 こんな大学、早く潰れればいい。

 でも、我慢も人生では大事なのかも知れない。

 中村彩さんと少しでいいから話をしたい。世の中にはあんな素敵な美人もいるのだ。信じられない! 本当に地球で生を受けたのだろうか?

 中村彩さんと巡り会えたなんて奇跡に近い。鵜の木学園は素晴らしい出会いを与えてくれた。この奇跡を上手に発展させなければいけない。

 でも、どうしたらいいのだ?

 そうだ、『友達の友達は、友達』だ。これは絶対不変の永遠の真理だ!

 我慢してあの小生意気な早口の女の子と付き合ってみよう。そうすれば、中村彩さんと話すチャンスが来るかもしれない。

 でも、チャンスが来なければ全くの無駄作業だ。

 そうだ! 俺は、心が広いのだ! たとえ無駄作業になろうとも、メガトンを俺様の友達の一人にしてやろう。これは特別待遇だ!)

『かわいい』や『きれい』に惑わされやすい浜口は、女子学生を『あこがれの対象』か『からかう対象』かのどちらかに判断しがちだ。

 一方、男子学生を見極める浜口の眼力は確かだ。期待以上の『友人選び』の成果に小躍りすることになる

 浜口も浜口なりに必死に努力しているのだ。


[注1] 実数の連続性。

 数直線は実数で埋め尽くされていることを実数の連続性という。なお、関数の連続性における「連続性」とは異なる意味である。また、実数の連続性は、実数の完備性ともいう。

[注2] 数の列a(n)が、実数aに収束するとの極限の定義。

 任意の正の数ε(イプシロン)が与えられたとき、少なくとも一つの自然数Nが存在し、この自然数Nより大きいすべての自然数nに対して、a(n)とaの差の絶対値がεより小さい、つまり、a(n)とaの差が、±εの範囲に収まる。




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