第5話 ひったくり
被害者である美人のお姉さんを前に、取調室に連行された浜口真一は、たじたじだ。
大学生になった浜口は、『大人になった』つもりでいた。
だが社会人になって数年たった様子の被害者は、学生とは違った大人の魅力を醸し出している。
「ぼんやり歩いていた私も悪いのです。それに、お財布には、たいしたお金は入っていませんでした。もし使ってしまったのなら、お金は返して頂かなくても結構です」
被害者は人目を引く美人だ。寛容そうな表情で要求事項をはっきり言う。
「でもバッグにしまっておいたUSBメモリーには、とても大事なデータが入っています。これさえ返して頂ければ、被害届は取り下げます。お願いですから返してください」
さらに被害者は、しおらしく浜口を口撃する。
「お尻を撫でたのも、二度とやらないと誓ってくれたら許してあげます」
歯切れよく明るく追及してくるお姉さんに、浜口は戸惑いながら反論を繰り返す。
「俺、そんなことしていないよ」
しかし、状況は浜口に不利だった。目撃者もいたのだ。
穏便に早く決着を付けようと、取調官はやんわり問い掛ける。
「早く返してあげなよ……。君、鵜の木学園の学生さんだろ。このままじゃあ明日の授業を受けられないよ。今夜は泊まりになってしまう」
だが気が動転している浜口は、何度も同じことを言い張るだけだった。
「やっていない」
事態に進展は見られなかった。
被害者も、浜口も、取調官も、やがて黙り込んでしまった。
それから、一時間が経過した。
「やあー、先生。お久しぶり」
取調官が立ち上がって挨拶をした。
坐ったまま浜口が振り返ると、ダークグレーの背広姿が目に入った。白髪が年齢を感じさせる。だが、芯の強い優しさが表情や肩から発散している。背筋が伸び、かくしゃくとしている。
浜口は当面の心配を忘れてしまった。
(俺、こんなさわやかな雰囲気のおじいさんになれるかな……。でも、誰だろう?)
だが、すぐに現実の世界に引き戻された。
「君、見かけないけど、新入生?」
「はい、数学科の浜口真一です」
「僕は、五島。偏微分方程式が専門だけれど、何のことか分からないよね」
「はい。分かりません。まだ、習っていません」
そう答える浜口を五島教授は、
(悪いことが出来そうにない素直な学生だな)
と思った。
五島教授は親切だ。初対面の学生に、まずは数学を学ぶ上での厳しさを語る。
「習っても分からないことの方が多いのだよ。それに、そのうち気付くだろうけれど……。それはまあ、ともかく。本題に入ろう。何の嫌疑?」
取調官が要領よく状況を報告した。
「三週間前の夕方のことか……。その日、講義は無かったのかい? 浜口君」
「水曜の講義は四校時で終わりです」
「すると四時で講義は終了か」
「はい」
「被害者の申し立てによれば、事件は五時半頃です。講義受講後の出来心と考えてもおかしくありません」
「でも、俺、本当にやっていません。嘘なんかついていません」
五島教授は、ゆっくりした口調で、やさしく浜口に語り掛けた。
「浜口君は、『自分は悪いことをしていない。だから必ず分かってくれる。弁明なんか必要ない』って思っているのと違うかな」
浜口の戸惑った顔に不安な表情が浮かんだ。その表情を見て五島教授が畳み掛ける。
「窃盗や痴漢行為は停学処分になるのを知っているかい。停学処分になると講義は受けられない。この結果、出席日数不足で単位は取れない。つまり留年だ。そんなの嫌だよね。だったら何とかしなきゃ」
そう言われても身に覚えのない浜口は返事が出来ない。
「三週間も前で記憶ははっきりしていないかも知れない。けれど、その日のことを思い出すのだ」
五島教授は丁寧に浜口の記憶をよみがえらせ始める。
「その日のお昼御飯は何を食べたの?」
「すいません。覚えていません」
「どこで食べたの?」
「学食(学生食堂)」
「だれと一緒だった?」
「山田」
「帰りは山田君と一緒じゃなかったの?」
「いつもは一緒だけれど、その日は別だった」
「どうして?」
しばらく考えて浜口は答えた。
「えーと……。学部の新入生歓迎会に僕は出ました。でも山田は、まっすぐ帰りました」
「歓迎会はどこであったの?」
「学食(学生食堂)の二階」
「何時頃?」
「五時頃から始まって、みんなで慣れない校歌を歌って解散したのが七時頃」
被害者のお姉さんが豊かな胸を揺らせながら疑義を唱えた。
「でも五時から七時まで、歓迎会にずっと出席していたとの証拠はないわ」
「出席していなかったという証拠だってないや。そんなの言いがかりだ」
「浜口君の主張はもっともだ。でも感情的にならずに証拠を探そう」
浜口を犯人とほぼ断定していた取調官が、五島教授の顔を立てる発言をした。
「ずっと出席していたと証言してくれる人は、誰かいないのですか?」
「歓迎会にうちの学科の学生は他にいなかったのかい?」
五島教授の質問に浜口は考え込んでいる。
やっと口を開いた、
「入学したばかりで顔も名前も分からなかった。だから証人と言われても……。俺、思いつかない」
さらに考え込んだ浜口に被害者の冷たい視線が突き刺さる。
(証人なんかいるはず無いわ。さっさと白状したらどうなの。早く私のUSBメモリーを返して)
五島教授が、とげとげしい雰囲気とは場違いののんびりした口調で尋ねた。
「自己紹介の時間かなんか無かったのかい。一人ぐらい、『数学科の誰それ』と、自己紹介をした学生がいてもよさそうだけれど……」
「俺が、したけれど」
五島教授が語気を強めた。
「俺じゃあだめだ!」
二人のやりとりにお姉さんがクスッと笑った。
浜口は美人を前にして落ち着かない。それでも一生懸命に思い出した。
「えーと。そうだ。度の強そうな黒い大きな眼鏡を掛けた小さな女の子がいた。でも名前は覚えていない」
「まん丸い顔の中学生みたいな女の子?」
「そう。とても早口で、よくしゃべる女の子だった」
浜口の答えを聞くと五島教授は取調官に囁いた。
「その女の子、まだ学校に残っているか、事務室に問い合わせて来ます」
五島教授は携帯電話を取り出しながら足早に部屋を出て行った。
そして足早に帰ってきた。
「どうでした? 証人になりそうな学生さんは見つかりましたか?」
取調官の問いに浜口が緊張している。
(まだ大学に、あの女の子、残っていてくれればよいのだが……)
浜口は、お高祖頭巾のように黒髪で顔を隠した女の子のことを今ははっきり思い出していた。
五島教授が穏やかな口調で答えた。
「学科の事務の女性に探してもらっています。緊急連絡先にも電話を入れるように指示しました。それに、学内にいるかも知れないので、構内放送で呼び出しをかけてもらっています。何か分かったらすぐに電話してきます。とにかく待ちましょう!」
電話がくるまで被害者と容疑者のやりとりは休戦状態である。
取締官もやることがない。それでも五島教授に念を押した。
「では、それまでは連絡待ちですね。ところで、容疑者のアリバイを証明する学生さんのお名前は分かっているのですか?」
五島教授は自信ありげに答える。
「はい。幸い特徴のある学生でしたので、すぐ分かりました。ところでお嬢さん、お名前を伺っていなかったのですが、お聞きしてもいいですか?」
「嵯峨と言います。学生の時、先生の講義を受けました。私のことを覚えていらっしゃらないのですね」
「数学科にこんな美人がいた記憶は無いのだけれど……。ずいぶん僕も耄碌したものだ。正直、覚えていないな」
「百人くらいのクラスでしたから、覚えていらっしゃらなくても無理もありませんわ。それに十年近く前のことですから」
「百人と言うと全学(教養)教育かな?」
「はい、そうです。とても分かりやすい講義でした」
嵯峨の発言に浜口が驚きの声を上げた。
「数学の授業は、みんな『ちんぷんかんぷん』なのに、『分かりやすい』だって!」
浜口の驚きの声を無視して嵯峨は懐かしそうに微笑む。
「先生の講義の出だし、今でも覚えています」
「どんな、だったかな?」
「『馬鹿』を『馬』か『鹿』がいる、と定義する。『馬鹿の反対は、なーに?』でした」
「浜口君だったら、なんと答えるかな?」
五島教授の質問に、浜口より先に取調官が答えた。
「『馬』も『鹿』もいない、ですか」
五島教授が満足そうに頷く。
「正解です。浜口君、この答えを数学的に解説してくれないかな。高校で習っているよね」
「うん。でも、これは尋問に答えるより難かしいや。えーと、『どちらか一方がいる』の否定だから、『どちらもいない』、つまり『両方ともいない』だ」
「そう、OR(論理和、または)、AND(論理積、かつ)、NOT(否定)の基本的な性質だね。浜口君は、さすが数学科の学生だ。よく理解しているね」
美人のお姉さんは五島教授の講義をよく覚えていた。
「でも先生は、さらに真理表(正しいか、間違っているかの関係を示す表)を使って、いろいろなことを証明してくださいました。こんなことまで証明出来るのかと、あの時、正直、びっくりしました」
浜口が嵯峨の話に興味津々の表情だ。
「それに、練習問題で出た『三段論法は正しい』との証明が出来たときは、とてもうれしかったです」
五島教授が照れたように答えた。
「学生に分かった気になってもらうには、やさしいことを丁寧に説明するのがコツなのです。それにしても十年も前のことをしっかり覚えていてくれるなんて、僕、感激です」
「たしか、『三段論法は正しい』は、NOTとORとANDの定義だけを使って証明出来ましたわよね。それだけは覚えています。でも細かいことは、みんな忘れてしまいました」
五島教授は卒業生の返事に嬉しそうだ。
「そこまで覚えていてくれるとは素晴らしいの一言です」
すると嵯峨が、思い出したように話を続けた。
「そういえば先生は、講義のなかで足し算と引き算しか使いませんでした。でも私、かけ算も割り算も出来ます」
苦笑いを浮かべ五島教授は卒業生をなだめる。
「そう怒らないで。あの講義でも全く付いてこない学生がいるのだから」
「私の同級生にも、『数学なんか分かるはずがない』と決めつけている人が確かにいましたわ。私も、その中の一人だったかも知れませんけれど。……水泳の授業で水を怖がってプールに入ろうとしないみたいな人ですね」
会話が弾んでいるところで取調室のドアがノックされた。
明るい雰囲気に変わりつつあった取調室に再び暗雲が立ち込めた。
婦警に連れられて部屋に入ってきた女の子が、きょろきょろと無遠慮にあたりを見回した。
そして速射砲のようなおしゃべりが始まった。
「わたし、取調室、初めてなの……。おもしろうそう! おまわりさん、どこ? あら、拳銃、持ってないのね。何だ、つまんない。もっといかめしいの期待していたのに」
メガトンのおしゃべりは途切れない。
「それに、まだ手錠していないのね。本物の手錠をしているところ、見たかったな。お姉さん、ナイスバディね。でも、わたし、女性を『バストやヒップの豊かさ』で判断しては、いけないと思うの」
五島教授が長引きそうなメガトンの話に割り込んだ。
「おいおい、林田さん」
「まあ、だれ。わたしのこと、『林田さん』なんて丁寧に呼んでくれる人、ほとんどいないわ。『あのチビ』とか、『このガキ』とか、みんなひどいのよ。レディに対して失礼だわ。わたしだって、はえるものちゃんとはえているのよ」
メガトンは、自分が、
(チビ、ガリガリ、ブス)
の三拍子が揃っていると思い込んでいるのだ。
だから、魅力的な大人の雰囲気を醸し出す女性と対面すると過剰に反応するのだ。いや、反発するのだ。
メガトンの反応に嵯峨が吹き出した。
「あら、何がおかしいの。美人のお姉さん」
「だって、小学生だってはえているわ」
「そうなの? がっかりだわ。わたしも、やっと大人に仲間入り出来たと思ったのに」
意気消沈したメガトンだったが瞬く間に回復した。
「……そう言えば、おじいさん、どこかであったことがあるわ。どなただったかしら。どうして私の名前を知っているの?」
「鵜の木学園の五島だけれど」
「あっ! 思い出した。『男は、みんな狼だ』の先生だ」
すると、嵯峨が学生時代を思い出した。
「私も、それ、五島先生に習った覚えがあるわ」
これを聞いて、まん丸のメガトンの両目が尖った。感じたことを回りの状況を無視して口にするのがメガトンの特徴だ。
「あら、ひどいわ。大学で習うことを、入学試験に出すなんて、あんまりだわ」
入学試験の様子を学外に知られるのはタブーだ。五島教授は即座に話を本題に戻した。
「林田さん。先月の新入生歓迎会でこの学生と一緒だったはずだけれど覚えているかな?」
浜口は思った。
(これで容疑が完全に晴れる)
しかし、意外な展開となった。
「全然、覚えてないわ。この人、いったい、だーれ?」
取調官の目がギラリと光った。
(これでは容疑がますます濃くなる)
恐怖で浜口の体の一部が縮み上がった。
五島教授が嵯峨に確認を取った。
「ひったくりは確かにこの学生でしたか?」
「はい。この特徴のあるシャツを着て鵜の木学園の方に逃げていきました」
「それは俺じゃない」
そう否定する浜口の顔が、さっきより引きつっている。そして、反論を続ける。反論はさっきより具体的だ。
「それにこのシャツは、ゴールデンウィークにバリ島へ行った両親に買ってもらったばかりです。だから、まだ買ってもらって一週間しか経っていません」
五島教授がこの発言に閃いた。
「そう言えば浜口君は、さっき自己紹介で挨拶をしたと言ったね」
「はい」
五島教授が当時を思い出し始めた浜口に質問を続けた。
「どんな挨拶だったのかな? 覚えているといいのだけれど……」
「川崎生まれの、川崎育ちで、子供の頃から、『シンちゃん』と呼ばれていましたって、挨拶したはずです」
これを聞いたメガトンが早口でまくし立てる。
「あら、その挨拶、覚えているわ。……あっ、思い出した。大きな色の濃いサングラスを掛けて医療用の大きなマスクをしていた人ね。あんな格好じゃあ犯罪者に間違えられてもしょうがないわ。どう見たって、人相、最悪!」
「あのときは花粉症に悩んでいたからサングラスもマスクも必須だったのだ」
「でもあの時、どう見ても変質者に思えたわ。もっとも今でも、そんな感じはするわ。人徳ね」
取調官はメガトンに敏感に反応して被害者に問いかけた。
「ひったくりにあったとき、犯人はマスクやサングラスをしていましたか?」
「いいえ、サングラスもマスクもしていませんでした」
浜口に対する取締官の口調が柔らかくなった。
「浜口君。ご自宅にご両親は、今、いますか。ご自宅の電話番号は?」
「俺、ひったくりなんか、やっていません。変なことを家に言っては困ります」
「心配しないで。浜口君が着ているシャツが、いつ買われたのかを確認したいだけです。安心してください」
「母がいると思います」
浜口から電話番号を聞いた取調官は直ちに事実関係を確かめ結果を三人に報告した。
「お土産に買ったバティックのシャツのようです」
メガトンは何にでも興味を示す性格だ。ただちに取調官に質問した。
「バティックって、なーに?」
取調官に代わって被害者の嵯峨が答えた。
「ろうけつ染めのジャワ更紗のことよ。私も卒業旅行でバリ島に行ったとき、お土産に買ったわ。……特徴のあるシャツを着ていたので、犯人、見つけたと思ったのだけれど」
きまりわるそうな嵯峨にメガトンの質問が飛んだ。
「ジャワってバリ島のどこら辺なの。海辺なの? 山の中なの?」
浜口がメガトンの地理音痴を指摘した。
「ジャワは、コーヒーで有名だろ。海辺なはずないじゃないか。山に決まっているさ」
被害者が笑いをこらえながら浜口をたしなめた。
「ジャワ島は、バリ島の西にある大きな島。インドネシアの首都ジャカルタは、ジャワ島にあるの。数学科の学生って、みんな社会科は苦手なのかしら」
数学科全体を馬鹿にされたと、メガトンは目をつり上げて怒った。即座に混ぜっ返した。
「美人のお姉さん、犯人は見間違えるけれど地理は強いのね」
五島教授はメガトンを短気だと思った。同時に、意外と頭の回転が速いのかも知れないと感心した。
そして、延々と続きそうなメガトンのおしゃべを止めるにはどうしたらよいのか悩み始めていた。
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