月魄に恋した水母は

 月曜日。いつも通りの授業をやり過ごし、俺は掃除当番の任務を遂行していた。

 サボり魔連中がフケてしまうのもわかっていたが至極一人でやるだけで重労働だ。それも、まあ、あと少しで終わりなんだけどね。


 ガラリと音を立てて教室の後ろから誰かが入ってくる。

 その人はクラスで一番人気のオンナノコ。お硬くて、頭が良くて、辛辣で、とびっきり美人な俺の憧れ。正確に言うと憧れだった人。


「なんだ、帰宅部なのにまだ帰ってなかったんだな」


 投げかけた言葉がからかいのようになってしまうのは、きっと村瀬海月むらせ みづきという女の子みたいな男の子にまだ慣れてないからなんだろう。なに、距離は今から考えてけばいい。


「うん。ちょっとあなたに伝えたいことがあったから」


 ……。

 あのあと俺たちはぐちゃぐちゃになった村瀬さんを化粧室に押し込めて、——そのまま解散した。

 レーニには『これ以上泣き顔を晒すわけにはいかない』、『落ち着くまでいるから先に帰って』、『今日はご飯ありがとう』とまくし立てられ、そのまま一時間以上出てこなかったので帰らざるを得なかったのだ。


「それで、これからは女として生きていくってことなのか? 今日の村瀬さんを見る限りはそんな感じみたいだけど」


 俺のそんな浅はかな言葉に村瀬海月むらせ みづきははにかむ。それと連動してドクンと一つ不整に心臓が脈打つ。全く、相手は生物学上は男だというのに未だに心は俺を裏切る。


「いや、そのつもりはない」

「それじゃまたどうして女子の制服のままで?」


だって、と苦笑いするところすら可愛く見えるのはほんと、反則だ。


「いきなり男子の格好で出てきても皆も驚くだけでしょ。そんな民衆にいきなり銃弾を放つようなことしないよ」

「しかねないと思ってるからこそこの反応なんだよ」


 ヒドロゾア、村瀬海月。今まで付き合っていた彼女、あるいは彼の性格を勘案するに、そうと決めたらきっとやっている。そのことに周りの人間なんて関係ない。今までそれと決めず悩んでいたから惰性に生きていただけなのだ。そのことに適応できず、不眠を患った。俺はそう見ている。


「ひどいなぁ」


 俺の内心を知ってか知らずか村瀬さんは頰を膨らませて怒る。こんな姿も、——なんて感想は忘れろ!


「私だって考えたよ。町田くんや他の男子と混ざって休み時間にバスケしたり、昨日のAVがどうのって話にケラケラ笑って、町田くんに奢り奢られて、」


 言われるまま想像する。その楽しさを、その悲しさを。


「町田くんとは結構仲良い方の友達になって、って」


 でもさ、と悪戯っぽく目の前のオンナノコは言う。


「せっかく迎えにきてくれた王子様が責任取らずに共犯者になるのは許せないな、って思ったの」


 空白。


「おもったの、って。いやいやいやいや、わけわかんねえし。というか論理が破綻してないか?!」

「意味わかんない、って仕方なくない? だって、——」


 ——こい、しちゃったわけだし。


 頭の中で反芻してエラーを繰り返す。こい? 故意、濃い、鯉、乞い、まさか、恋?

 心は鋼と塩とちょっとのヒ素でできていると巷で噂の鉄面美人、村瀬海月が、恋?

 誰に? 俺に?

 それこそまさかだ、ありえない。


「いや、口をぽかーんとしてまで驚かなくてもいいでしょ。生物学上男とはいえ、私は女の子! アイム、女子! 少なくともそう育てられてるんだからさ」


 それとも迷惑、と上目遣いする村瀬さん。

 なんというかそれはちょっと、——ズルすぎやしないか?


「それで、責任取ってくれるの?」


 そう背中で手を組み科を作る彼女にホールドアップする。白旗を上げざるをえまい。


「……仕方ないな」


 憮然とした声と表情を意識する。

 わかっている。きっとこの関係はいつか破綻する。彼女は男で、俺も男だ。誰が決めたかもわからないこの仕切りのこっち側に二人ともがいる限り、二人の関係は円満には終わらない。


「それじゃ、これからよろしく」


 でも、彼女に力づくでこじ開けられた恋心が言っている。


「後悔はさせないよ」


 そう、彼女に返事して。そのまま恋心に従った。


 教室の真ん中、並べかけの机の真ん中で。人々のコンテキストの中では一人の男と女が二つの影を一つにする。

 自らを海月と紛った海を揺蕩う月の妖精は水母にはなれないと知りながら、今日もクラゲの群れに溶けていく。

 これは電子の海に出会った。ちっぽけなクラゲと天にきらめく満月の恋物語だ。

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電子の海の月 深恵 遊子 @toubun76

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