第3話 合否判定報告

 十月下旬。くんちが終わると長崎は急に肌寒くなる。

 開門前からメガトンが正門の前をうろうろしている。オランダ坂女子高校のあたりは、まだ暗い。

 やがて、坂の上から青い長崎湾の向こうに稲佐山がくっきり見え始めた。

 黒い革鞄を手に坂を登ってくる担任の先生の姿が、やっとメガトンの大きな目に映った。

 なりは小さいがメガトンの声は大きくよく通る。

「先生、先生! ママさんの言うとおりになったの!」

 メガトンの嬉しそうな大声に、正門から校舎に急ぐセーラー服姿の生徒が何人も振り返る。

 坂を登り終わった担任の先生が尋ねる。息が少し荒い。

「ママが、どうかしたのかい?」

 メガトンが繰り返す。

「ママさんの言うとおりになったの! 奇跡が起こったの」

「奇跡だって?」

「わたし、鵜の木学園に受かったの!」

 担任の先生は、メガトンの言うことが理解出来ないようだ。しばらく不思議そうにメガトンを眺めていた。

「朝早くから悪い冗談はやめたまえ」

 と、言いたいところだった。それをかろうじて踏みとどまった。先生の眠気は、まだ完全には抜けていないようだ。

 不審そうに尋ねる。

「合格通知は持ってきたかい?」

「家にあるわ」

「明日、忘れずに持ってくるのだよ」

 そう言うと、メガトンを置いて、担任の先生は足早に校舎に向かった。

 メガトンが勘違いをしているのかどうか確かめるのが先だと担任は思ったようだ。

 ふたりのやりとりを聞いていた同級生が、メガトンに声を掛ける。

「メガトン、合格おめでとう」

 翌日、合格通知書を確認した担任だったが、それでもまだ信じられなかった。

(どこかで手続きミスがあったのでは? 何かの間違いでは?

『不合格』との訂正通知が来るのでは? 

 訂正通知が来たら、どこを受験させようか?)

 担任の先生は、戦々恐々だった。しかし、訂正通知はついに来なかった。

 担任も驚いたが、メガトンのクラスメートも一様にびっくりした。

「うっそ! メガトンが数学科に進学ですって。メガトン、おつりの計算だって苦手よ」

 メガトンと同じバドミントンクラブに所属する佳子は、正直な感想を漏らした。「子豚ちゃんが眼鏡を掛けて、『数学の専門書とにらめっこ』なんて考えられないわ。どう考えても、メガトンには絵本がお似合いだわ」

 佳子の回りに集まったクラスメートは、みんな同じ意見のようだ。

「私、佳子のその意見に賛成だわ」

 お下げ髪の美保は噂好きだ。早速、会話に加わった。

「でもメガトン、単位を落とすと一年で退学だそうよ。……そう聞いたわ、私」

「それじゃあ、メガトン、一年したら、また受験なのね。それでも、進学するつもりかしら?」

 そう発言する女生徒に、メガトンを心配している様子はない。むしろ、おもしろがっているようだ。

「鵜の木学園に入って、数学をかじってみるか。はたまた、退学の心配のない別の大学を受験するのか。……メガトン、深刻に悩んでいるのでしょうね」

 三年近く同じクラブで過ごした佳子は、メガトンの性格を見抜いている。あっさり、悩んでいるとの意見を否定する。

「あの能天気なメガトンが、そんなことで悩むはずないわ」

「悩んでいないの? いくらメガトンでも卒業出来るなんて考えていないと思うけどなあ」

 それを聞いて、美保が自信ありげに頰を膨らまして言う。

「メガトン、卒業出来るつもりのようよ」

「本当?」

 美保は仕入れてきたばかりのネタを自慢げに披露する。

「大学に入ったら、優秀な家庭教師が付くから大丈夫。分からないことは、メールで質問する。……メガトン、そう言っていたわ」

「大学生に家庭教師ですって! 家庭教師が務まるような人、本当にいるのかしら? いたとしても、メガトンを相手にしている暇はないと思うけどなあ」

 佳子の素朴な質問に答える美保は、噂を流すことが出来て嬉しそうだ。意味ありげに声を落として言う。

「私も、そう思ったの。……でも、頼りになる人がいるのですって」

「本当に? メガトンが頼りにしているのはいったい誰なの?」

 美保は、すぐには答えない。みんなの視線を十分に集めてから、うれしそうにネタをばらす。

「お母さんだそうよ」

 すると一呼吸おいて、笑い声がつぎつぎに広がった。

 笑いを必死にこらえて佳子が呟いた。

「メガトンは、まだママのおっぱいが恋しい子豚ちゃんなのね」

「それにしても、どこか変だわ」

 怪訝そうな美保に、佳子が訊く。

「何が変なの?」

「だって、今までも優秀な家庭教師がいたはずよねえ」

 佳子が美保の疑問を理解する。

「言いたいことが分かったわ。……『お母さん』という優秀な家庭教師がいたはずなのに、なんであんなに数学音痴なのかって、言いたいのね」

「その通り!」

「やっぱりメガトンは前途多難ね」

「そう思っていないのは本人だけだわ」

 早々と進学先を確保したメガトンは、クラスメートのこんな『心配』と『やっかみ』をよそに、いつも満面の笑みだった。

 もちろんメガトンは、他大学を受験する気などさらさらない。

(何をするにも、体が大事! 体が資本! 最後は体力)

 と、毎日せっせと走り込むのだった。

 バドミントンクラブの後輩は、気持ちよさそうに疾走する小さな先輩に追いつけず四苦八苦だった。

 前ばかり見るメガトンは、後輩の苦労が分からない。

 ただただ明るい未来が広がっているようで、何もかもが楽しいのだ。

 ただ一つのメガトンの気がかりは、母の体調だ。

 そのメガトンの母の病室の奥まで、西日が入り込んでいる。緑に覆われた稲佐山に夕日が沈んでいく。ベッドの上を通った西日で病室の白い壁がオレンジ色に輝いている。

 六階の病室の窓から、母は水辺の森公園の向こうに続く長崎湾を見下ろしている。

 五島に向かうフェリーの白いマストが湾の青をバックに、女神大橋へと滑っていく。

 やることもなく病室にこもっている母は、動くものを見るとほっとするのだ。

 優秀な家庭教師と期待される母は、喜びに溢れた娘からの数日前の報告を思い出した。

「わたし、鵜の木学園に合格したの。ママさんの後輩になるのよ。ママさんの言っていたように、奇蹟が起こったの。だから、ママさんも元気になるわ。きっとだわ」

 興奮する娘の声を聞いてから体調がすこぶるよい。

 窓下の大浦海岸通りを路面電車が、

「うっうーーん」

 と、唸ってゴトゴト走り去っていく。同時に松ヶ枝埠頭にさしかかったフェリーが汽笛を鳴らす。

(飛び跳ねるのは大好きだけれど、勉強嫌いの雅子が数学科に進学するなんて信じられないわ。やはり血なのね。……わたしがこの世に残せるのは雅子だけ。頑張るのよ、雅子)

 クラブ活動を終え、石畳のオランダ坂を駆け下り、メガトンがもうすぐ面会に来るはずだ。

 いつも、

「おしゃべりにも、点と丸は大切よ」

 と、注意する母だ。

 でも、句読点のないメガトンのおしゃべりが、母には小鳥の囀りのように心地よい。

(あと五分)

 腕時計の分針を確かめた母は、メガトンが待ち遠しい。

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