第4話 最初の講義

 鵜の木学園、理工学部、数学科の新入生四十三名が静かに最初の講義『解析学特論』を待っている。

 お互いの顔が、まだよく分からない。私語もなく教室は静かだ。

 昨年までに単位の取れなかった学生、四十名近くも神妙にしている。

 教室はいっぱいだ。立ち見席が出来ている。でも少し経てば教室はガラガラになる。

 前方のドアが開いた。白衣を着た、いかつい顔の高橋教授の入室だ。

 一言も漏らさず教卓から延びたケーブルに持参したノートパソコンを接続した。壁際のスイッチを押すと、スクリーンがするすると降りてきて教室前方の白板をふさぐ。

 新入生は今から始まる最初の講義に期待と不安がいっぱいだ。高橋教授の一挙一動を見守っている。

 高橋教授がリモコンのスイッチを押した。すると、天井に固定されたプロジェクタがスクリーンを照らした。同時に新入生の講義に対する期待が一気に膨らむ。

 野太い高橋教授の声が教室に響いた。

「おはよう!」

 しかし、学生の反応は鈍い。

 それでも高校生のときに運動部に所属していた学生は挨拶の仕方を心得ている。

「おはようございます」

 元気な大声で返事したメガトンに高橋教授の視線が移る。

(どうやら早口のお嬢さん、無事に入学したようだ。さて、卒業は? もっとも他の学生も俺がいる限り、そうは簡単に卒業させないけどな)

 高橋教授は真剣に心配しているのだ。

(若いうちにしっかり勉強していないと、学生も、学生を受け入れる実社会も困るはずだ)

 でも大半の学生は、面白い講義、楽な試験を期待している。

 そんなことには無頓着に高橋教授が講義の進め方を語り出す。

「この講義では出席は取らない」

「さすが大学だ」

 新入生から歓声が上がる。

「喜ぶのは早過ぎる!」

 ドスの効いた高橋教授の声だ。

「毎回出席していたとしても単位が取れる保証はない!」

「えっ! 全部出席でも落ちるの?」

「当たり前だ」

「そんなのひどいや!」

 男子学生から抗議が出た。新入生の色黒の浜口は、出席さえしていれば自動的に卒業出来ると信じていたのだ。

 ラッキョウのような顔をした浜口の発言に、秀才美少女としてクラスに君臨することになる中村彩が同調した。

「全部欠席の人が合格で、全部出席の人が不合格になるなんておかしいわ。とても不公平だと思います」

 高橋教授は涼しい顔で答える。

「きちんと勉強することが大事だ。出席していても居眠りしているのでは時間の無駄だ。大いびきをかいて他の学生の邪魔になるくらいなら、自宅でしっかり勉強した方がいい」

 良い悪いは別にして、きちんと出席さえしていれば、高校生時代、成績が付いていた学生にとって高橋教授の発言は驚異だった。

「でも、全部出席して一生懸命に頑張ったのに試験で失敗した人はかわいそうだと思います」

 しかし、高橋教授は美少女の発言だからと言って同調したりはしない。さらに強烈に駄目を押す。

「努力は大切だ。でも、努力しても結果が出ないことがある。どうしても結果が出ないのなら、人生を早めに考え直した方が賢明だ」

「それは、さっさと大学をやめなさいと言うことですか? あんまりだわ。アカハラ(アカデミック・ハラスメント)です」

 中村彩が、こう反論し美しい顔をしかめてみせる。彩は、それが十分に人目を引く美しい表情なのを承知しているのだ。

 でも高橋教授は、数学しか美しいと感じることの出来ない朴念仁だ。美少女に見つめられても動じない。

「きみー、大リーガーやJリーガーになりたいと思っているうちに、おじいさんになってしまったら、どうする?……諦めも芸のうちだぞ」

 それを聞いてメガトンが手を上げた。

「何だ。林田?」

 高橋教授の問い掛けに教室がざわめく。

(あの眼鏡、もう先生に名前を覚えられている。どうしてだ?……)

「女の人は、おじいさんにはなれません。それに趣味で、いえ、好きで数学を勉強しては、いけないのですか? 才能のある人だけに数学を学ぶ権利があるのですか?」

 メガトンの素朴な質問に高橋教授は丁寧に答える。

「もちろん下手の横好きで悪いことはない。でも、『これだけ勉強に時間を掛けたのだから単位をくれ』との主張はおかしい」

 色黒の浜口が反論する。

「俺、どうしておかしいのかわからない」

 高橋教授は反論に答える。

「僕は努力に対してではなく、みなさんが身に付けた学力を評価する。もちろん努力しなければ学力は付かない」

 メガトンは悪い評価に慣れきっている。高橋教授の答えを都合良く解釈する。

「それじゃあ、頭の悪い私でも勉強してもいいのね。ナイスだわ」

「構わないよ。高い授業料を払っているのだから、来年も再来年も、ぼくの講義を受ける権利が君達にはある。ただし、学則で、八年で卒業出来ないと強制的に退学だ! 

これは、きちんと覚えておかなければいけない!」

 そう言われても、新入りの学生は高をくくっている。高橋教授の発言を単なる脅しとしてか受け取っていないのだ。

 恐ろしさを実感するのは半年後に成績を見てからだ。震えが止まらなくなるのは、二年後、三年後だ。

 しかし、とりわけ楽観的なメガトンは、わくわくしながら高橋教授を見上げている。何を見ても何を聞いても、楽しい方に勝手に解釈するのだ。

 突然メガトンが場違いな質問をする。

「ママさんが数学は面白いって言っていたわ。先生も、そう思う?」

「僕は林田のお母さんに賛成だ」

「でも、どう面白いの?」

 回答が難しい質問に思えた。しかし、高橋教授はあっさり切り返す。

「それは、林田がしっかり勉強すれば、自ずと分かってくるはずだ」

 去年も一昨年も高橋教授の講義を受けた学生は先生の意見に反対だ。

 無言で反抗する。

(数学なんか二度と勉強したくない。とくに高橋先生の講義は訳が分からない。でも、悔しいけれど卒業しなきゃ)

 そして、話題はテキストに移った。

「テキストは高木貞治先生の解析概論を使用する。早めに買っておくように」

 誰よりも早くテキストを手に入れたい中村彩が質問する。

「先生、どこで売っているのですか」

「テキストとして生協に届けてある。今なら生協で買える」

 剽軽さでクラス一の人気者になる浜口真一が、テキスト代を浮かせる可能性を探って質問する。

「後じゃ駄目ですか」

「去年は定期試験の直前に、『生協で売っていない。……何とかしてくれ』って駆け込んで来た学生がいたなあ。生協では、学期始めでの売れ残りを全部、返本するみたいだ」

 最後列に座る山田秀明から別の質問が出る。学生には切実な問題だ。

「分かりやすい本ですか?」

 すると高橋教授が、にやりと笑い問い返す。

「分かりやすい本って、どんな本だ?」

 メガトンは、いかつい顔の高橋教授が笑顔を見せたので肩を揺らせる。

『鬼瓦が笑った』と笑いこけたいのを必死で堪えている。

 予期せぬ質問に戸惑う山田に代わり、中村彩が形のよい唇を開く。

「要点が要領よくまとまっているとか、練習問題の解答が懇切丁寧とかです」

 高橋教授は視線を切れ長の目の中村彩に移して答える。

「じっくり読むと、味わいのあるテキストだと分かるはずだ。もっとも、すらすら読める学生は、いないだろう。嫌でも、じっくり読むことになる」

 彩は高橋教授の回答が不満だ。質問に答えていないと追及する。

「試験対策用に重要事項が多色刷りで分かりやすくまとめてあると便利なのですが……」

「そんなことは、一切考慮されていないテキストだ。しかし、名著だ」

 彩は高橋教授の回答に納得出来ない。

「どうして、それで名著なのですか?」

 高橋教授は彩に問い掛ける。

「君の名著の定義は何だ?」

 彩は美しい声になるように気を使いながら冷静に答える。

「参考書を探す必要もないくらいに丁寧にまとめてあるテキストが名著だと、私は思うのですが」

 浜口は、

(美女と野獣がやりあっている)

 と、二人のやりとりをニヤニヤしながら見守っている。

 メガトンは先生と美少女の会話に戸惑っている。

(高校生時代、わたしは教科書すらろくに開かなかったわ。まして参考書なんか探したこともない。買ったこともない。

 こんなわたしでも講義に付いていけるのかしら?

 折角入学したのに講義が理解出来ないで、即、退学だなんて惨めだわ。

 でも、きっとなんとかなる。なるはずだわ。だって、わたしはママさんの娘だもの)

 高橋教授は話題を変える。

「高木先生は、『世界的な大数学者』と最初に認められた日本人だ。明治時代にドイツに留学したのだけれど、おもしろいエピソードを残している」

 学生の瞳が輝き出す。難しい話より、聞いてすぐ分かる話の方がおもしろいのだ。

「どこにあるのか分からないような遠い国から、わざわざドイツに数学を勉強しに来た日本人に、びっくりしたのだろうね。ドイツで、いや、世界で数学の最高峰だった先生が、『数学を勉強しに日本人が留学に来たのなら、次は猿が来るだろう』って言ったそうだ」

 メガトンは、『豚より猿の方がマシね』と、にこにこして聴講している。

 話を訊く気になっている学生に、高橋教授は手応えを感じながら話す。

「高木先生、くやしかったのだろうね。……日本の理工学が欧米に追い付くためには、従来の微積分の教科書では駄目だ。『俺が新たに書く』との心意気で書いたテキストが解析概論なのだ。初版は昭和十三年だから、もう古典だね」

 教室にいる学生は、すぐに解析概論が読破出来る気分なっている。これに高橋先生は冷水を浴びせる。

「ただし、高木先生は大天才だから、凡人の悩みは理解出来なかったみたいだ。論理的な思考が苦手な人には解析概論は難解だ」

 すらりとした長身の山田秀明は、微分積分の計算ならスラス出来る。でも、『論理的思考が何か』はさっぱり分からない。不安げに高橋教授に尋ねる。

「論理的な思考は、どうしても必要なのですか?」

 高橋教授は学生の不得手をよく理解している。

「論理的な思考を君たちにすぐ求めるのは無理だ。……だから、解析概論には書いていない論理の基礎は、少しだけれど講義する予定だ。大事なことは、何度も読み返し定義や公理がなぜ生まれたのかを、自分なりに実感することだ」

 秀才を自認する中村彩は、一度読めば何でもすぐ理解出来る自信がある。それだけに、つぎの高橋教授の話に抵抗を感じる。

「苦労して苦労して読破した結果、学力が大幅に向上するのが名著なのだ」

 一方、メガトンはご機嫌だった。

(解析概論は、ママさんが、『おもしろいわ。早く読むといいわよ』と言っていた本だ。これで、ママの大好きだった数学が理解出来る)

 しかし実際は、悪夢のような悪戦苦闘の日々の開始だった。メガトンの唯一の強みは、分からないことに慣れていることだった。苦にしてもいなかった。どうせ、今までもいつも分からなかったのだ。

 とはいえ、高橋教授の最初の講義を受けているのは、今まで数学が得意だった学生が大半だ。素朴な質問が出た。

「定義や公理は、証明の不可能な理論の出発点と教わりました。なのに、どうして定義や公理が理解の対象なのですか?」

「実に、いい質問だ」

 高橋教授が、珍しく学生をほめた。ほめておいて話を進める。

「大天才が定義一を提案した。別の大天才が、翌日、別の定義二を提案した。定義が出尽くしたところで公理一が出た。そして、公理がすべて整ったから、定理の開発に移った。こんなことは絶対にないのだ」

 学生は、何となく分かるような気もするけれど、すっきりしないという表情だ。

 つぎの高橋教授に戸惑いの表情を浮かべる。

「新しい定理が生まれた結果、従来は結論だったものが、定義に生まれ変わることだってあるのだ」

 高橋教授の話は核心に入る。

「数学の理論だって、最初は混沌としているのだ。それを体系化するには、何十年あるいは何百年かの歳月が必要なのだ」

 中村彩は、こんな話は試験に関係ないと聞き流す。

 でも高橋教授の口調は熱っぽい。

「……何を定義にし何を公理にしたら、理論がきれいに体系化出来るかは、理論が完成してみないと分からない。……つまり、定義や公理は、体系化の際の結論と言ってもおかしくない。だから、定義や公理が、なぜ必要かが実感出来ないと、いつまでも数学は、ちんぷんかんぷんなのだ」

 情熱的に語る高橋教授だが、多くの学生は答えがすぐに欲しいのだ。だから、当然のように反発する。

 まず、色黒の浜口が質問する。

「先生! ……定義や公理がなぜ必要か、どうしたら実感出来るのですか?」

 先生が答える前に、中村彩が現実的な質問をぶつける。

「実感出来ないと試験にパス出来ないのですか? すぐ分かるうまい方法は本当にないのですか」

 一呼吸おいて高橋教授が質問に答える。

「解析概論を一行一行、一字一句、なめるように繰り返し読むことだな」

 でも、学生は納得出来ない。

 中村彩がみんなを代表するようにして質問する。

「てっとり早く分かる方法は、本当にないのですか。講義では説明してくれないのですか」

 大半の学生は、先生が分かる秘訣を出し惜しみして隠していると思っているのだ。

 メガトンは、高校生時代、どの教科の成績も悪かった。それに、日々バドミントンにのめり込んだ生活を過ごした。そのせいか、先生の言うことが何となく理解出来た。

(自分でやらなきゃ何も進まない。何も得られない。先生は、きっと、そう言いたいのだわ。わたし、頑張る。頑張るわ!

 この先生、顔はやくざみたいに恐いけれど、おもしろそうだわ)

 メガトンだけは高橋教授の話を素直に受け入れた。

 次の高橋教授の回答がメガトンの感想を裏打ちした。

「分かる分からないは感性の問題だ。自分で悟るしかない!」

 教室に声なき声が充満した。

(それじゃあ、何のために教官はいるの? こんな先生、首だわ。授業料泥棒だわ)

 ざわついた教室の中で浜口が学生にとって切実な質問を発した。

「先生、単位を取るには、どんなふうに勉強すればいいのですか?」

 すると、高橋教授が切り返した。

「ぼくも、その秘訣が知りたいのだけれど……。分かったら、教えてくれるかな。落ちる学生が多くて手を焼いています」

 彩が切れ長の目を精一杯開けてつぶやく。「先生も知りたいの?」

 つぶやきに高橋教授はすまして答える。

「僕、一生懸命、単位を取らせようと頑張っています。本当です。でも学生は、僕を拒否します。正直、僕にはどうして拒否するのか分かりません」

 多くの学生が疑いの目を高橋教授に向ける。でも、高橋教授は悪びれない。

「どんなふうに勉強すれば単位が取れるのかが分かったら、是非、僕に教えてください。そうしたら、皆さんに単位取得の秘訣が伝授出来ます」

 これを聞いて、山田が高橋教授の意図を確かめる。

「秘訣なんかない。とにかく、『しっかり勉強しろ』ってことですか?」

 高橋教授は明快に答えたつもりだ。

「数学はおもしろいのだ。数学のおもしろさが分かった人はみんな、単位が取れるはずだ。秘訣はない」

 この答えに彩の目が怪しく燃える。彩は、難しい試験が大好きだ。

(単位を落とす人が溢れれば溢れるほど、良好な成績を取るはずの私の優秀性は際立つはずだわ。

 高橋先生の試験、私には優秀性を示す絶好の機会になるわ。私は絶対にこのチャンスを逃さない)

 一方、浜口は憂鬱だった.

(俺、どうしよう。折角まぐれで合格したのに卒業出来なかったら何にもならない)

 メガトンは、にこにこしている。メガトンは単純なのだ。

(面白さが分かりさえすれば合格なのね。何て楽な学科なの。わたしに、うってつけ。極楽学科だわ)

 理屈っぽい山田は、高橋教授の答えに真剣に考え込んでいる。

(先生は、『数学のおもしろさが分かった学生は、みんな単位が取れる』と言っている。

 ……と言うことは、『単位が取れない学生は、みんな数学のおもしろさが分かっっていない』ことになる。

 ……それでは、数学のおもしろさが分かっっていない学生は、単位が取れるのだろうか、それとも取れないのだろうか?

 うーん! これは難問だぞ!)

 高橋教授は、

(今年は鍛えがいのありそうな学生が入ってきた)

 と、ご満悦だ。

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