海月は水母を夢見る

 町田の奢りが決まったゲームの直後、奴はこんなことを言い出した。


「あ、食事終わったら水族館行くから元の服に着替えてくれるか」


 反射で弄んでいたボールを奴の顔にぶつけてしまった。初めから水族館に行く予定があるなら男装する前に組め、もしくは最初に連絡しろとそのままの勢いで怒鳴りもした。

 化粧道具を持ってきてるとはいえ手間がかかってるんだよふざけんな。

 きっと奴の祖先は馬か何かだ。それを受けてもそんなものは念仏と一緒だとばかりに顔をさすりながら曖昧な笑いを浮かべるばかりだった。


 それでも一番腹立つのはそこまで怒り心頭でも着替えて化粧までしちゃう私である。なんであんな奴の言うことを聞いてしまうのか。わけがわからない。

 奴に脅されているというのもあるのだが、なぜか奴のことを嫌いきれず奴の謀に従ってしまうのだ。お陰で腹の底にモヤモヤとしたものがたまって仕方ない。


 その後の食事はむすっとした表情の私とヘラヘラとした奴の間に沈黙が漂う苦痛なものとだった。その苦痛をちっとも奴が感じていない風でキレるかと思った。




 お目当ての水族館は昼食をとったファミレスから徒歩三分の場所。

 さすが土曜日。親子連れやカップルの姿で一面が埋め尽くされている。その中に入るのかと思うとちょっと億劫になる。足取りを重くして進んでいると手首をふわりと掴まれ軽く引き寄せられる。


「——はぐれるから、」


 そう言う町田の顔は照れているのか少し顔が赤かった。コイツこういう顔もできたのか。新鮮な表情に虚を衝かれ、パチクリと目を瞬かせてしまう。ふとすると先程までの気持ちも忘れるほどに意外な表情だったのだ。


 その後は不思議なほどイラつきはなかった。イルカのショーで飛び散る潮くさい水しぶきを浴びたりペンギンの餌付けを体験をしたり、ともすると普通のカップル以上に楽しんでしまっていたのではないだろうか。始まりがアレだったとは思えないほどの充実。

 イワシの群れが球のように泳ぐのを綺麗だと私がはしゃぎ、大水槽展示に「美味しそう」と呟く町田に突っ込み、熱帯魚の泳ぐ様を二人で覗き込んだ。それはいつか夢見たような光景で町田への怒りなんてどこかへと完全に吹き飛んでいた。


 そして、——。


「——終点だね」


 気づけばずっと握られていた町田の手が放される。少しの違和感にグッパと手を握る。いつのまにか手を握られているのが普通になっていたみたいだ。

 見渡せば色とりどりのクラゲが光るイベント展示。ハナガサクラゲ、ヒドラ、カツオノエボシ、ベニクラゲにミズクラゲ。それぞれがそれぞれに輝くよう水槽の中でライトアップされていた。


「悪いけど私、」


 口を衝くのはいつも自己紹介で語るいつもの言葉。いつも通りに澄ました顔で口にしようとして、


「"こんな名前なんだけどぉクラゲってそんなに好きじゃないんだよねぇ"、かな」


 それは用意していたかのように町田の口から滑り出した。いつもいつも先回りして気持ち悪い奴、なんて自分の中で毒づく。それなのに言葉は全く違う気持ちを紡いでいた。


「……そ、そう! でも、そ、それで私の真似してるつもり? 私はそんな声出さないから!」


 強がる言葉も作れないまま思わず吃ってしまう。別に慌てる理由なんてないのに。

 そして、少し疑問がよぎる。その言葉を言えるのなら私がここに来たがらないとわかった上で連れて来たってこと?


「なんでこんなところに連れてきたの?」

「えっと思い当たる節はないの? 全く?」


 そう言われて首をかしげる。

 言われても思い当たる節なんてなくわざわざこんなところに連れてくる理由になんてならない。

 少しもピンと来てない私に呆れたようにため息をつく町田の姿がある。わけがわからない。コイツはいきなり何を言いだすのだ。


「"水族館でデートするの。それで最後にクラゲの水槽の前で指輪を差し出されてぷろぽ"、——」

「わーーーーーーーーーッッ!!!!!」


 思わずわけのわからない・・・・・・・・ことを宣う町田の声を大声で打ち消した。顔がチーク以上に赤くなり、耳も湯だったように熱くなる。

 ふざけるなふざけるな、ふざけるなっ! 往来で何を抜かすのだこのバカは!!

 突然大声を上げる私に周囲の視線が突き刺さっていた。反射のように身は縮こまる。体を小さくした分、熱はより顔に集まっていく。

 本当に、——なぜそれを知っている!!


「ほらほら、子供じゃないんだからお静かにだぞ、くらげちゃん」

「クラゲって言うな! 海月みづきだからっ」

「でも、自分でそう名乗ってるよね」


 ケラケラと笑いながらからかう町田の顔は真剣で、


「"電子の海に月はなく、 夢見る海月が一匹泳ぐだけなの"」

「ナニそのポエム?」


 私はついつい怪訝な顔をしてしまう。誰がそんな痛々しい思春期真っ盛りの詩じみたものを、


「ペンネーム、ヒドロゾアさんからのお便りです」


 詠んだと言うの、


「"ツンと澄ましてガラスを挟んだ魚たちに囁くの"、"私は綺麗よねって、食べたくなるわよねって"、"でも残念ね"、"水槽が違うあなたでは私にきっと届かない"、"仲間を装うクラゲたちが私の方にふらふら寄り添うの"、"あなたは綺麗よねって、たべたくなっちゃうよって"、"でも生憎ね"、"同じ夢見る海月ヒドロゾアでもあなたは外連な花笠フォルモサ、私はもっと他の何かなの"、"きっとそれは愛の囁きに夢見てる"、"醒なく性に憧れた、砂間の醜い虫オクトダイドなのだから"」


 学名、ハラッモヒドラ=オクトダイド。その言葉に私はそれの詠み人に思い当たる。思い当たるのだけど、——認めたくない。

 私はこんな詩は詠まないし詠むつもりもない。痛々しく痛々しい姿を晒す痛々しい私なんて知らない。……知りたくなかった。


「ほら、俺って演劇部で脚本やってるじゃない。そこで出会い系をテーマに一本やろうという話になったわけ」

「……いきなり何を言うのよ。いいわ、聞いてあげる」


 私の百面相に町田は背を向けてそう言い、私は私で先ほどのポエムを無視しそう返した。乗る私もどうかと思うけど、私も町田がどうしてヒドロゾアの正体に気づいたのか知りたいのだ。


「それで実情を知るためにそういうところに登録した、って言うのね」

「そう」


 先ほどまでの芝居がかった口調からは一転してしみじみと町田は話し出す。表情は、暗くはない。


「その時に偶然出会ったんだよなぁ。ヒドロゾアさんとは」


 語り口は古いトモダチの昔話をするように自然だ。


「最初はビビったよ。変な人だと思ったし、薬やってんじゃないかとも思った。というかやってたけどな」


 でも、とそこで町田は言葉を切る。


「——それ以上に面白い人だと思ったよ」


 実感がわかない。ヒドロゾアとは私のことであるのに、私が褒められている気がしない。

 目の前の男にとっての私とは『委員長』であるはずで『ヒドロゾア』と結びつくはずがないのだから当然か。

 彼がヒドロゾアという存在を知っていてもそれがイコールで委員長に結びつくなんてありえないのだ。


「彼女の悩みを聞いた」


 町田はクラゲの浮かぶ水槽を眺めながらそう告げる。


「彼女は自分をスナアイヒドラと呼んだ。彼女にとって『大人になる』ってことは子供を自ら産んで自ら育てる母親になれることだった。でも彼女には彼女自身が大人になった証である『とあること』がなかった」


 大きな声で言えないけどね、と恥ずかしげに町田は言うと続ける。


「クラゲっていうのはヒドロ虫の仲間の中では完全に大人になった姿なんだって。で、スナアイヒドラっていうのは一生涯、クラゲにならない種類なんだそうだ。その種に彼女が自分を重ねたのはその『とあること』が起因してる。そう、彼女は、」


 そう、私は、


「——十七になるそのとしになっても初潮が来なかったから」


 それだけじゃなく、


「それで話は終わらない。不安に駆られた彼女は産婦人科に行くんだ。そこで叩きつけられた事実は彼女という一人の人間を粉々に壊しちゃった。酷な話だよね、漠然と『私の王子様にこういう告白をされたい』なんて素面じゃないとしても言えちゃう女の子に——男だなんて事実」


 そっか、そこまで町田は知ってたわけだ。ホントに全部知ってたのか。


「アンドロゲン……不応症、だっけ? そんな病気」


 知ってて、私の夢に付き合ってくれたのだ。


「でも、俺は夢も聞いたんだ」


 ガラスの中のクラゲは澄ました顔で海水にもがいている。町田にはクラゲたちがどのように見えているのだろうか。


「"いつか王子様が……"なんて乙女染みた夢と"男として何も考えず混じることができる容姿であれば"なんて、無理難題だ」


 町田はクスリと笑う。何がおかしいのだろうか。

 熱くなったままの頰を膨らませて少し怒る。目元のあたりに力が入る。


「叶えてあげたいと思ったんだ。"俺は王子様にはなれないけれど一緒に男友達として遊んで下品にゲラゲラ笑うことくらいはできるよ"って約束しちゃうくらいには。ゲラゲラ笑うキャラでもないくせにそんなことまで」

「でも私は、そんな約束覚えてなんか、」

「そうなんだよなー。ヒドロゾアさんって毎度のごとく俺のこと忘れてんだよ。毎回毎回『はじめまして』で始めるの結構面倒だったよ」


 それには心当たりが、あった。


「オーバードーズしてる時にしかネットで出会わなかったもんな。あんまりにも俺のこと忘れるから調べてみたけど眠剤みんざいって健忘引き起こすんだろ?」


 目元が緩んで口元がひきつる。あはは、バレてた。


「だから、俺に『委員長か』って言われて超絶焦って通話をぶち切ったのも忘れてる」

「ナニソレ」


 頭の中でチベット辺境在住キツネさんの顔が浮かぶ。疑問符の森だ。


「忘れてるかもしれないけど、この間も香織のやつに言われて傷ついてたろ。『男なんて気持ち悪い』『男に生まれるなんて不幸だ』『男であることが犯罪の第一歩だ』って。アイツは自分の嫌だった経験をすぐ近くにいる君へと話したがるから」

「それは、別に傷ついてなんか」

「傷ついてたさ。俺に連日夜通しでそれを愚痴る程度には……俺がその話が香織のこと言ってるって感づくくらいにはね」


 そんなこと細かく喋ってたとは思いもしなかった。ホントに薬のキマった私は考えなしだったようだ。


「うん、そしたら俺にも少しは責任がある。責任取らなきゃな、って」

「責任?」

「そ、責任。まだ男として生きるか、女として生きるか決まってないって言ってたからそれを決める材料に『夢』叶えてあげようって」


 それも言ったの、だろうな。今日までの数日親の仇とばかりに疎んでいた相手が実は最大の理解者だったとは思いもしなかった。

 同時に疑問が一つ解消した。いろんな手間をかけさせられて、怒りが湧いてたはずなのにすぐにしぼんだ理由。それはきっと心の底で私がそれをしてみたかったから。町田の奴がそれを叶えてくれていたから。


「今日ここでこんな風にしてる理由はこんな感じ。委員長の夢が『告白されたい』って夢だったらこんな風に終わっても良かったのかもしれないけれど、」


 今まで水槽から水面を見ていた町田はこちらを振り返る。


「俺はね、ヒドロゾアさん、いや、村瀬海月むらせ みづきさん。君は自分を醜い砂虫オクトダイドだと言っていたけれど、」


 照れ笑いする彼。少年のような顔に、


「電子の海を漂っているクラゲな俺は君のことを海面に写る月だと思ってたよ」


 少しときめいて、……痛々しさに耐えきれずに吹き出した。


「——意味不明だし」

「悪かったな。ポエマーな誰かさんに合わせた方がいいかと思ったんだよ」

「でも、」


 ありがとう。その言葉をちゃんと言えたか私にはわからない。

 いつのまにか私の顔は涙と鼻水でボロボロになってて、目の前の町田が焦っていた。ウケる、町田ってすごくすごくいい奴だ。

 ふと、霞んだ視界の中でミズクラゲの水槽、その水面に黄色い光が揺蕩っているのが見えた。町田はずっとこれを見てたのか。そう思うと、少し、笑えた。

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