まるで水槽の中の海月のように

 コーヒーの香り漂う喫茶店。私と町田は二人きり向かい合って座っていた。

 しかし、その空気は甘ったるいものではなく、

「それで……あれはなんのつもり?」


 こちらが不機嫌を露わにしても町田は表情を崩さず、ただただコーヒーを啜っている。こちらにも我慢の限界はある。これ以上引っ張るのなら強引にでも、と考えていたところで、

「本当にあのアカウントは君なのか聞きたかった。それだけだよ」

と、淡白に町田は言い放つ。


 それだけ、とはなんだ。私にとって今回のことはそんな些細なことではない。私の重要な秘密が掴まれているかどうかの瀬戸際なのだ。


「本当にって何? あそこまで言っておいて自信がなかったの?」

「自信はあったさ」

「なら、どういうつもりで言ったのかしら?」


 いつもよりキツくなった自覚のある声色で町田を刺す。こういう飄々とした手合いは嫌いなのだ。


「確認、みたいなものかな」

「確認?」

「でもまあ、覚えてないんじゃしょうがないよね」


 そんな意味不明なことを言って町田は頭をくしゃくしゃと掻き、眉をひそめ始める。いくつかのことをボソボソと呟き自分の中でそれらが解決したのか私の方を見る。悩んだような顔のままだ。


「——四つだったかな」

「四つ?」

「あのサイトを含めて俺が知っている君のSNSのアカウント数だ」


 背中に冷たい汗が伝った。同時に顔が歪んだのも感じる。なんでそんなことまで知っているのだ。私が連絡やネットでの交流にメインで使っているアカウント数はちょうど四つなのだ。連絡用のアプリ、登録している出会い系のアプリ三つ、全部で四つだ。

 これでクラスの人らにそこでやっていることを公表されたら私の学生生活は文字通り終わってしまう。


「それって脅しのつもりかしら? 当てずっぽうで当てたアカウント数でなにを脅す気なの?そして私に何を要求するつもり?」

「そうじゃないって」

「言い逃れするつもりね。何か私にできると思ってるならやって、」


 怖かった。誰にも見られていないと思った本性が剥がれてしまったようにも感じた。何より「委員長をやってる女子」としての仮面が剥がれた時私がどうなるかわからなかった。わかりたくもない。

 そもそもクラスメイトにはSNSに登録していることすら仄めかしていないのだ。それが露見する余地なんて少しもない。

 リアルとあまりにも違う私の姿は十分に現実の仮面を剥がせるだけの力を持つ。

 だから、徹底的に戦う意思を見せるために、


「——やってみなさいよ!」


 そう言うつもりだった。


 でも言えなかった。理由は簡単だ。テーブルに手を叩きつけてそう言おうとした瞬間に携帯が鳴り出したのだ。

 メッセージアプリの着信音。その音源は私のすぐ近くにあった。

 町田は顎をしゃくって通話に出るよう促した。それに従うのは癪だったが出てみる。相手に悪いし、事情を伝えてすぐ切ればいいだけだ。名前に見覚えはないが通話は女性からのものであるようだ。


「もしもし」

『——もしもし』

 

 もしもし、と返した言葉に反響するように女性の声……私の声が聞こえる。目の前の男がゆっくりと机の下から手を出してスマホを耳に当てる。私はそこで初めて通話相手の名前を見た。

「千田雪」。なんと読むかはわからないが、これでわかったことが一つ。

 通話を切り、目の前の男を睨む。


「なんで私のレーニにあなたの連絡先が登録されてるのかしら?」

「登録されてるならそういうことでしょう」


 手口はわからないが私のネットでのアカウントを探り当て、私の連絡先を勝手に登録されていた。この男は本当に最低のストーカー野郎だったらしい。


「ネットのみならず現実でまでストーカーの真似事までして私に何をさせたいの? 体が目的? まあ、男だものね、女を犯して征服したいわよね」


 半ば皮肉を込めて言うもストーカー野郎はどこか悲しげな顔をするばかりだ。それは哀れなものを見たときのような表情に似ていた。

 馬鹿にされている本能的にそう思った。

 無性に腹の底からふつふつと怒りが湧いてくる。


「すればいいんじゃない? あなたがしたいように、人形にまたがるみたいに性欲を満たしちゃえばいいんじゃない? いいわよ、それであんたが満足するならダッチワイフだろうとなんだろうとなってやるわよ!」


 怒りは収まらず、言葉は次から次に溢れてくる。目の前の男はそれを黙って聞くばかりだ。思わず腰が上がった。ギギギッと椅子が大きな音を立てる。


「なんとか言ってみなさいよ!」


 その自分の怒鳴り声で周りの注目を浴びたことに気づいた。いや、もしかしたらもっと前から見られていたのかもしれない。

 その視線に気勢を削がれ、恥ずかしさすら感じる。思わず、座り込む。


「言いたいことはそれで全部かな?」

「まだ言い足りないくらい」


 ブスッとした表情で心なし小さな声でそう返すと、


「そっか。なら委員長が思いたいように思うといい。俺のことはネットストーカーでもなんとでも」


 目の前の男はそう言って続ける。


「俺は眠りにつくまで君が見知らぬ男とアプリで喋っているという事実を知ってる。ネットで何人もの男に性交渉に誘われることにイラついてたり、向精神薬を乱用して普段の生活のストレスを発散していることも知ってる」


 全部正しく事実だった。知られたくないことが全て知られているのではないかという恐怖に襲われるほどに。

 今にも恐慌に陥りそうになる自分に喝を入れる。こんな奴相手にくじけてはダメだ。


「——うん、君のほとんどの秘密を知ってると言っても過言じゃないと思うよ」


 思考が凍った。毛が逆立った。


「だから、この事をバラされたくなければ週末、俺に付き合ってもらう」


 気づいたら手が出ていた。

 ぬるくなったコーヒーのカップを相手の顔めがけて振りかぶる。綺麗な軌跡を描いて黒い液体は相手の顔に直撃し、私はすぐに喫茶店を立ち去った。

 空を見ると大きな雲が覆っている。雨が薫って、夕立を匂わせていた。


 その後、降りしきる雨の中レーニには事務的に『土曜日午前十時に役水やくみ駅、銅像前で待て(雨天順延。延期時の予定日は翌週土曜日。服装自由)』とだけ送られてきた。


 雨は三日三晩降り続き、約束の朝。

 窓から漏れやがる陽の光。チュンチュンと鳴く不愉快な小鳥の声。珍しく朝早い母親が料理をする音。

 あいにく、長く続いた雨も品切れで一番降って欲しい時に上がってしまった。不愉快な天気に起き抜けから舌打ちをする。

 時計は短い針が八を指していた。待ち合わせまで余裕がある。


「あー、もう行きたくないなぁ」


 この時間に起きてしまったものは仕方がない。デートっぽい格好にくらいするか。

 女ってめんどくさいな、なんて思いながら私は化粧ポーチを机に投げ置いて朝食を摂りに向かった。




 腕時計をチラリと見ると待ち合わせの十分前。ちょうどいいくらいについてしまったらしい。

 十時とはいえ土曜日なので駅の構内には人の群れが蠢いている。約束の場所は南口の人気のない場所にある。……デートの待ち合わせの定番の場所でもあるが。

 改札を抜けて肩からかけたキャメルのポシェットへ定期を仕舞う。オフショルダーの白いワンピースに寄ったシワを少しのばし、鞄から出したいつもの銀縁をかける。シニヨンにまとめた髪は崩れていない。


「よし」


 戦の準備は上々と言ったところ。

 見回すと子供が遊んでいる銅像の前に異様な奴がいた。控えめにいうと全身真っ黒。

 奴だ。

 強い日差しの中、暑そうなそぶりすら見せず黒シャツに黒チノという姿を貫いている。

 最悪だ。

 あいつと一緒に歩くのかと思って茶色のサンダルが少し重く感じる。図らずもバカップルのような構図になってしまったことに思わずため息すら出てしまう。


 その瞬間、町田の顔が上がり、——目が合った。

 私の顔が険しくでもなっていたのか奴は苦く笑うと私の方へ歩いてくる。生意気にもシルバーをつけているのが首元から覗いた。

 奴は私の格好を見て感心するように頷き、


「嫌そうな顔するなよ」


 悲しくなるだろ、なんて半笑いで言って、


「じゃ、まずは服でも見ようか」


と私の返答すら聞かず私に背を向けゆっくりと歩き出すのだった。殺してやろうかと思った。


 ————で、


「どうして私が男物の服を着ることになっているわけかしら。説明してもらえるわけよね?」


 受付を終えて歩いてくる男にニッコリと笑いかける。

 あれから一時間の後、私たちは最寄りのスポーツ施設……というか屋外のバスケットコートにいた。なぜか私は男物の服を着せられて。

 明るい色のジーパンに白いティーシャツ。上からグレーのパーカーを羽織り、挙げ句の果てには赤いスニーカーに履き替えさせられた。正直、これまでにないくらい靴が緩くていつ脱げるのか心配になる。

 選んでる時は町田の服でも見てるのかと思っていたのだがここについた途端これを投げ渡された。


「更衣室で着替えてこいよ。受付とか諸々済ませてくるから」


 なんて抜け抜けとあの男は言ってきた。ホントにどういう神経を持っているのだ。お前がデートというからある程度それっぽい服をと思ってきてきたというのに。服装に合わないからという理由で泣く泣く化粧も落とした。

 奴め、呪い殺してやろうか。


「この後、スポーツする予定だったからね。流石に膝丈より長いとはいえワンピースで走って跳ねてってしたくないでしょ。ジャージでもよかったけどついでもあったし」

「ついで?」

「約束がね。詳しくは後で話すよ」


 この男はまた訳のわからんことを。ろくな理由じゃなければ許さねえ。


「で、バスケコートに来たってことは元々バスケットする予定だったんでしょう」

「うん、まあ」

「初めから告知されればそれなりの準備もできた訳だけど」

 

 化粧をしないとか、化粧をしないとか、化粧しないとかね。

 こちとらナチュラルに見える小綺麗なメイクしてたんだぞこんにゃろう! 透明感をこんなクソ暑い時期に頑張ったのに、——私の二十分を返せ!


「それも理由ありき、かな。とりあえずワンオンワンしよっか。負けたら昼飯奢りな」

「はぁ!?」


 何をこいつは。

 町田の奴、確か文化部だったよね。なんだってこのタイミングでそんなことを言ってくるんだろうか。それなりに自信があるの?


「これも今日の日程の一環だっていうなら、……いいわ。乗ってあげる」

「よし、じゃあ始めよう。俺のオフェンスからでいいかな?」


 町田が慣れた手つきで腰を低くしてボールを衝く。そのまま私が所定の位置についたのを見ると、そのまま走り出す。

 咄嗟すぎて体がこわばる。これはいけない。


 ——抜かれる、

 そう思うより早く、経験はボールを追うように目を動かす。

 フェイントはない。足の運びがそれを語っている。典型的なドライブしかないと何より勘が囁いている。

 手と地面を行き来する茶色い球はその空隙で無防備を晒している。舐められているのだろうかと思うほどその動きは緩慢だ。

 手は掬い取るように。勢いづいて駆けてくる町田に合わせるように上体と足が位置取っていく。

 忘れたと思っていても以外と体は覚えているものらしい。


「——え?」


 間抜けた声を町田が溢した。少しすっとする。この男のこんな間抜けなところを見れるとは。


 トントン、と球を衝き、指の上でクルクルと回す。

 軽い挑発だ。まあ、町田のやつはどこ吹く風、暖簾に腕押しだ。


「いやぁ、バスケうまいんだね」


 なんて能天気に宣っている。そのアホ面にまた苛立ちを覚える。ホントにこいつは。


「そりゃ、中学の頃は部で主将だったし」

「たしかにそんなのどっかで聞いた気がする」

「男子の中でもそこそこやれる自信がある私に、文化部の町田が1on1なんて片腹痛いわ」


 嘲る私に町田はにへらと笑ったまま。なんだこいつ。

 髪の毛をゴムで縛りながら睨め付ける。


「でも、高二の夏にやめたんでしょう?」


 この男、本当にデリカシーないな。こいつの目耳は人の気持ちを探れないらしい。人の地雷を悉く踏み荒らしていく。

 その理由はもちろん精神に不調をきたしたから、だ。

 奴に返答はしない。ただ、こいつは心の許さねえリストに名前を連ねるな、と思いながらスタート位置に。

 町田がヘラヘラとディフェンス位置についたのを見て速攻で駆け出す。


 こいつだけは許しちゃ置けない。頭の中で三つルートを描いて、その中で一番トリッキーな動きを組み入れていく。

 オフェンスとは打って変わってディフェンスの動きは素人臭い。怒りに任せてドリブルをする。

 目の前までドライブをキメ、そこで反転し一歩。ボールを持ってしゃがんで二歩目、三歩目で飛び上がり上体を反らしながら、


「シッ」


 投げたボールは綺麗な弧を描き、ボスッとゴールを揺らす。一ポイント先取だ。

 私はこの後奴と食事することになることも忘れて球と戯れていった。

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